第4話 アドレッセンス 2 

「あの神社はな、形だけなんだ。この遺跡に蓋をするために建てられたものだ」


 ユウと榊は暗く無機質な大広間をずんずん進んでいた。

 長い長い石段をやっと下りると、今度は意識を失ったかと錯覚するほどに黒い暗黒が現れた。

 ユウはこれほどまでに光を無くした景色を今まで見たことがない。

 空間自体が人間を包み込むように、無限とも思える闇を大きく広げている。

 自分の手すらどこにあるか分からない。

 足元に至ってはどうなっているのかさっぱりだ。一歩、踏み出すのにも勇気がいる。

 遠くのほうに青く瞬く光が見えるが、それらはとても小さくて、黒い空間にかろうじて留まっている程度だ。

 目が慣れれば多少見えるようになるとはとても期待できなかった。

 それほどまでに静かで測り知れない闇の深淵が眼前にある。


「ああ、ユウ。ここらへんの石はもう死んでる。さっきの階段みたいに光ることはもうないからな。懐中電灯でも点けて付いてこい」


 そう言われ、一旦立ち止まって懐中電灯を取り出そうとしたのだが、自分で言っておきながら榊は待ってくれなかった。

 彼は何も見えないはずの暗黒空間のなかをまるで意に介さず、駆け足で去っていく。

 ユウのそばから間隔の短い足音が離れていった。

 待ってと言っても、どうせ聞いてはくれないだろう。それはここまでの道程ではっきりしている。

 ユウはどこともなく顔を向けて、少し大きめに声を張った。


「ねえっ、誰が、あの神社を造ったのっ?」


 ユウは質問をぶつけつつ、なんとか榊の注意を引き留めようと考えた。

 手探りでなんとか電灯を取り出し、スイッチを点けて明かりを灯す。

 暗い闇のなか、突然の強い光が目に痛い。

 だがそんなLEDの強烈な白光でも、黒い空間に向ければやんわりと吸い込まれてしまうのだった。

 わずか一メートルほどしか視界が得られない。もし足元に段差や穴があったら、下手をすると命に関わる。

 慎重に進まなければいけない。

 ゆっくりと歩き出す。

 とにかく、榊のおにいちゃんと話をして少しでも動きを止めておかなければ。

 しかし、おにいちゃんはどうしてああも躊躇無く歩き進めるのか。

 まるで勝手知ったる我が家のようだ。

 そう言えばさっきの石段でも暗いなかに平気で足を踏み入れていた。


「誰が造ったかなんて、俺も知らん。昔の、室町時代とか、江戸時代くらいの人たちじゃないか? きっとこの遺跡、地元ではずっと前から知られていたんだろうなあ。中に入ると危ないっていうことで、封印を兼ねて神社を建立したんだろう。そんなパターンはたくさんあった」


 声の大きさからすると、まだそんなに遠くには行っていないようだ。

 だが電灯の当たる範囲にその姿は見えない。

 榊はこれまでにも、ここと同様の建築様式の遺跡を何カ所も探索しているらしかった。

 それらは一概には言えないがどれもほぼ同時代、同じ文明系のものだという。


「神社を建てた人たちは、ここの中に入ったのかな」


「そりゃ入ったろ、当然。で、なかにあるものは大概持ち去った」


「ええっ、持ってっちゃったの?」


 照らし出す明かりに、ようやく榊の足が見えた。


「どこの連中だってやってることだよ。遺跡や昔の墓があれば、中に入って金目のものから何から全部持っていく。おかげで今の時代にはほとんど残されてないんだよなあ。もし運良く見つけたら、俺だって絶対にそのままにしておかない。自分のものにする。こういうのは早い者勝ちだ」


 言って、からからと甲高く笑う。


「それって、どうなの。やっていいの? 泥棒じゃない?」


 電灯を上へ上げると、光のなかにぼおっと幽鬼のように榊の顔が映し出された。

 榊は左の口角を上げてにやっと笑った。


「うん、泥棒だ」


 手に持つ『黒く長い棒』を、掲げて見せる。


「貴重なお宝が手に入るんだぜ。いいじゃないか、かたいこと言うな」


「盗掘だよね、やっちゃいけないよね、それ……」


 ユウは唇をとんがらせた。

 足元がぱしゃっと鳴る。水を踏む音だ。

 ぎょっとして足を止める。どこかから、水のせせらぎも聞こえてくる。

 今歩いているこの場所には所々、水が流れている場所があるようだ。

 闇のなかに、水場……。

 落ちたら大変なことになると考え、身震いする。

 榊が身をひるがえし、再び進み始めた。

 彼が手にする黒い棒――刀の鞘が、電灯の明かりを受けて鈍い光を反射する。

 暗がりのなか、そんな鈍い輝きでも残像が網膜に残る。

 榊のおにいちゃんは、持っているその黒い刀をかっこつけて『ダマスカスブレード』なんて呼んでいる。

 出掛けるときはいつも肌身離さず、ユウの家に来るときも必ず持参していた。

 もちろん怪しまれないよう、普段は剣道の竹刀用の袋に入れて世間の目を誤魔化していた。

 そんな大事にしている刀だが、もとから自分のものであったはずもなく、さっき本人が示した通り、どうせどっかの遺跡から無断で頂戴してきたものに違いなかった。


「まあでも、侵入した連中は中身を漁ったところで、そのままの形では利用できなかったみたいだ。文明の系統が違うっていうか、精神構造が違うっていうか」


 文明の系統が違うのは分かるが、精神構造とはどういう意味なのか、ユウには理解しきれなかった。

 ここを造った文明人たちは自分たち現代人とはかけ離れたココロを持っていたということなのだろうか。

 榊は飛び石の上を移るようにして、左右へ跳ねながら進む。

 足元の水の流れを避けているのだろう。どういう理屈かは分からないが、やはり彼には明かりがなくても暗闇のなかが見えるらしい。

 ユウのほうは真っ暗闇のなか、水を避けて進まなくてはならなかった。


「じゃ、じゃあっ、その黒い刀は何なの? そのままじゃ使えなかったんでしょ?」


 聞きたいことではあったが、ユウにしてみれば単なる質問ではない。榊に少しでも足を止めてもらうためでもある。

 その気持ちを知ってか知らずか、いやおそらく知っている上で、榊はまったく歩みを止めることなく進みながら話を続けた。

 厳しいというよりも、やや意地が悪い。


「だーかーらー、そのままじゃ使えないから、材料だけ持っていって使いやすいように加工するのが関の山だったんだよ。この刀はな、きっとどっかから剥ぎ取った合金で江戸時代かそこらの刀鍛冶が打ったんだろう。さっき通った石段の壁石だってそうだぜ。ぼやっと青く光ってたやつ。あれ、実は遺跡のなかにあった石材を、神社を建てた連中が切り出して階段を組んだだけなんだよ」


 聞き入るとまた、声が段々と遠くなっていく。ユウは焦って追う。


「ゼロから造るのは今の科学でも無理なんだ。いろいろと次元が違い過ぎて。だから今でも発掘、切り出し、そして加工が続いてる。昔よりもずっと大規模に、な」


 そのあと舌打ちが聞こえ、ぼそっと「あんまりやり過ぎるから、石が死んだんだよ」と吐き捨てるようにつぶやいたのが聞こえた。



 闇のなかで、何かがばさばさと羽音のような音を立てた。


「な、なにっ?」


「心配すんな。『進入口』の周りに、邪魔なもんが生えてたから切り払っただけだ」


 遠くから榊の声だけが聞こえてくる。

 しかし進入口、とは。

 まだまだ先は長そうだ。

 ユウは手に持つ懐中電灯の光と榊の気配だけを頼りに、進入口とやらを探してみた。

 周囲はだだっ広い闇の空間が広がっているだけだった。

 体を回しながら、じっくりと辺りに目を凝らす。

 すると自分のいるところからやや離れた場所に、太い木の根っこが何本も垂れているのを見つけた。

 これが榊の言った邪魔なもん、とやらに違いない。

 それらは高い位置から切り取られ、無造作に地面に転がっていた。

 根っこの一群の下には、大きな穴がある。おそらく、ここが進入口だろう。

 もう辺りには彼の姿はない。榊は一足先に中へ入ったようだ。

 ユウは一瞬ためらったあと、勇気を出して進入口に足を踏み入れた。


「おじゃま、しまーす……」


 ぷっと吹き出す声が、間近で聞こえた。

 良かった、榊はそばで待ってくれていたらしい。

 安心する間もあらばこそ、すぐに榊の声は前へと向かった。


「もたもたするな、行くぞ」


 ユウが前方を照らし出せば、そこには石に似たもので組まれたスロープ状の回廊が見えた。

 電灯の人工的な光のなか、榊が歩いていく背中が映し出される。

 回廊は足音をこつこつと響かせるだけで、ほかは耳に痛いほど静かだ。

 内部はいっそう深い暗闇が充満し、上ではかろうじて見えた小さい青い粒のような光もなく、視界はまったくないに等しい。

 手に持つ電灯だけが頼りだ。照らせば光が届く分は見えるのだが、しかしここまで暗いとひどく心許ない。

 わずかに見えるなかで状況を把握しようと試みる。

 どうやらこの回廊はゆるやかにカーブを描き、少しづつ下行しているようだ。

 榊の急ぎようからすると、これはまだしばらく続くのだろう。

 ユウは回廊を下る間、榊のおにいちゃんを質問攻めにすることにした。くたくたになるまでに質問攻めにしてやろうと思った。

 そうやって少しでも榊の歩みを遅らせなければ、これ以上はとても付いていけないと考えたからだ。

 回廊に入ってからは下りということもあってか、榊の進むペースは上がっている。

 山登りでは置いてきぼりを食いそうになり、上の大広間でも一切手を貸してくれることはなく、今もまたユウが足を止めても気に止めず先へ先へと遠ざかってしまう。

 榊は普段、優しく頼りがいのある青年だったが、一方で厳しくもあった。

 こと遺跡探索に関しては決してユウを甘やかすつもりはないらしい。まことに容赦がない。

 さっきまでそばにいたはずの榊は、もう既に光の届く範囲にはいない。

 ユウは手を口元に添えて、声が遠くに届くようにして言葉を発した。

 どこまで先に行ったのか分からない以上、そうやって話しかけないと返事が返ってこない気がしたのだ。


「上にあった神社って、かんっぺきに荒れ果てていたよね! 神社を建てた人たちはどこ行ったのっ?」


 声が壁や天井に跳ねて木霊する。


 いったの、いったの~、いったああのおお~……。


 しんとして一瞬の静けさのあと、榊が答えてきた。声は大分下のほうから来る。


「さあなー。昭和の半ばくらいには、まだいたって聞いたけどな。いつの間にかいなくなっちまったらしいぜー」


 スロープになっている回廊は足元に障害物はあまりないようだ。

 これなら多少、速く歩いても大丈夫じゃないかな、と思う。

 駆け足で急ぐ。


「いなく、なったのっ?」


「ああー。忽然と、な」


 まだ声が遠い。

 結構急いでいるのに、距離が縮まらない。


「いなくなって、どこに行っちゃったんだろ」


 また少しの間。


「う~ん、遺跡のことに気付いた外部の人間に、……消されたのかもなあ」


 下から響く榊の返事に、思わずぎょっとした。それは、ちょっと嫌な話だった。

 榊の言によれば、海外にも同系統の遺跡はあるため、中に埋もれているであろう貴重な宝物を求める大規模な組織が存在するとのことだった。

 そしてそういう連中は、人を殺してでも遺跡の中身が欲しいと考えているらしい。


「もしくは」


「え?」


「もしくは、遺跡を研究している組織にごっそりスカウトされた、とかな」


 それならまだ救いがある話だと思った。だが、即座に疑問が生じる。


「そんな、スカウトって。だって神主さんとかでしょ?」


 神社を建てたのなら、それはきっと神主や巫女さんとかそんな人たちだろう。

 ユウの認識ではそんな感じである。


「いや、そもそもあそこは本物の神社じゃなかったんだよ。さっき言ったろ? あの神社は蓋でしかないんだ。形だけなんだよ。地元の人間に聞いた話じゃあ、ご神体なんてなかったんだってさ」


 じゃあそれなら、いったいどんな人間があの建物にいたのだろう。

 それ以前に遺跡を隠したいなら、土で埋めておしまいでいいじゃないかと思う。

 なんだって神社に似せて人が管理したのだろうか。

 その疑問に答える形で榊は続けた。


「あの神社を建てた奴らはな、代々遺跡に蓋をして侵入者を防いでおいて、裏では遺跡の中を物色していたんだ。それで手に入れたものを調べて、使いやすい形に作り変えていた。神社はいいカモフラージュってわけだ。そいつら、きっと遺跡文明を利用する独自のノウハウを持ってたんじゃないか? だとすれば即戦力でスカウトできるだろ。どうせ神職が嘘なら、金次第でホイホイ釣られると思うぜ」


 自分の声と、自分の足音と、榊の声と、榊の足音が、回廊のなかを広がり、跳ね返る。

 耳を傾けて集中しないと、うわんうわんと木霊し、響き合ってよく聞き取れない。

 いきなりどんっ、とユウは何かにぶつかった。榊の背中だ。

 下りで慌てて走っていたため、気付くのに遅れた。

 榊は、榊のおにいちゃんは、立ち止まって喋っていた。

 自分を待っていたという様子ではなく、話を聞かせるために止まっていたと考えたほうがいいだろう。


「なんにせよ、そいつらがいなくなった後は、近くの地元の人がたまに神社の手入れをするくらいでな。それもそのうち、誰も来なくなっちまった。これは俺が事前に町の役場で聞いてきたことだ。地元の連中、ここが危ない場所だってことは知っていたみたいだけど、貴重な遺跡だとは知らない様子だった。ここにまつわる曰くありげなエピソードも、どうも都市伝説かむかしばなし程度にしか思ってないみたいだったなあ」


 道理で廃墟同然でほったらかしにしてあるわけだ。

 事実、もはや地元の人間には遺跡というより廃墟なのだろう。

 危険だから近寄らず、興味がないから気にしない。

 誰も訪れなくなった、寂しい場所だ。

 けれど、忘れてはいけない。

 自分はかつてこの近くに住み、この遺跡に迷い込んだのだということを。

 あの、顔も覚えていない女の子と一緒に。

 そう思うとまた、ユウの頭が微睡みに似た奇妙な眩みが襲ってきた。

 遺跡のなかのことは記憶にない。

 だけど、神社には見覚えがある気がした。

 さらにさっきの闇に包まれた大広間、そして今歩いているこの下りの回廊は、一度歩いたことがあるような感触がある。

 五感が、脳が、思い出しつつあるのだろうか。このまま進めば、脳がもっと刺激を受けて記憶がこじ開けられるだろうか。

 そうすれば――。

 そうすれば、あの子のことを完全に思い出せるだろうか。

 うつむいて自分のつま先を見ながら考え事をしてしまう。

 我に返れば榊のおにいちゃんの背中は小さくなっていた。

 慌ててユウは駆け足で榊に寄り、話を紡ぐことにした。


「それにしても、こんな遺跡がいくつもあるのに、どうして教科書に載らないのかな?」


 肩ごしにユウを見て、榊は答えを寄越した。

 長い髪がはらりとうなじにかかる。


「そりゃそうだろ。こんなもの世に出たら、歴史がひっくり返っちまう」


 ユウには、それの何が悪いかが理解できない。


「実際に『ある』んだから、しょうがないじゃん」


「あのな。歴史の大筋はもう決定事項なんだよ。それがいきなり違う文明系の遺跡が発掘されたら色々と面倒になるじゃねえか。歴史ってのはよ、今ある世界中の国家の成り立ちや、政権の拠り所や、それから宗教の根幹なんかになってるんだぜ。ひっくり返られちゃあ困る人間が山ほどいるんだ。って言うか、そんな奴ばっかだ。調べようとすんのは、ごく一部の食い詰め学者か、純粋に利潤を追求する企業くらいなもんだ」


 言葉の最後、一瞬だが榊の表情に険が入った。

 榊の怒る顔はとてもレアなので、ユウは少々気になった。

 榊は自分で自分の言葉に苛立ちを感じたようだった。

 台詞の最後の部分、『食い詰め学者』、『利潤を追う企業』、それらの単語が彼を苛ただせたのだろうか。

 あらためて、榊のおにいちゃんはどういう人間なんだろうと考えてしまう。

 榊と知り合ってから既にかなり経っているが、まだその人となりをよく理解してはいない。

 姉に聞いてみたこともあるが「あんたには関係ない」と一蹴されてしまった。

 榊はいつも首を上向き加減にしており、目はうつろで視線を宙に彷徨わせている。

 そのせいでユウは榊と目が合ったことがない。口ぶりもおどけていて、へらっとしただらしない笑みをいつも張り付かせていた。

 正直、得体の知れない人物だった。

 そんな彼の心の内を伺い知ることは、人との触れ合いの足りないユウにはまだ到底不可能であった。

 それでもユウは榊のことを慕っている。

 彼には危ない魅力と言うか、妙に人を惹きつけるものがある。

 きっとあの粗暴で高慢な姉も、そんなところに惚れてしまったのではないかと思っている。


 長く、蛇のように曲がりくねった回廊がとうとう終わりに近づいてきた。

 回廊の先に、黒い穴が二つ、ぽっかりと口を開けている。

 榊が言っていた分岐部に違いない。

 電灯の明かりに浮く二つの穴は、感情のない暗い瞳が自分を見つめているようで気味が悪かった。

 穴はそれぞれ人が一人入れるくらいの大きさで、その奥からはざーざーと水の落ちる音が幾重にも反響して聞こえてくる。

 その黒い穴は、遺跡の中心部とでも言うべき所だった。

 榊によればこの遺跡は正八面体の形をとっていて、ピラミッドを二つ、底面で合わせたようになっているらしい。

 ここは丁度その二つのピラミッドの頂点同士を結んだ中点に位置する。


「さ、お待ちかねだ。二手に別れるぞ。と言っても道なりに進めばいいだけ。ユウにとってはさしずめ自由時間ってとこだな。迷ったりしない程度になら道草してもいいぞ。まあでも、あまり期待するなよ。さっき話したとおり、盗掘に遭って中身はがらんどうだ。罠もなければ宝もない。面白味はなぁんにもない」


「いいよ別に。面白くなくても。僕が連れてきてって頼んだんだから」


 そもそも本来の目的は遺跡探検ではない。

 あの子の痕跡を探すことだ。

 忘れてはいない。今のところその痕跡らしきものは何も見つかっていないが、これから進む遺跡の深部で見つけられるのではないかと期待している。

 榊はそんなユウの気持ちを察したのか、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。それだけでユウには励ましになる。

 おにいちゃん、ありがとう、と心の中でささやいた。



 ユウは左側への、榊のおにいちゃんは右側への分岐を進むことになった。

 分岐部の穴をくぐっても、中は依然として暗闇しかない。

 水の音がいっそう、激しく響いている。

 水の流れがどこかで途切れ、低いところへ落ちて小さな滝を作っているようだ。

 水の落ちる音は一カ所だけでなく、近くから遠くから、何カ所から聞こえてくる。


「ちっ、やっぱり灯りは点かないか。ここらも石が死んでるな」


 榊が低くぼやいた。

 ユウは彼の声が自分の真後ろから聞こえたことに驚いていた。

 まさか一緒に来てくれるなんて。

 二手に別れると言っていたから、厳しいおにいちゃんのことだ、とっとと素っ気なく行ってしまうと思っていた。


「向こうも覗いてみたけどよ、おんなじだ。明かりなんてまるでない。申し訳程度にちょろっと青い光が見えるだけだ」


 ユウは榊が自分のことを心配してくれているのかと思った。これまでは彼が影ながら見守ってくれていたかも知れないが、ここから先は本当に一人なのだ。

 だが彼はどうも別のことを心配しているようにも見える。

 口調は変わらないが、いつになく真剣な眼差しをしている。

 ユウがこれから進む道を念入りに何度も見回し、観察している。

 何かを探している、いや警戒しているのだろうかとユウは考えた。


「まあ、なんだ……初めてだし、ちょっとだけ付いていってやるよ」


 意外なほど優しい申し出に、ユウは驚き戸惑いつつも嬉しく思った。

 だけどそれは、やはり何かを警戒しているということの裏返しではないだろうかとユウは心配になる。

 分岐から少し進んだところで、榊が急に立ち止まった。

 近くを見渡しているようだ。

 榊の目線を追うようにしてライトを照らすと、近辺に点々と赤茶けた染みがある。

 ほかはただ、柔らかい質感の石と、合間に剥き出しの土が見えるだけだった。

 榊はその場所をなにか感慨深げに見入っていた。

 睫毛が下りて、いつになく悲しげに見えた。

 それも束の間のこと、再び榊は気を取り直したようで、ユウのほうへ顔を向けるとニヒルに口の端を歪めて左右非対称に笑った。


「すまん。ちょっとぼーっとしてた。時間取らせたな。さ、行こうか」


 ユウと榊は連れ立ち、左側へ分岐した通路を歩み始めた。

 ざわざわと遠くから響く水の音が、やけに恐怖をかき立てる。

 ライトで照らし出される道は石畳のようで、かつて舗装されていたことが窺えた。

 この遺跡を造った人たちは縄文時代より遥か昔の時代の人だという話だが、古代ローマくらいの文明度はあったようだ。

 そんな文明がこの国にかつて存在していたとは、こうして目にしなければ信じられない。

 自分は幼少時に一度来ているはずなのだが、残念ながらはっきりとした記憶はない。

 二人分の足音が、重なり合い、壁に反射して、周りから聞こえる。


 かつん、かつん、かつこん、かつんこん……。


 隣を歩いている榊が寂しげに漏らす。


「ここもちょっと前は青い光が蛍の群れみたいに舞って、幻想的で綺麗だったんだがなあ」


 榊のおにいちゃんは昔を思い出しているふうだった。

 自分も幼い頃にその光景を見たはずだ。

 だがやはり覚えはない。

 今歩いても特に何も感じるものはない。

 そのきれいな景色をあの子と一緒に見たのだろうか。見て何を話したのだろうか。

 榊の歩幅はユウより広いのに、ずっと隣合って歩いている。自分に合わせてくれている。

 ここまでの道のりとは大違いだ。

 どこまで付いてきてくれるのだろう。何か気にかかることでもあるのだろうか。

 ユウが榊の真意を測れずに困惑しだしたとき、急に榊が動きを止めた。

 一気に、しんと音が消えて静かになった。

 動きを止めただけでこうも静かになるかと思ったが、どうも榊の様子がおかしい。

 注意深く観察すると、呼吸を薄く、ゆっくりとさせていた。

 息を殺しているのだと分かった。

 同時に、自分もそうすべきだと直感した。

 じきにぴりっとした緊張感が伝わるようになった。ユウは慌てて点けていたライトの明かりを消した。

 榊は無言で刀の鞘を握り締めた。

 ユウの手に榊の手が触れた。

 刀を持つほうとは別の手で、ユウの手をつかむ。つかむ手の強さから、言葉を制する雰囲気が感じられる。

 榊はユウを道の脇へ引き摺り込んだ。

 暗闇のなかで判然としないが、どうやら小部屋か脇道のようだった。

 榊はそのままユウを引っ張っていく。

 明かりを消したため、目には何も見えず、じっとりとする闇が広がっている。

 自分をつかんでいる榊の姿も、自分自身の手足も、闇の黒色に溶けて輪郭も分からない。

 ユウは足元が見えず足を踏み出すことさえ怯えていたが、そんなことはお構いなしに榊はユウの手を引っ張っていった。

 榊のおにいちゃんはまるで闇の中が見通せるようだった。

 遺跡に入ったときからどうもそうらしいと感じていたが、彼は夜目が利くと言うか、光が届かない場所でも周囲の地形が把握できるような、そんな特別な眼を持っているようだ。

 不意に横へ折れ、榊はユウの両肩を壁際に押した。

 顔が引っ付くくらい近づけ、耳元に口を寄せて「動くな。音を立てるな」と短く述べた。

 耳のすぐそばでもかろうじて聞き取れるほどの小さくか細い声だった。

 ユウは多分、首を短く一回、縦に振ったと思う。無意識にそうしたと思う。

 それが見えて納得したのか、榊はユウから離れて元の道のりまで戻り、そこで一人静かにたたずんだ。

 それから二、三分くらい経っただろうか、もっと経ったかも知れない。

 遺跡の深部からぱらぱらと足音が聞こえてきた。

 音から数人のものだと分かった。

 こんなところに、誰がいるのだろう。

 ユウは榊から以前に聞いた話を思い出していた。

 姉や榊が探索を繰り返している奇妙な遺跡群は、危険を伴うことも多い。罠が仕掛けられていることもあれば、野生の獣が住み着いていることもある。

 しかし何より恐ろしいのは、同業者だと言っていた。

 つまり、榊たちと同じく遺跡を巡る人間たちのことだ。

 榊はこれまで何度かそういった同業者に遺跡内で出くわしたことがあると話していた。

 ただの挨拶で済んだこともあれば、手に入れた異文明のアイテムを奪い合うこともあった。

 歴史から抹殺された遺跡には、法律も警察も及ぶことがなかった。

 ときには殺し合いに発展することさえあり、実際に榊は遺跡内で明らかな他殺死体を見かけたことがあると言う。

 ユウはそのとき、思わず聞かずにはいられなかった。

 聞かなければ良かったかも知れない。


「おにいちゃんも……、人を、殺したの?」


 榊はいつものどこを見ているか不明瞭な目を上向け、はははと乾いた笑い声を上げた。


「俺も、そいつらと同類だ。俺に言わせれば、結局みんな同じ穴のムジナだ」


 答えになっているような、いないような、そんな返事だった。

 はっきりと、足音が近づいて来た。

 電灯か何か、くっきりとした光の線が広がって闇のなかを伸びる。

 足音が、止まった。

 足音の持ち主たちが榊の姿を認めたのだ。


「あらぁ、奇遇ねえ」


 女の声だった。

 ユウはその声を聞いて背筋がぞくっとした。


「そっちも探検か? ここには何も残っていないはずなのにご苦労だな」


 くっくっと鳩みたいな押し殺した笑い声が響く。相手の女が笑っている。


「そうね。正真正銘、ここにはもう、本当にもう、何も残ってないみたいね。最後のお宝は誰かさんが自分のものにしちゃったから」


 ユウは意に反して呼吸が乱れ始めたのを感じた。

 闇に目を戻し、心を落ち着けようとする。

 しかし女の声を聞くと心かき乱れるのはどうにもならなかった。

 ユウはしゃがみ込んで地面すれすれからそっと顔を出し、榊たちの様子を覗いてみた。

 女たちが持つライトが逆光となり、どんな人物なのかはっきりとは見えない。

 光の角度によって時々、シルエットが暗闇に浮かび上がる。

 ざああーっと水が流れていた。

 ライトに照らされ、人影の周囲はよく見える。

 遺跡内は石でできた通路が縦横に走っている。通路のうちいくつかには、どこから来ているのか水が流れている。

 通路は所々途絶え、途切れている。

 水は途切れた箇所から滝になって落ち、また別の通路へと流れている。

 水の中に青の丸い光が明滅する。

 巨大な藻のような翠色の植物が、滝の始まりにだらしなく垂れ下がっている。なんだか汚れた暖簾に似ている。

 榊と女はまだ会話を続けていた。

 軽快な調子で話しているが、どちらも隙をうかがいながら牽制し合っているように思える。

 狸と狐の化かし合いに見えた。

 じっと観察していると、ライトのシルエットや遺跡内のわずかな光から、少しづつ相手側の特徴がつかめてきた。

 どうやら三人連れのようだった。

 一人は痩せた男で、猛獣のように暗がりでも目だけが炯々としていた。目つきの悪い、不快な印象の男だった。

 もう一人は体の輪郭からしてガタイのいい男で、背中に大荷物を背負っていた。さながら山登りのシェルパだった。

 驚いたのは三人目だった。

 榊とさっきから話している女だ。

 声からすると若い女で、リクルートスーツのような折り目正しい服を着て、下は丈の短いスカートを穿いていた。

 ほか二人の男が遺跡探索に適した装いであるのに対し、あまりに異様だった。

 しかも少し向きを変えるたび、または一、二歩歩くたび、かつっかつっと固い足音がする。

 一瞬見えた足元はパンプスで、これが鳴っているようだった。

 ここまで来るには山道を歩く必要がある。加えて遺跡内の地面はどう見ても歩きやすいとは思えない。それでパンプスを履いてくるのか。

 ユウは呆れるよりむしろ慄いた。


「あれっ? 誰か一緒なの?」


 突然、女が頓狂な声を上げた。

 遺跡内の遠くの壁に反響し、あれ、あれ、だれかれかれか、いっしょいっしょなの、なの、なの……と山彦する。


 ユウは慌てて頭を引っ込めたが、どうも遅かったようだ。

 榊が嘯いて誤魔化そうとしたが、女はもはやこちらに注意を向けていた。

 かつかつと固い音が律動的に迫ってきた。

 ユウの体にぶわっと一気に汗が滲み出た。

 そっと立ち上がって、壁に背を当て、息を潜めた。

 無駄と思っても開き直って真正面を向いて待つ勇気はなかった。

 急に足音が止まった。

 何秒か、過ぎる。

 水の音以外、何の音もしない。

 緊張が、限界に達しようとした。

 我慢仕切れず、息を大きく吐き出そうとした瞬間、抜き打ちに女が顔を出した。

 女と、目が合った。

 うす気味悪く女がにたりと笑うのを見て、ユウは総毛立つのを感じた。

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