第5話

 新京の街には、新しく満州帝国の仮宮殿ができていた。その宮廷に甘粕正彦と川島芳子がいた。ハルピンの甘粕正彦同様、上海で事件を仕掛けた川島芳子、お互い謀略を旨としてきた者同士だ。


「上海はうまくいったようだね」


「僕から見れば、民間人の反日騒ぎを押さえるだけでよかったのに、軍事衝突まで行ってしまった」


 短髪に精悍な男の軍服姿の川島芳子は、言葉遣いも男のものだ。


「資金は関東軍から出ていたのか?」と、甘粕が問うと。


「板垣大佐からと聞いてるけど、元はと言えば、いつものように君から出たものではないのか。一体、君の豊富な財源はどこから生まれてくるんだ?」


「仕事を求めて満州に入ってくるシナ人の苦力(クーリー)をいろんなところに斡旋して手数料を取っている。それと皇帝からもらった鉱山の収益もある」


「ほう、てっきりアヘンの売買で儲けた金かと思ってた」


「いや、それは関係ない。そのへんは、あまり深入りしないでくれるかな」


「それにしても、君は力をつけたものだ。数々の特務工作の実績を評価されて、満州国秘密警察のトップという公職についたかと思えば、大東公司、大東協会の設立に関わり、今は、満洲映画協会の親分か」


「まあ、そういうことだが、満映の理事長は、貴女のお兄さんの後を継いだということになるな。縁ができてしまったね。ところで、そういう貴女はどうしていたのかな。ずいぶん無茶なことをやってきたというじゃないか」


「そうだわね。女の武器もうまく使ってね。でも、スパイ活動には危険がつきものなのよ。女だてらに、鉄砲玉もこの身体で受け止めて、身も心もガタガタになっているわ」


 いつしか、男っぽく振舞っていた芳子が、妖艶さを醸し出してきていた。まさしく、これが女を武器にして男を手玉に取ってきたスパイの本領なのか。


 ワイングラスを手に語る彼らの視線の先には、勲章で胸をいっぱいにして毅然とした姿勢を少しも崩さない男と、きらびやかな衣装に包まれている割に、顔色が悪く、姿勢も崩れ、眼の焦点を失った女が並んで大きな椅子に腰かけている。その二人の周りを取り巻くのは、やはり勲章をまとった男たちと長く重いドレスを引きずっている女たちだ。


 その中にあって勲章もなく、身軽だが端正な軍服まがいの服に身を固めた、甘粕と川島は場違いのようではあるが、その実、その中でもっとも注目を集めている二人なのだった。


 ところがそれに対し甘粕は、この虚飾に満ちたエンペラーを祀り上げているホールに集った数々の連中を皮肉っぽく冷ややかに見つめていたのだ。彼らは、かつての宮殿生活に未練があるのだろうか、時代は変わっているというのに、ノスタルジーに満ちた形式を甦らせている。何組かの男女が西洋の音楽に合わせて社交ダンスに興じている。そしてその周りには、音楽や舞踏といった文化に無関心で無教養な連中が、カクテルグラスやワイングラスを片手に、立ち話の花を咲かせている。もちろん、その話題は、満州国の将来などといった建設的なものとはほど遠く、大陸の奥地や南方の島で展開している日本軍の作戦や戦況、はたまた世界における日本国の評価の低下といった陰鬱な話題が中心になっている。彼らは自分たちが関わってきた張りぼてにすぎない新興国に、自信を次第に失ってきているのだろう。もはや陰謀を弄してまで強引に満州の地をわがものにしてきた時代は過ぎ去ろうとしているのだ。ついこの間には、満州国建国のアピールのためにヨーロッパへ使節団を送ったほどであったのに。


 甘粕は、その使節団の一員としてドイツ、イタリアを回り、ヒットラーやムッソリーニと会見したことを思い出していた。


 ホールの片隅で一人の軍人が役人と話し込んでいる。


「ここ満州は、わが陸軍にとって兵站のよりどころだ。それ以上でもそれ以下でもないのは、分かっているな」と将校が役人らしき男をにらみつける。


「大丈夫ですよ。鉄鉱石も石炭も、石油だってこの地は豊富なのですから。満人たちを集めて生産性を上げているところです」


「資材や資源だけじゃあない。現ナマも必要なんだ。せいぜいあっちの商売にも精を出してくれよな」


 阿片のことを言っているのだと、傍で聞き耳を立てていた大杉栄は、うんざりした様子で甘粕のところへ。


「ゴ、ゴ、ゴゾク、五族協和、王道楽土は一体どうなっているのかね。最初はそんなご立派なお題目を掲げながら、柳条湖から満洲事変をおっぱじめた男は既にここにはいないとしても、立派なお題目がすっかり空回りしてるじゃないか。コ、コ、この満州を日本人は利用するだけ利用しようとするばかりだ。だからお題目なんてのは信頼できないんだよ。八紘一宇なんていうのも、そんなもんじゃないのかね。言ってることとやってることが、コ、コ、こうも違うと、いずれ化けの皮が剥げた時の民衆の怒りが、コ、怖いよ」


 その大杉の言葉を聞いたのか、聞かないのか、無視したように甘粕は芳子を連れてホールを出ていく。

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