第24話 最後に…
海里の家、後泉庵は小さな尼寺だった。
玄関を上がると、書院、その隣に便所と台所、その隣がもう庫裏で、茶の間と海里の部屋がつながっていた。
玄関を右手に行くと、客間と塔婆置き場があった。
その先の渡り廊下を行くと本堂があった。
塔婆置き場には、修行中の尼僧が住み込んでいた。
名を、恵妙と言った。
じゃりン子チエみたいな感じ。
恵妙の場合、修行とはいっても、日々精進料理を作っていて、『やまと尼寺 精進日記』の様な生活をしていた。
恵妙は、格別に、海里を可愛がっていた。
だから、日々、海里の為に、消化のよい粥などを作った。
しかし、月、火、水、3日間、海里は寝たきりだった。
4日目に往診の大野医院のじいさんがきて、ぶどう糖液の点滴をした。
点滴を終えて、茶の間に来ると、大野先生はコタツに足を入れた。
「まあ、若いから、1週間ぐらい食べなくても平気でしょう。
その内食べますよ」
「そうですかあ。
一人なくしているものですから、あの子は」
と母親は言った。
「ほう、仏教では、死んでもあの世があるんじゃないんですか?
お兄さんはあの世に行ったんじゃあ」
「個別の霊魂はないです。
スピリチュアルじゃないから。
人間は全て空です」
「そもそも、空というのはなんですかな。
どう考えても実在している」
「空とは、真空パックをぐーっと引っ張ったようなエネルギーだけの空間ですかね。
それを、ぎゅーっと圧縮すると、個体になって、ある様に感じる。
でも、何もないんです。
でも、そこにはそこかしこに汚れ“なまぐさ”がたまっていて。
“なまぐさ”も出てくる」
「“なまぐさ”とはなんですか。
自然の事ですか。
自然は美しくもあり醜くもあり。
自然は美しいが排泄物は汚い」
「“なまぐさ”といったら、宇宙にただよっている汚れの事です。
その汚れがこの娑婆に生まれた人間にも伝わってくるんですよ」
「宇宙と人間とはつながっているんですか」
「とかげのしっぽみたいなものですよ。
宇宙がとかげの本体で、個体というのはしっぽみたいなものですよ。
だから、ちょんぎれて死んでも、そもそも個体の意識とは宇宙の意識なんだから
悲しむ事もないし。
又別のしっぽが生えてくるし。
生まれ変わりといえば生まれ変わりだけれども、死んだとかげのしっぽが
生まれ変わる訳じゃない。
そのしっぽのさきっぽである人間一人一人が生活の中で“なまぐさ”を減らせばとかげ全体の“なまぐさ”も減らす事が出来るんですがねえ。
若ければ“なまぐさ”を減らすチャンスもあるので、若くして死ぬのは残念です」
「まあ、若いから、じきによくなるでしょう」
海里は5日目にやっとこ起き上がると、恵妙の作ったミルクでゆでた粥、スジャータの乳粥を食べる。
クラムチャウダーみたいな味がした。
土曜も日曜も、恵妙は料理を作って、海里はよく食べた。
翌週の月曜日に登校した。
まだ誰もいない朝。
もうすっかり冬の朝だった。
冷たい空気でが鼻腔にすーっとした。
身が引き締まる様な気分だった。
(今日は自分が日直だ。)
黒板のところに行って、チョークを取り上げると、チョークのニオイまで鼻腔で感じられた。
(病み上がりで神経が敏感になっているのかなあ。)
黒板の日直のところに名前を書こうとした。
すると又左手がしびれだした。
(まだ治っていないのか。)
しかし、左手は勝手にチョークを握りしめ黒板にこう書いた。
「天寿全うするべし。あに」
そして、チョークを落とすと、すーっとしびれはなくなった。
(これは、胎蔵界曼荼羅の兄からのメッセージだ。
兄の魂は生きている。)
人の気配がして、後ろの扉があいて、誰かが入ってきた。
海里は急いで黒板消しで板書を消す。
入ってきたのは蓮美だった。
「やあ、おはよう。
ひさしぶりだね、もう大丈夫なの?」
と蓮美。
「大丈夫だよ。
今、ちょっとしびれたけれども、もう全然大丈夫だよ」
「ふーん、よかった」
蓮美は前の方の自分の席についた。
海里は廊下側の後ろの席に着くと蓮美の背中を見た。
「あいつも、胎蔵界曼荼羅には戻らないで娑婆に残っているのか。じゃあ私もそうするか」
海里は心の中で呟いた。
(そして 誰も いなく ならなかった)
【了】
仏教高校の殺人 夕霧四郎 @sabu2022
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