第8話
周りは、満洲の原生林と荒廃した原っぱで構成された曠野。馬に乗った男が先を行く。それを追いかけるように1頭立ての馬車がぬかるんだ道を水しぶきを上げ疾走している。前方は甘粕が乗った馬。後方の馬車には大杉栄と伊藤野枝、それに宗一少年が乗っている。
前を走る馬が突然、足を取られて前のめりになる。甘粕が放り出される。迫る馬車。甘粕の頭の上に馬車馬のヒズメ。そして馬車の車輪が覆う。
ヒズメで頭を半分に勝ち割られた男だが、ムックと起き上がると、何事もなかったようにすっくと立ちあがり大杉達の馬車に乗り込んでくる。
「俺は、何度も死にそうな目にあったが、こんなことでは死なないよ」
「キ、君は、兵学校でも落馬して死に損なったよな」
「確かに、それで軍人になることをあきらめて、憲兵隊に入ることになったんだ」
「人はいろんなことが理由で生き方が変わるもんだ」
「そう言うおまえも、最初は兵隊になろうとしたんじゃないのか?俺と同じ名古屋の陸軍地方幼年学校の先輩だったというじゃないか。それがどうして無政府主義者なんて、とんでもない生き方を選んだんだ?」
「ボ、僕も、タ、確かに軍人教育を受けた人間だ。しかし、あの頃の成績は悪くはなかったが、コ、コ、この吃音のせいもあっていじめられ、喧嘩ばっかりしていた。それでついには、切傷沙汰を起こして退学処分さ。その時は僕も死にそうな傷を負ったんだよ。でもな、勝手なことをやってばかりの僕は思ったんだ。軍隊では、意見が言えない。規則、規則で自由がない。上官の命令は絶対と教えられ、反論は一切できない。たとえ上官が間違っていようが、理不尽に思えてもだ。それが自分にはとっても我慢ができなかった。犬じゃないんだから。軍人である前に、人間として生まれてきたんだぜ。そうした軍隊への反発、それが逆に僕を社会主義に目覚めさせ、ついにはアナーキストとしての生き方を決定づけたんだ」
大陸の道は、果てしなく続く。今さらながら、大杉栄とは、どこか自分と似たところがあると思う甘粕だった。
さらに、話に野枝も加わってくる。
「貴方たちは、私たちのような主義者をどうして嫌うのかしら?」
大杉の愛人、伊藤野枝は、一時平塚らいてうの後を引き継ぎ「青踏」を切り盛りしてきた気丈な女性だ。彼女は、妻がいながら自由恋愛主義を主張する大杉が、別の愛人から切り付けられるという御影茶屋でおきた事件を経験しながらも、そんな死に損ないの男を側でけな気に看病しつくした。そして、その後は大杉の子を3人も設けるという、したたかさも兼ね備えた強い女でもある。誰よりも大杉のシンパと言える存在だ。そんな彼女が大杉と一緒に捕縛されても仕方がないところではあるが、彼女にすれば、何故、あのタイミングであったのか、納得できないでいる。
「主義者を嫌っていたことは確かだ。特にその中でも、フランスに密出国した上、現地のメーデーに参加して、その演台に飛び上がって騒いだものだから、当然捕まって日本に送り返されてきたことを、いかにも得意にしているような男はね。私は思ったのだ。ちょうど起きたあの大震災の混乱に乗じて、主義者と呼ばれる連中が暴動を起こすに違いないって、ね。そして、戒厳令が発令された。それは、今度はこちらにとって願ってもないチャンスだったんだ。市民を守る立場からも、その予想される危険を避けなければならないと考えて、君たちみんなを一網打尽にしようと、張っていたんだ」
甘粕の言い訳を聞いて、そんなことだろうと、野枝は合点がいった。
「だから貴方たちは、頭が固いのよ。私たちは、無政府主義運動を展開しているからって、テロや暴力革命を目指しているわけじゃないのよ。確かに、あの混乱のどさくさに乗じてことを起こそうという連中もいましたよ。でもね。大杉さんは、みんなが困っているときに、余計に苦しめるような、そんなことをしてはいけないって、同志の人たちを引き留めていたんですよ」
「それは嘘だろう。目的を達成するためには、あらゆるチャンスにかけるのが当然ではないのか」
「甘粕さん。ゴ、合理的にしかものを考えない、それが誤解を生むんだ。我々の目標とする主義は、何よりも個人の自由を尊重するんだ。そして、それを守る世の中を、お互いの助け合いでつくっていくことを理想とすることにあるんだ。だからね、我々のいう革命とは、権力を奪取することではなく、純粋にこの世のあらゆる権力を排除し、人と人との相互扶助による社会を実現していくことにあるんだよ」
野枝は、当時のみんなが困窮した状況を思い出して、
「震災の時は、住む家が崩壊してしまったり、あるいは焼け出されてしまったり、たくさんの人が路頭に迷いました。そんな人たちを少しでも救おうと、この人は、私たちが着ていた着物や布団まで質草にしてお金に換えて、困っている皆さんにお米やお野菜をお配りしていたのよ」
「しかし、君たちは、逮捕当時、ずいぶん派手な格好をしていたじゃないか」
「はは、あの時は、もう自分たちの着るものがなくなってね。普段なら着れないようなものを着るしかなかったんだ」
大杉は、そう言うと、フランスに行ったときに着ていた白のジャケットを、誇示するようにして笑う。野枝は、ひらひらのついたドレスの裾をつまんで見せる。
「この子には、男の子の服が無くって、私たちの娘の魔子の着物を着てもらっていたのよ」
野枝に言われ、宗一は、自分が女の子の浴衣を着ていることにあらためて気づいて、照れくさそうな笑顔を返すのだった。
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