第6話
新しい宮殿ができるまでの仮宮殿も、小さいながら隅々まで手入れが行き届いた美しい屋敷だ。その中庭を甘粕と芳子が並んで散策している。夏場、30度を超える気温も、夕やみに包まれる頃は、零度近くなる冷たい空気が、彼らを近づける。そして、芳子が口を開く。
「君は皇帝を、僕は妃をここまで略奪せよという特命を見事に果たした。皇帝は傀儡と分かっていてもまんざらではないようだわ。でも妃は、かなり精神的に追い詰められている。ずいぶん阿片の量も増えたようだし。そのうち体がボロボロに壊れていくはずだわ」
「彼らは、あくまで日本の臣下なんだ。その自覚を持ってもらわねば」
「いずれ天皇陛下に会いに日本へ行くことになるんでしょうね」
「それよりも、傀儡とはいえ、一応は独立を果たしたこの国を、だれがどうまとめていくのかな。関東軍はすでに縮小の一途だ。満洲の参謀だった東條閣下も日本の総理大臣にまでなったが、期待はできないよ。あの人にとっても満州は兵站にしか過ぎないのだろう。当然、ここに住む人たちのことなどを考えている余裕はない。いろんな人種や民族がいるだけに、満洲の統一は難しい」
「確かにね、こんな宮殿に住む人間もいれば、掘っ立て小屋に住み、ろくに食べるものもなく、この寒さの中、着るものも満足なものがない、といった人たちが周りにたくさんいる。そして、日本人は、そんな人たちにまで阿片を売りつけてお金を稼いでいる。僕は愛新覚羅の血をひくものだから、満州国を立ち上げてくれた関東軍には感謝しているし、そのために手伝ってもいる。しかし、今後それがどうなるか、不安でしかないの。満人たちからこの土地を奪い、わが物のように日本人は好き勝手をしているのを見てね。君も、一体これからこの土地をどうするつもりでいるのですか?」
「今や戦況も思わしくない。満映が軌道に乗ってきたところで、私も、もう少しわが軍を支援する活動に力を入れたいと思うのだが」
「可能性があるなら、僕も、もう一度手伝わせてもらおうかしら。インパール作戦とかは、どうかしら」
「えっ、まだ東洋のマタハリは、何かどえらい陰謀をしでかしたいようだな。だがね、あれはだめだね。東條閣下にも具申したが、もっと慎重に考えた方がいい。あれは、敵の補給線を押さえるために考えられた作戦だが、成功すればかなりの効果はあるだろうが、・・そこにいたる条件がかなり悪い。失敗は目に見えている。君も手を出すのはやめた方がいいぞ」
「分かっているわ。冗談、冗談よ。僕は、今の料亭の経営だけでたくさんだわ。そう、僕の東興楼には、貴方のところの李香蘭さんにもよく来ていただいていたわ」
「貴方のことを、お兄ちゃんと慕っていると聞いているよ」
「そうなの、かわいいわね。でも、もう来てくれないでしょうね。僕の悪いうわさを聞いて」
「悪いうわさ?」
「僕が熱河作戦の自警団総司令なんか、柄にもないことを受けちゃってからね。本当のところ、うまくいってないの。ほとんどやる気はないもんだから、関東軍からも疎まれるし。でもまあ、関東軍だけじゃなく日本の陸軍もおしまいじゃないですか。一時のような高邁な理想はどこへやら。中途半端な戦線の拡大は、どう考えても侵略としか思えないですよ。僕は、日本とシナ、満洲のために頑張ってきたのに」
物陰から二人の様子を見ている大杉と野枝。月の光が宗一少年を背負った大杉の顔を青白く浮かび上がらせている。一方の野枝は川島芳子の話を同情的な様子で聞いている。
「東洋のマタハリとか、ジャンヌダルクなどと呼ばれた男装の麗人も、利用されるだけされて、ゴミのように捨てられるんだな」と、大杉が野枝に言う。
「利用されているって、分かってきたのね。彼女流の言い方で、僕のようになってはいけない、君の好きな道を、好きなように生きてほしい、って李香蘭に言ったそうよ。でも、彼女の男勝りというか、女性の垣根を超えた強い生き方は、私たちの同志にしたいぐらいだわ」と、野枝。
野枝は、自分が手掛けた雑誌「青踏」の編集時代に思いを馳せていた。
いつしか川島芳子の姿はいなくなり、甘粕正彦は、凍てつく空にぼんやりと光る丸い月の彼方を見やっていた。
遠くから聞こえてくる川島芳子の唄う歌
「ここは、お国の何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕陽に照らされて、友は梢か石の下~」
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