上野フィールド・オブ・ドリームス
佐藤ムニエル
◆
気になっていた展覧会がもうすぐ終わるというので行くことにした。
美術館に向かって上野公園を歩いていると声を掛けられた。初めは自分のことだと思わず足を止めなかったが、目の前に回り込まれて私が呼ばれたのだと知った。
現れたのは背広姿の中年男性だった。彼は鞄を小脇に抱え、逆さにした金属バットの持ち手を両手で握っていた。少なくとも知り合いではなかった。
男性は広い額に皺を作り、薄めの眉をハの字に寄せながら言った。
「突然すみません。代打を頼まれていただけませんか。やっぱり私には荷が重くて」
代打、と私は繰り返した。とても野球の試合をしていたようには見えない人物から代打を頼まれるのは初めてのことだった。いや代打を頼まれること自体、人生初だった。
何と答えるべきか。バットを受け取るべきか否か。選ぶべきものを決められずにいると、傍らに別の気配がした。見れば野球のユニフォームを着た人物が立っていた。背広の男性と変わらないか、少し若いぐらいの男だった。色黒の顔に険しい表情を浮かべ、明らかに私を見ていた。
胸に硬い物を押しつけられた。
「お願いします」
背広の男性が手を離したので、ついバットの柄を掴んでしまった。次に顔を上げた時、彼は既に十数メートル先を駆けていた。
ユニフォームの男が結んでいた口を開いた。
「あんた、やってくれるの」
何を、と問えば「代打」と苛立ったような答えが返ってきた。
「半までに戻らないといけないから。早く決めて」
時計を見ると刻限らしい三十分まではあと何分もなかった。
私は辺りを見回し、バットを託せそうな人物を探した。カップルに家族連れ、外国人観光客の団体。交番には警察官が立っていたが、誰にも声を掛ける気にはなれなかった。結局、自分で打席に立つことにした。
公園内にある球場に向かう道すがら、試合は最終回でツーアウト満塁、一打逆転の場面であることを聞かされた。早くも自分の決断を後悔しつつ球場に着くと、ベンチの面々からは怒気や警戒感を含んだ眼を向けられた。チームは年齢も性別もバラバラで、かつらと思しき水色の巻き毛の髪で左目に眼帯を掛けた所謂ゴスロリ姿の女性が居るかと思えば、老婆の写った遺影らしき写真を抱えている老人が居た。ニキビの目立つ高校生くらいの少年は頭に〈合格〉と書かれた鉢巻きを巻いていた。
ぼんやりベンチを眺めていたら、私を連れてきた男に背中を叩かれた。
「頼むよ。大事な試合なんだから」
ホームベースの方から審判の声がした。腕時計を示し、早くしろとジェスチャーを送ってきた。私は押されるようにしてバッターボックスへ向かった。
プレーの声が掛かった。
一球目、ストライク。
二球目もストライク。
二球とも全くバットを振ることができなかった。バッティングセンターには何度か行ったことがあるが、投げてくる相手が生身の人間ではやはり勝手が違った。
ベンチでユニフォームの男がタイムを掛けた。彼は小走りでやって来ると私の肩に手を回し、抱え込むように顔を寄せてきた。
「何やってんの。みんなの夢、台無しにする気?」
夢、と私は呟くように言った。
「この試合勝てば、みんなの夢が叶うんだよ」
夢が叶う。老人が抱えている遺影を見ながら、口の中で言ってみた。
「あんたの夢も叶うんだからさ、頑張って」
もう一度背中を叩いてから男はベンチへ戻っていった。その向こうではチームの面々が、じっとこちらを見ていた。
私は再び打席に入り、バットを構えた。下手をするとあと一球で「みんなの夢」が潰える。そう思いながらバットを握る手に力を込めた。
三球目。遮二無二バットを振ると微かな手応えがあった。ファール。
集中を切らさぬよう、すぐにバットを構え直した。
マウンドでピッチャーが頷いた時、ところで、と頭の中で声がした。投球モーションを追っている間にも声は続いた。
私は夢を用意していない。
〈了〉
上野フィールド・オブ・ドリームス 佐藤ムニエル @ts0821
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