03:不思議な夢と早朝の来訪者
気が付くと、ジルコニアは自室の大きな窓の近くに立っていた。
唐突に、これが夢の中であることに気付いた。
ガラス越しに空を見上げると、青い彼方へと吸い込まれていく無数の赤い紙風船が見えた。紙風船はごく軽い紙で作られており、小さなキャンドルを中に入れて空へと飛ばす仕組みになっている。
この赤い紙風船は、聖女祭の始まりを告げる合図だ。
本来なら3ヶ月先にある聖女祭が始まっているとは、いかにも夢らしい。
「……どうせ夢なら、鳥になって空を飛んでみたかったわ」
その場で何度か跳ねるが、飛ぶ気配はない。
突然、ノックの音が部屋に飛び込んできた。
返事をする前にドアが開かれる。そこにはクロヴァの姿があった。
(クロヴァ様のことを考えていたから、夢の中まで彼が出てきてしまったのね)
気まずいやら、恥ずかしいやらで動けずにいると、彼は勝手知ったる様子で中に入ってくる。
ジルコニアは居心地の悪さをごまかすため、慌てて声をかける。
「クロヴァ様、申し訳ありません。夢の中にまでお越しいただいて」
彼は聞こえていないようで、返事どころか視線すら向けない。ベッドの脇に膝をつき、中を覗き込んだ。
ジルコニアはそれを視線で追い、初めてベッドの中に誰かがいることに気付いた。
気になってベッドの近くに行くと、病人が横たわっていた。
輝きをなくした金髪、土気色の顔色、落ちくぼんだ瞳、やせ細った首。
呼吸でわずかに胸が上下していることだけが、病人の生存を知る唯一の手掛かりだった。
自室にいる見知らぬ人に怖くなり、ジルコニアは彼に聞く。
「この方はどなたで――」
「ジルコニア、起きてるか?」
「えっ、これ……私?」
クロヴァはベッドに横たわる病人をジルコニアと呼んだ。
「これは私なのですか?」
尋ねるが、彼からの反応はない。まったく見たり聞こえたりしていないようだった。
「……不思議な夢だわ」
ジルコニアは一歩引いて、夢の成り行きを見守ることにした。
ベッドの中の病人のジルコニアが、黒ずんだまぶたをゆっくりと開ける。かすかに開いた隙間から、瞳を動かしてクロヴァを見た。
細い呼吸の合間に、かすれた声で言う。
「わたしは、死ぬのね」
ひび割れた唇をゆがませて、ため息のように笑った。
「じごう、じとく、かしら。聖女に、ひどいことを、して」
「君は何も悪くない。俺が悪いんだ」
「あなたの、忠告を、きかなかった、から」
「責められるべきは俺だ。俺なんだ」
シーツの下で手が動くのが見える。クロヴァはシーツを優しくめくり、両手で彼女の手のひらを包んだ。
その手を額に当て、懺悔するように言う。
「苦しませて、すまない。俺のせいなんだ。何度やっても救えない……」
クロヴァは言葉に詰まり、うずくまるようにうつむいた。震える呼吸を繰り返す。
やがて、顔を上げた。その表情は涙をこらえているように見えた。
彼はためらうように視線を外し、唇を一度かみしめた後、ベッドの中のジルコニアに向き直った。
「抱きしめてもいいだろうか」
彼女は少しだけ間を置き、頷いた。
クロヴァは片方の腕を首の下に差し入れ、もう片方の腕を胸の上から回して、横から覆いかぶさるようにして抱きしめる。
病人の彼女をできるだけ動かさないよう配慮しているのがわかる。
抱きしめられた彼女は、深く息を吸って、吐く息と共につぶやいた。
「まるで、あいしてる、みたいね」
クロヴァはそれに答えず、ただ優しく抱擁を続ける。
しばらくは二人の呼吸の音だけが聞こえた。
横たわるジルコニアの目に、涙が浮かんだ。
「――おそかったわ。なにもかも」
抑揚のない声であるが、横で見守っていたジルコニアは、目の前の彼女の感情が痛いほど伝わってきた。
クロヴァを心から愛していること。
そのクロヴァに、心から愛されたかったこと。
ベッドの中のジルコニアの目じりから、涙が一筋こぼれ落ちる。
枯れ枝のような腕を動かし、クロヴァの頭をなでる。
「……また、あなたに、あいたい」
彼女の手が、ぱたっとシーツの上に落ちた。
ふー、と長い息が漏れる。
涙を流す瞳から、光が失われる。
クロヴァは少しだけ体を起こし、彼女の名前を呼ぶ。
「ジルコニア……」
……………………
…………
「――クロヴァ様ッ!」
横にいる自分に気付いてほしくて、ジルコニアは思わず大きな声を出して彼の名を呼んだ。
しかし伸ばした手の先に彼の姿は見えず、見慣れた天井があった。
ゆっくりと周囲を見ると、自身がベッドに横たわっていることが理解できた。
慌てて飛び起きて鏡台の前に立つ。
そこには寝る前と同じ、健康な姿のジルコニアがいた。
鏡の中の自分は、驚きの表情でこちら側を見ている。
「ああ、夢、夢ね。そうよ、不思議な夢……」
ジルコニアは自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
今まで何度か鮮明な夢を見たことはあるが、あれほど感情をかきたてるような夢は初めてだった。
「……何だったかしら。自業自得、と言っていたわね。それと……『聖女にひどいことをして』」
口に出すと、胸がざわついた。
夢の中の自分は確かに『聖女』と言っていた。
聖女とは、もうすぐ降臨が予定されている、100年に1度現れる少女のことだ。
国に繁栄をもたらす尊き存在だが、一般的な貴族は深く関わることなどほとんどない。
ジルコニアは顎に手を当てて首をかしげる。
(夢の中の私は『聖女』にひどいことをしたの? そのせいで、あんなにも哀れな死を迎えたの?)
荒唐無稽な夢の話とはいえ、気になることばかりだった。
そのとき、ドンドンッ! と激しいノックの音が響いた。
一瞬、夢のノックを思い出してビクッとするが、この音は侍女が慌てているときのノックだとすぐに思い当たる。
「どうしたの?」
声をかけると、ドアが勢いよく開いて老齢の侍女が飛び込んできた。
「お嬢様! すぐにお支度をしますよ!」
「まだ朝早じゃない」
窓から差し込む朝日は弱く、朝食までたっぷりと時間がある。
侍女はカッと目を見開いて叫んだ。
「クロヴァ様がご来訪されています!」
「え!」
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