第10話

 とうとう、ソ連軍が国境を越えて満州に進軍してきた。甘粕は、理事長室で彼が最も信頼する日活多摩川撮影所出身の根岸寛一製作部長と深刻に話し込んでいる。


「ソ連兵は、何をしてくるか分かりません。関東軍は手薄になってしまいましたから、我々は、自分たちで身を守るしかありません」と、根岸。


「若い女性たちが心配だな。何も手を打たなければ、乱暴され、辱めを受けることも予想される」


「万一のために、独身の女性たちには、青酸カリを渡しておきましょうか」


「そうだな、それがいいかもしれないな」


 めずらしく甘粕の言葉にためらいがあった。


「では、用意します」と、根岸は重い表情で理事長室を出ていく。


 部屋の片隅から大杉栄が現れ、甘粕をなじる。


「おいおい、ト、とんでもないことだ。沖縄や樺太で、追いつめられ自決した人たちがたくさんいるというが、なんとも悲惨じゃあないか。この満洲だって事情は同じだ。何が何でも逃げ回った方がいい。これからどうなるか分からないっていうのに、先に自らの命を絶つようなことをしちゃいけないよ」


「確かにな。このような時に、どうすればよいのか判断に迷うんだ。だが、やはり、自決を促すようなことはやめよう」


 甘粕は、根岸に電話をかけ、青酸カリを引き上げ、すべて理事長室に持ってくるように指示する。


 ラジオから流れる天皇陛下の玉音放送。


 甘粕は、理事長室の黒板に向かうと、

〝大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん〟と書く。


 それからの甘粕は、積極的に動いた。まず日本人家族が内地へ帰れるように列車の手配を行った。そして、満映の銀行口座から預金を全額引き出すように、銀行に掛け合う。

 突然の引き出しに驚いて抵抗する銀行に

「どうせ明日には紙切れ同然になってしまう金だ」と。


 それは、甘粕が最後に発した怒鳴り声だった。そして、下ろしたありったけを、自分以外の社員全員に退職金として配った。


 目まぐるしく立ち働く甘粕を、淡々と大杉達が見ている。


 そして、講堂に全社員を集めた甘粕は、最後のあいさつをする。

「私は、もともと軍人でした。この機に臨んでは、軍人らしく腹を切るべきなのでしょうが、情けないかな、日本刀で死ぬことはためらわれます。しかし、何らかの方法で死にます。必ず死にます」


 この言葉を聞き、驚きを隠せない社員たち。その時、日本から提携作品の件で満映を訪ねてきていた当時人気の映画監督の内田吐夢は、これは甘粕が本気で言っていると悟った。


甘粕は続ける。    .

「ここで、日本人の社員に伝えます。これからはこの満映の撮影所は、中国共産党のものであれ国民党のものであれ、いずれにしてもここで働いてきた中国人社員のものとなります。きれいに渡してあげようじゃありませんか。そして、中国人の皆さんには、大変お世話になりました。皆さんの中には優秀な方がたくさんいらっしゃいます。今後は祖国のために大いに尽くしてください」


 大杉栄は甘粕の言葉にいたく感激して、

「なかなか言うじゃないか。甘粕という男は、実に不思議な男だ」


と、野枝と目を合わせる。



 「水だ。水を持ってきてくれ」映画人たちが騒いでいる。必死に蘇生を試みる内田吐夢映画監督。馬乗りになった監督のまたぐらの下には、泡を吹いている甘粕の顔。懸命に蘇生を施すが、青酸カリの毒性は強い。


 その様子を見ている大杉栄ともう一人の甘粕正彦。


「薬を飲んで自殺するなんてのは、だらしなさ過ぎだぞ」と、甘粕に。


「もう、私には生きていく資格も、希望も無くなったんだよ。もっとも、君たちの殺害事件を起こした後の私は、一度死んだ人間として生きてきたようなものだった。でもな、スタッフには十分な退職金を渡し、内地へ帰れるよう手配したし、このスタジオも機材もすべて、中国人スタッフのものになるように手配しておいた。それがせめてもの罪滅ぼしかな」

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