第3話 ジュブナイル 2 

 虎ちゃんはユウにとって、友人と言って良いか微妙な関係の人間だ。

 初めて会ったのは小学校の頃、進学塾においてであった。

 通っていた小学校は違ったが、とても頭の良い男子がいるというのは聞いて知っていた。

 彼がその男子だと知って講義中、不躾にじろじろと観察してみたが、飄々として講義を受ける様子はとても秀才に見えなかった。

 勉強に身を入れているようにはとても思えなかったからだ。

 しかし虎ちゃんはあらゆる教科において常に最高レベルの得点を取っていた。噂は本当だったのだ。

 しかもそれでいて鼻にかけることがなく、誰に対してもくだけた態度で接するので、講師からも他の塾生からも好かれていた。

 虎ちゃん、という呼び名が広まったのもこの頃だった。

 外見は小柄で、愛嬌のある顔はハムスターなどの小動物を彷彿とさせた。

 そんな彼に名前から取ったとは言え、虎ちゃんという呼び名はギャップがあっておもしろいと思う。

 彼はよく講義の合間に絵を描いていた。人間や動物ではなく、自動車や戦闘機といったメカの絵を好んで描いた。

 短時間でささっとぞんざいに描いたふうなのに、出来上がった絵はディティールが詳細で極めて写実的だった。自動車を真っ二つに割った断面図を描いているのを見たときには、頭のなかに設計図が入っているのではないかと思ったものだ。

 優秀な頭脳を持つうえ、画才までもあるとは。勉強で手一杯のユウは正直、嫉妬した。

 同じ中学に進学してから、ますます彼のすごさを思い知ることになった。

 格段にレベルの上がる中学の授業においても、虎ちゃんは常に上位をキープしていた。

 たまに落ちることもあっても次には挽回している。長期で見ればほぼ一定しており、ぶれることがなかった。

 虎ちゃんの有能さについてのエピソードはほかにもある。

 あるとき、体育の自由時間にクラスで二チームに分かれて野球をすることになった。

 守備位置は適当に決まり、虎ちゃんはサードにつくことになった。

 バットの音がかいんっと鳴り、ライナーが飛んだ。

 三遊間を抜ける、と誰しもが思っただろう。それを虎ちゃんは、横っ飛びにダイレクトキャッチしたのだ。

 その様子をユウは相手チームの打席近くで見ていた。大袈裟ではなく、宙を飛んでいたように見えた。

 勉学一筋で、てっきりスポーツは苦手だと思い込んでいた。

 誰もがそう思っていたのではないだろうか。

 聞くと実はキャッチボールは得意なのだと言った。

 案外、運動神経は良いのかも知れない。

 さらに聞くと、休日には登山に行くこともあるそうだ。

 そしてこんなハイスペックな彼の部活は、意外にも写真部だった。

 登山も、そもそもは景色を撮るために行っているとのことだった。

 デジカメを使わず、父親から譲ってもらった骨董ものの一眼レフを愛用し、撮影が済んだらフィルムを自ら暗室で現像するという一昔前の伝統的写真部の活動を踏襲していた。

 こういう面倒な作業を好むのは、いかにも虎ちゃんらしいと思う。

 そんな虎ちゃんも、人間関係については苦手だったのだろうか、あまり積極的に多くの人たちと混じり合うことはなかった。

 それは小学校からの知り合いであるユウに対してもそうだった。

 ユウと彼が話すとき、それはいつもユウのほうから話しかけていた。

 優秀で、小柄で、友人が少ない。

 そんな人間は時として、いじめや無視といった迫害を受けることがある。だが彼に関しては違っていた。

 話せば人当たりよく、笑顔は裏表がなくて、敵意や悪意といった人間の悪感情とは無縁でいるような彼に、クラスの人たちは決して危害を加えることはなかった。

 悪口さえ聞いたことがなかった。

 むしろ、みなどこか虎ちゃんに対して敬意を払っているようにも見えた。

 希有な例だと思う。

 彼には周囲の人間にそうさせる、カリスマに似たものが備わっているのかも知れない。

 ユウはいつも虎ちゃんのことをうらやんでいた。

 嫌いではない。むしろその優秀さも人間性も、みんな好きだった。

 けれど自分のなかの黒い部分がどうしても彼を受け付けなかった。

 いつか泥をつけてやりたい。

 上に立って見下してやりたい。

 そんなあさましい考えをいつしか持つようになっていた。

 多分、ほかのクラスメートも大なり小なり似たような考えだったのではあるまいか。

 少なくとも、心のどこかで彼を受け付けなかったのだろう。

 だからこそ、敬意を払い、危害を加えずにいても、絶対に自分たちのグループには誘わなかったのだ。

 それを虎ちゃん自身もまた望んでいるように思われた。

 結果として、優秀で運動神経に優れ、芸術的才能に恵まれ、人柄も良いにも関わらず、『はぐれ組』としてユウたちと行動を共にするはめになってしまったのだった。

 ユウは彼と同じ修学旅行班になって、多少は交流が深まった。

 小学校の頃から知り合いだったので、ほかのメンバーよりはすんなりと話ができた。

 お互いぎこちなさがあったのは否定できない。それでもクラスの中で最も親しい人間なのは確かだ。



 これから四人で向かう場所は、正史には残されていない危険な遺跡だ。

 別名『人喰い遺跡』とも呼ばれ、事前に情報を得ていないと、入ってしまったが最後、あっけなく人生の終わりを迎えることになる。

 この遺跡が発見されたのはかなり昔だったようで、すでに江戸時代頃には入口を塞ぐようにして神社が建っていた。

 おそらく、危険な内部へ誰も立ち入らないように厳重に封印してあったのだろう。

 ここと同じような遺跡は世界のあちこちに存在しているらしい。

 ほかの地域にある遺跡にも興味はあったが、それらはどれもユウの住んでいる街からかなり遠くにあり、また自分にはまだ力も経験も足りないと考えたので敬遠することにした。

 まずはこの遺跡を踏破することを目標に定めた。

 そのためには最低でも自分以外にもう一人同行してもらわなければならない。

 隠し通路などを使えば単独でも最深部まで行けないことはないが、出来れば面倒でも確実なルートを進みたい。

 それに、最深部に同行者を連れて行くことにはもう一つ大きなメリットがある。

 一石二鳥だ。むしろそちらのほうが本命の目的だと言える。

 ユウは実際に入るのは二度目でも、内部の詳細な仕組みはあらかた把握していた。

 誰かは知らないが、過去に探索を行った人間がご丁寧にも写真付きで遺跡のマップをネット上に公開しているのだ。

 一部は動画まであった。

 どうやら同系統の遺跡を専門に研究している集団がいるようだった。

 いくら危険と言っても、詳しいマップがあって、しかも一度は奥まで入ったことがあるなら大丈夫と思えそうなものだが、道行きにまったく不安がないわけではない。

 この遺跡はネットにあがっていることもあり、結構知られた場所なのである。

 これまでも、そして今も探索者が訪れているはずだ。

 まさか内部が作り替えられているなんてことはないだろうが、悪意に満ちたトラップが仕掛けられている可能性はある。

 最悪、同業者である別の探索者に出くわすことも想定しておかなかればならない。

 それさえ気を付ければ、以前と同じ道筋、同じ手順で最深部まで辿り着けるはずだった。

 発見当初は侵入を防ぐ仕掛けも数多くあったに違いない。しかし現在では度重なる外部からの侵入のためにそれらはほとんど壊されており、今回ユウが行くに当たって特別何も準備する必要はなかった。

 問題は、一つだけ仕掛けが残ったままになっていることだ。

 途中で道が二手に別れて、そのあと最深部へ入る直前で再び合流することになる。

 その合流地点に仕掛けの施された扉があって、二つの道に面した双方から同時にアプローチしないと開かないようになっているのだ。

 ユウが同行者を必要とする理由の一つはこれだった。

 ユウはこの扉を以前入ったときに直に見ている。たしか、粘土のような材質でできていたと記憶している。

 その気になれば今の自分なら壊せるのではないかと思う。

 それはほかの探索者たちも同様だったはずだ。それがどうして、この仕掛けだけ残されているのか分からない。

 案外大した理由はないのだろうとユウは考えている。

 たまたま残った一個の仕掛けを、何故か誰も壊そうとしない。

 ずっと一個だけ残っているのだとしたら、壊すのはまずいのではないかと妙に心配になる。

 解くのは簡単なのであえて壊す必要もない。

 そして特別な理由もなく、一個だけ仕掛けが残っているのだ。

 これは、偶然迷い込んだ者や興味本位で近づいた者には有効かも知れない。

 一人では最深部まで辿り着けないし、二人以上いたとしても二つの道を別々に行く選択は普通しないだろう。

 得体の知れない場所で二手に別れるのは、かなり勇気がいることだ。

 ユウはこの遺跡の探索に必要な人数は、自分を入れて四人くらいが適当だと考えた。

 最低でも自分を含め二人いればよいのだが、それだと別れたあとが問題だ。

 二手に別れたあと、遺跡内で一人きりというのはかなり強い恐怖心を感じるはず。

 二人ずつでツーペア、いや自分は一人でもう一組を三人でもいい。

 人選も重要だった。自分と別行動になったときに、ほかの面子を導く役割を担う人物、つまりリーダーが必要だ。

 奇々怪々な遺跡内で冷静さを保ち、ときには自分で考えて臨機応変に対応できる人間でなければいけない。

 虎ちゃんはまさに打って付けの人物だった。



 ユウたち四人は今、青い灯が照らす階段を、ゆっくり、ゆっくりと降りている。

 女子二人は一言も発しなかった。

 不思議な青い光を見て少しは緊張がほぐれたかと思ったが、それは自分の勝手な解釈だったようだ。

 リースの横に寄って顔を見ると、あからさまに怯えた表情を見せ、前を歩く芙蓉の肩に抱きついた。

 その芙蓉はというと、肩に抱きつかれても何も言わず、首を傾けもせず、ただ黙々と歩いている。

 ユウは今さらながら脅すのは失策だったかと後悔し始めた。

 これから三人には協力してもらわなければいけないのだ。

 ユウは明るい声を出して彼らに何度か話しかけた。

 恐怖心を取っ払い、リラックスしてもらうために、いくらかおどけてみせた。

 変に猫なで声になってしまったが、それでも脅した当人が無言でいるよりはましだと思った。

 虎ちゃんだけはいつもの笑顔で相槌を打ったり、合いの手を入れてくれた。

 女子たちの反応に比べると、肝が据わっている。脅しが通じていないのは悔しいが、やっぱり彼を連れてきたのは正解だったと思う。

 彼はこちらの話を聞く一方で、壁を組んでいる石や青い灯にしきりと興味を示していた。

 どうも色々と質問をしたいのを我慢しているようで、いつ聞こうかタイミングを見計らっている様子だった。

 けれど説明しなくとも、彼はなんとなく察しているように思えた。

 そう、長い棒を竹刀と見当をつけたときといい、彼はとても察しが良い。

 石でできた階段は時折方向を変えながら、下へ下へと続いていた。

 青だけの灯りのなか、何度も方向を変えながら降りていくと位置の感覚がおかしくなってくる。

 いつの間にかユウは口を動かすのをやめていた。どれだけの距離を下へ移動したのか分からない。

 まるで釘かネジになった気分だ。

 人の形をした釘になって、地の底へめり込んでいく。

 妙な妄想にとらわれていると、斜め下に小さな顔が目に入って我に返った。

 先頭の芙蓉が不安げに何度も足を止め、振り返ってユウを見上げている。

 怒ったような、おびえたような、悲しむような、責めるような、軽蔑するような。

 ひどい目だ。

 ユウにはその目がまともに見られない。

 誤魔化すように「足元を見ないと危ないよ」と言っておく。

 それでも芙蓉はまた振り返って見上げてくる。

 とても、つらい。

 早く階段が終わって欲しいと思う。



 ようやく長かった石段は終わりを告げ、最下段の先により強くくっきりとした光が見えてきた。

 石段の壁の青い灯よりもずっと明るい。

 その明るさが安心させるのか、女子たちは少しほっとしたような顔を見せた。

 もっとも、あれもまた単なる光ではないことをユウは知っている。

 まさか文字通り命の煌めきだとは、察しの良い虎ちゃんでも思うまい。

 石段を降りきると、何もつまづくものがないのにほぼ全員がよろめいて倒れた。

 唯一ユウだけ、石段の壁に背をもたせ目をしばたたきながら立っていた。

 不可思議な空間だった。

 森閑とした暗闇を背景に、無数の青い輝きが行き交っていた。

 暗闇は深く、心まで吸い込まれそうな黒をしている。

 どこまで続いているのか、遠くに目を凝らしても分からないほど深く、黒い。

 闇は横や天井だけでなく、足元の地面にも広がっている。

 青い光は多少の大小はあれど、どれもさほど大きくない。白い尾を残して、ときには真っ直ぐに、ときには波打つように泳いでいる。

 石段の出口から漏れていた光の正体はこれだった。

 静寂に包まれた暗黒のなかで、青い光が群れなす蛍のように飛んでいる。

 感覚としては、いきなり宇宙に放り出されたような気分だった。

 暗黒は宇宙空間そのもので、青い光は銀河の星々。

 こんな場所で遠近感をすぐに把握するのは難しい。初見では足の踏み場を見失い、まず例外なくへたり込んでしまう。

 そして目が慣れたとき、その幻想的な美に魅入られることになる。

 自分も以前来たときにはその光景に思わず絶句したものだ。

 十分ほど過ぎただろうか、ようやく同行者たちが感嘆の声を上げた。


「わあっ」


「……きれい」


 この世のものとは思われない美しい景観に、芙蓉とリースが見入っていた。

 先程までの過度に緊張した様子がほぐれている。

 芙蓉はしゃがんで前屈みにうつむき、小さな顔を地面に寄せていた。匂いを嗅いでいるような姿勢で、地の奥に光る青を見つめている。

 リースは辺り一面を見回しながら、ふらふらと右へ左へ目移りして膝立ちで歩いている。

 ユウは今なら話しかけても大丈夫そうだと思った。


「言った通りだろ、綺麗な景色を見ることができるって」


 ユウがそう話しかけた途端、女子二人はびくりと体を強ばらせ、静止した。

 ユウはまだ時期尚早であったことを知った。脅した恐怖は残ったままだった。

 芙蓉が、きっ、と目尻をつり上げてユウを睨みつけた。

 鋭角の眼鏡がより攻撃的な印象を加えている。

 眉間に皺が寄り、頬はつんっと張っている。反面、唇は噛みしめられ、口の端は両端とも下がり、不安を隠し切れていない。


「たしかに、きれいだわ」


 険のある声だ。


「うん、だろ?」


 芙蓉が尖った口調で話しかけたのを聞いて、彼女の後ろでリースが狼狽している。

 何も言葉を発しないが、変に刺激しないで、と顔に書いてある。

 もっともそんな表情も背中側にいては、残念ながら芙蓉には伝わらない。


「ねえ、ちょっと聞いていいかしら」


「うん、いいよ」


 芙蓉はバランスを崩しながらもしゃがんだ姿勢から立ち上がった。

 両足に力を込めて懸命に踏ん張っている。


「さっき、なんでスマホを取り上げたの」


 今さらな質問だと思う。

 それは当然、外部との連絡がつかないようにするためだった。

 だがこの場でそれを正直に言ってしまえば、さらに警戒心を強くさせ、協力を得にくくなると思った。

 少し捻って、ほかのことも混ぜ込んで適当な説明しようと考えた。


「さっき言った通り、情報を外に漏らされたくないんだ。ネットに繋げられるとまずいし、写真を撮られるのもまずい。だからだよ」


「……なんで」


「黙っていたけど、ここ、実は企業の所有地になってるんだ。勝手に入るのはほんと言うと法律違反なんだ。みんなのこと、信じてないわけじゃないんだけど、ほかの人に電話やネットで現在進行形の状況を伝えて欲しくないんだ。それにスマホのカメラでここの写真を撮られて、あとでネットにアップされたら問題になるしね。だからだよ」


 またしてもスラスラと口から出任せが出てきた。嘘と本当が混ぜられた説明だ。

 即座にこんな返事を返せるなんて、自分でも妙な才能があると思う。

 実際は外部に情報を伝えても、写真をアップしても、スルーされるだけで終わる。

 この遺跡は歴史の中では『存在しなかった』ことにされているので誰も相手にしない。

 もし核心に至るような情報なら何者かによって即座に削除される。

 何者かが誰か、自分は知らない。気にはなるが今は関係ない。


「スマホは帰りにちゃんと返すから安心して。僕はただ綺麗な景色をみんなに見て欲しかっただけなんだ。えっと、その、乱暴なことしたのは謝るよ。特にリース、ごめん」


 リースはユウから唐突に謝罪されて戸惑ったようだ。ただ、かくかくと頭を振っている。

 刀を向けられた恐怖はまだ抜けきっていないらしい。

 それでも謝罪を受け入れてくれそうな気がしたのは、こちらの勝手な勘違いだろうか。

 リースの目を見てみる。

 さっきよりかは、穏やかな目になっているように思える。

 急に芙蓉が低く、冷えた声を出した。


「……うそ」


 足元の光がざわめくように群れなして揺れたような気がした。そのあまりに冷たい声に、ユウはぎくりとする。


「うそよ。だったら最初っからそう言えばいいじゃない。あ、あなた、あたしたちを」


 芙蓉はそこまで言いかけて言葉を飲み込んだ。

 なんで、言いかけてやめるんだろう。

 何を言おうとしているんだろう。

 うん? とユウは芙蓉のほうへ顔を向けた。

 芙蓉の顔が引きつった。

 次いでリースが後ずさった。

 明らかに自分の作り笑いを見ての反応だ。

 きっと今の自分は、気持ち悪い笑顔を貼り付けている。

 それが自分でもなんとなく分かった。


「あなた、あたしたちを、こんなところに連れてきて……」


 ユウは芙蓉が最後まで言葉を述べるのを、黙って待った。

 無意識に唾を飲む音が喉から聞こえる。少しの間があってから続いた。


「ど……どうするつもり、なの……?」


 聞かれてしまった。

 無理強いして連れてこれば、そういうことを質問されるのは当然かも知れない。

 まさかこんなに早く聞かれるとは思わなかったが。

 その質問にはすぐに答えられなかった。

 ユウは芙蓉の顔から目を逸らした。

 またしても芙蓉の目をまともに見られない。

 目元と頬の筋肉から力が抜けて、作り笑顔も瞬時に消えた。

 何と答えようか迷い悩む。


「だから……みんなと一緒に、小旅行してみたかっただけだよ。でもこんな場所だし、中までは来てくれないんじゃないかと思って、つい脅すようなことしちゃったんだ。もうあんなことしないから、安心して」


 視界の端で、芙蓉が悲しそうな目をするのを見た。

 そうしてから彼女もまた目を逸らし、リースのもとへ体を寄せた。

 ひとまずのところ、追求は終わったようだ。

 ユウはこれで何度目かになる安堵のため息をついた。



 虎ちゃんの姿が見えないことに気付くのが遅れたのは、女子たちとの折衝に集中していたせいだった。

 彼は頼りになるが、油断ならない人物でもある。冷たい汗が流れた。

 首を前後左右に回して、かなり遠くに彼の姿をとらえた。

 小さく舌打ちする。

 水のせせらぎが、耳に流れてくる。暗くてよく見えないが、ここにはあちこちに水の流れがある。


「ふたりはここで待ってて。あまり歩き回ると危ないから」


 言葉通り、下手に歩くと危ないという意味だが、言外に逃げるなよ、ともとれる言い方になってしまった。

 二人は了承したような表情で見返したが、無言でうなずきもしなかった。

 ユウは虎ちゃんの立っている場所へ足早に駆け寄ろうとした。

 少し進んだところで水を踏み、ぱしゃっと音を立てる。

 靴の裏で水面の質感を感じる。若干後ろに下がって道を変える。

 青い光を帯びる地面をよおく見て、足を滑らせて水場へ落ちないよう慎重に進んだ。

 虎ちゃんは立ったまま、下を向いていた。取り憑かれたかのように、じいっと目を凝らしている。

 初めて来た場所なのに、こんな遠くまでよく一人で歩いたものだ。水に落ちることもなく。

 感心するし、呆れもする。


「ここにいたの。急にいなくなったから、びっくりした」


 ユウの若干咎めるような口調に対し、彼は振り返り、悪びれもせず、にこっと笑った。


「虎ちゃん、なに見てたの」


「あれ」


 彼はつま先の前を示した。

 もちろんそこにも青い光はある。

 しかしほかの場所とは違い、青い光は滲み、歪んでいた。

 明らかに何か透明なものを間に挟んでいる。

 どうやらそこには、比較的大きい水たまり、淵があるようだ。

 淵のなかの浅いところ、深いところ、あちらこちらに蛍光が泳いでいる。

 彼が言っているのは何の事か、すぐに気付いた。

 遥か彼方、淵から見えるどことも知れぬ深い底に、何やら黒い影が不規則な動きを繰り返しているのが見える。

 彼はそれを指差して、食い入るようにのぞき込んでいた。


「ユウくん、あれなに」


「あれは、……ニンギョウだよ」


「ニンギョウ?」


 しまった、とほぞをかむ。

 思わず答えてしまった。

 それは遠目ながら人の形に似ていた。

 頭と短い腕のようなものが付いており、さながら人影のようだったが、下半身は幽霊のように萎んで細くなっている。足らしきものはない。

 例えるなら、北方の海洋に住むクリオネに似ている。

 そう考えると、ずんぐりした短い腕はヒレに見えないこともない。

 黒いクリオネが、星々の海のなか、ゆらゆらと波に身をまかせ、漂っているように見える。

 よくも目敏く見つけたものだと感心する。

 黒い空間で、あんな黒い物体を見分けるなんて。

 自分なら教えられない限り、到底分からないと思う。

 虎ちゃんはしきりにニンギョウとはどういう意味かと聞いてきた。

 仕方がないので、少しだけ説明することにした。

 あんまりはぐらかすと、好奇心ゆえにまた勝手な行動をとるかも知れない。

 昔、自分が聞いた説明を思い出す。

 ニンギョウとは、人形、つまりヒトガタのこと。

 意志あるもののように振る舞い、人に近づこうとするもの。

 人のなかへ這入り込んで、命を共有するもの。

 だがどこまで彼に説明すべきだろうか。

 悩んだ。

 とりあえず、ニンギョウとは生き物みたいなもの、ニンギョウは人間を求めていること、そして盗掘する連中にとっては稀少な宝物であること、などを話した。

 虎ちゃんはあれが宝物だという説明に、首をひねって困ったような表情を浮かべた。

 あとはどの程度補足しようか考えあぐねていると、彼の声が耳に飛び込んできた。


「あれ、さっきの青く光る壁とおんなじ?」


 はっとして、ユウは虎ちゃんの顔を見た。

 本当に察しが良い。良すぎる。

 彼から壁石に関して何も聞かれてはいない。聞かれていないのだから、当然まだ説明してもいない。

 それなのに。

 それなのに、どうしてあれと同じだと思ったのだろう。

 どうやってその考えに至ったのだろう。

 ここに来る間にした、いくつかの会話や行動を思い出してみる。

 命は永久機関だとする自分の持論。

 命をエネルギー源とする文明とその遺跡。

 生暖かい生き物のような壁石。

 そこに宿る青い灯火。

 暗闇を飛び交う幾万もの青い光。

 そんなばらばらの事柄から繋ぎ合わせたというのか。

 彼の目は穏やかだが、あらゆるものを見通すかのような知性を感じる。

 ユウは心の奥底で、恐れと嫉妬を覚えた。


「う、……うん。原理は同じ。ちょっとちがうけど……」


「どうちがうの」


「使い道が、ちょっと……」


 説明をしようとしているのに、言葉を濁してしまう。

 本心では、彼にはちっとも教えたくないという思いがあるのに気付く。

 その狭量さが口をつぐませてしまう。つくづく、自分の器の小ささに嫌になる。


「ふ~ん。ニンギョウ、にんぎょう……人間の形ってことだよね。じゃあそれ」


「虎ちゃん、向こうで女子たちが待ってる。もう戻ろ」


 強引に話を打ち切って、ユウは歩き出した。

 なんなんだろう、この人は。

 異様に頭の回転が速い。

 この古代文明のことを実は知っているんじゃないのか。そんなふうにも勘ぐってしまう。

 戻り際、一応忠告しておく。


「虎ちゃん、僕のあとに付いてきてよ。ここら辺、見えにくいだけでかなりの水が流れてるから。落ちたら死んじゃうよ」


 ここには川や沼に匹敵するような危険な水域がある。

 脅しではなく、落ちて沈んだら最後、助けることはおろか見つけることさえできなくなる。


「うん、分かった」


 虎ちゃんはおとなしく言うことをきく素振りを見せたが、考えてみれば彼はここまで一人で歩いてきたのだ。

 水のことも気づいていたに違いない。

 それくらいは問題なく自力で対処できるのだろう。心配するだけ損かも知れない。

 目を前へ向ければ、芙蓉とリースが座ったままユウたちを待っている。

 本当は虎ちゃんに背中を見せたくなかったが、付いてこいと言った以上仕方がない。

 時々振り向いて彼の姿を確認しつつ、足元に気をつけて女子たちのところへ戻った。

 彼女たちは律儀にユウの忠告を守っていたようだ。じっと動かず、さっきの場所に座ったままだった。


「ここ、よく聞くとあちこちで水の流れる音がするんだけど」


 戻るなり、芙蓉が質問してきた。

 きつい口調だったが、語尾に掠れがあり、内心の恐怖を打ち消そうとして強がっているのが分かる。

 いつもの元気のいい悪口雑言はどこかに行ってしまったようだ。

 隣で座るリースが伸び上がるようにして一回ぶるっと震えた。

 芙蓉を後ろから見つめるその顔が、話しかけないで、刺激するようなことはやめて、と切に訴えている。

 それはやはり背中側にいては芙蓉に分かるはずもなかったが、リースは今度こそ自分の気持ちが伝わるよう、芙蓉の肩を何度か揺さぶった。だが芙蓉はやめない。


「山を登る前に渓流があったのは見たけど、ここって山のてっぺん近くでしょ? どうして水がこんなにたくさんあるの? 明らかに渓流よりも上にあるのに」


「さあ? でも多分こういうことじゃないかな。この山も含めた付近一帯から湧き水が出ていて、それが伏流水になって渓流に流れ込んでるんだと思う。きっとこの遺跡は伏流水の通り道になってるんだ」


 これは適当な作り話ではない。検証サイトで書かれていたことの受け売りだ。

 もともとは遺跡にあった下水道や低めの通路だったものが、気の遠くなるような長い時間のなかで水が入り込み、遺跡内を走る水路になってしまっている。


「下は、水に沈んでるの?」


「そんなことはないよ。遺跡の一部に水があるだけ」


 でもね、と続けた。

 大事なところだから、全員の目を見渡してからユウは述べた。


「今からもっと先へ進むんだけど、暗いところに水が流れてるせいですっごい危ないんだ。足元にはほんと気を付けてね。さっき虎ちゃんにも言ったけど」


 ちら、と彼のほうへ目を動かす。

 何食わぬ顔をして聞いている。

 肝が据わっているな、と内心苦笑いする。


「落ちたらね、絶対に助からないよ」


 ユウは努めて、淡々とした口調で伝えた。



 この宇宙を思わせる大広間は、地下に広がる遺跡の最上部に当たる。

 近年代の人たちが造った石段はそこまでしかなかった。

 あとは遺跡内の回廊を通ることになる。これと言って複雑なルートではない。道なりに進めばいいだけだ。

 所々水没していても、有志たちの作ったマップがあれば難なく最深部まで行けるはず。

 以前に入ったときの記憶もまだちゃんと残っている。

 大丈夫、迷うことはない。


「え、まだ進むの?」


 奥へ進む道を探していると、困惑気味に芙蓉が聞いてきた。


「うん、一番奥にもっときれいなところがあるんだ。そこまで行こうよ」


 ここで帰るわけにはいかない。もとい、帰すわけにはいかない。

 三人は顔を見合わせただけで、それ以上何も言わずユウに従って付いてきた。

 脅したおかげか、好奇心のせいか分からないが、とにかく付いてきてくれさえすればいい。


 はたして、マップ通りの場所に回廊の進入口を見つけた。

 目が慣れても歩きにくいことには変わりないからマップがあって助かったと心底思う。

 ここからさらに遺跡の奥へと入ることができる。

 スロープ状の回廊へ歩みだそうとした、そのときだった。

 虎ちゃんが意表を突く言葉を口にした。にっこり笑いながら軽快な様子で「お昼、食べようよ」と言ってきたのだ。

 ユウも、芙蓉もリースも、彼を見てキョトンとした。

 そんなみんなの反応を見て、虎ちゃんは相変わらずにこにこしている。

 ユウは訝った。彼は、いったい何を言い出すのか。

 たしかに時間的には正午近いが、こんな状況で誰も食べたいと思わないだろう。

 自分で言うのもなんだが、脅した人間の前で食事が喉を通るとは考えにくい。


「今、ここで食べるって言うの? それより早く先に進みたいんだけど」


 すると彼はユウに寄り、そっと耳打ちしてきた。上の社で刃物を振るってみせたというのに、物怖じする様子はない。

 自分のことなど恐れてはいないのだ。それがユウにはひどく悔しい。


「ユウくん、こっから先一緒に行くのに、こんな雰囲気だと楽しくないよ」


「そりゃ、そうだけど」


「ここでお弁当を広げて、みんなで話をすればちょっとは打ち解けるんじゃないかな。ユウくん、ぼくたちにやって欲しいことがあるんじゃないの?」


 ぎょっとして思わず彼のほうを見てしまった。

 彼はユウの顔を見て、口の端っこでにやっと笑った。


 ――やられた。かまをかけられた。


「ね、ユウくん」


「わかったよ……」


 しぶしぶ応じたが、別に食事をするのが嫌なわけではない。

 山登りをしていい感じに腹も空いている。正直食べたいとは思う。

 女子たちは、やはりあまり気乗りしないらしい。

 それでも虎ちゃんとユウが弁当と水筒を取り出して地べたに座ると、二人もまた腰を下ろして食事の用意をし出した。


「ああ、リース、ごめん。きみのお弁当、さっき僕が切っちゃったんだ」


「だいじょうぶ……。コンビニパンだから。食べられる」


 リースは学校でもいつもパンだった。気弱な彼女が一人自分の席で、もそもそパンを食べている姿は、外見が派手なだけに余計に孤独な光景に映ったものだ。

 虎ちゃんと芙蓉は体格に応じた小箱のお弁当だった。

 小さい中に、肉も野菜もきれいに計算されて詰められている。おまけに彩り豊かで見た目にもおいしそうだ。そんなものを作ってくれる親がいてうらやましいと思う。


「リース、唐揚げ食べる?」


「え、いいよ。ふよーちゃん」


「あたし、肉は苦手なの。パンに挟んだらきっとおいしいよ」


「あ、うん。じゃあもらう。ありがと」


 二人はあまり学校で会話をしないが、思っていたよりずっと親しい関係だな、と思った。

 プライベートの付き合いはないと思い込んでいたが、ひょっとするとメールやネットではよくやりとりをしているのかも知れない。


「ユウくん、この先、長い?」


 虎ちゃんが聞いてきた。少しだけ声を張っているのが分かる。

 わざとほかの二人に聞こえるようにしているのだ。


「うん、まあ、ね」


 どうしようか、ここで詳しく説明すべきだろうか。


「疲れるの、いやよ」


「あ、うん。でも、ちょっと疲れると思う」


 芙蓉は、はーっとため息をついた。

 しばし、場が無言になる。静かにものを噛む音だけが続く。


「あ、あのふよーちゃん、ユウくんにもおかずあげたら?」


 いきなりリースが無茶苦茶なことを言い出した。さすがに虎ちゃんも呆気にとられた表情をする。彼女は場の空気に耐えられなかったのだろうか。


「はあ?」


「えと、じゃ、おかずを交換したら……」


「だから、どうしてそう……」


 芙蓉を横目でそっと見やると、不服そうに箸を置いた。

 弁当箱を両手で支えて持っている。


「分かったよ。じゃあ、虎ちゃんと三人で交換しよう」


「ぼくは、遠慮しとく」


 彼はにっこりと微笑んだ。

 ユウは思わず、どうして、と声を荒げそうになる。

 勘弁してくれ。なんでこんな罰ゲームしなくちゃいけない。

 お互い嫌い合っている男子女子がおかず交換なんて。

 せめて虎ちゃんも参加して欲しい。


「おいしいかどうかは、保証しないよ」


「その言葉は、作ってくれた親に失礼だわ」


「ぼくが作ったんだ」


 芙蓉がぱっと目を見開いた。


「あなたが、作ったの。へえ」


「一人暮らしだから、料理はしないといけない」


 今度は虎ちゃんもリースも、驚いた目を向けてきた。


「ぼくの家族、死んでるからね。みんな」


 みんな、殺されたんだよ。

 思わず口を滑らせそうになった。

 そのときの光景を思い出しそうになって必死で記憶に鍵をかけた。

 ここで怒りを発しては、せっかく話ができるようになっているのに台無しになる。


「あら……そうなの。でも、みんなって……」


「事故、かな。そんな感じに思ってくれていいよ」


「知らなかった、そう、なんだ」


 交換するおかずを選んでいる間、虎ちゃんが間を持たせるように聞いてきた。


「ユウくんの親ごさんって、どんな仕事してたの」


「そんなこと興味あるんだ。えとね、博物館の学芸員だよ。大学に籍を置いて研究もしてた」


「すごいなあ」


「全然。あまり儲からない、食い詰め学者だったよ」


 芙蓉はユウと交換したシャケのバターホイル焼きを食べていた。肉は苦手だが、魚は大丈夫らしい。

 感想は相変わらず辛辣だった。


「味がうすい。それに、これはあっためないとだめね」


 芙蓉からもらった唐揚げは、冷めていても十分においしいと感じた。



 ユウたち四人は遺跡内部へと進み始めた。

 螺旋状になったスロープを、廻りながら降り下っていく。

 行く手には誘うように青い光が瞬いている。

 近くから、遠くから、水の流れる音、しぶく音が響いてくる。

 光のおかげで周囲の様子は思いのほかよく見えた。

 やや光量は足りなかったが、電灯なしで歩けるほどには明るかった。

 戸惑うのは、壁にも床にも青い光がゆらめいているので、距離感がつかめないことだ。

 例えるなら、星の瞬く夜空に落ちていくかのような気分だ。

 みな、壁に手を当てて、沿うようにして歩んだ。

 最後尾に立つユウは、ほかの三人がこの光景を見てどういう心境なのかが気になった。

 自分としては、不安を強くかき立てられてしまうのだ。昔の記憶を否が応でも思い出してしまうせいかも知れない。

 だがそんなユウの気持ちとは裏腹に、前方からはやや楽しげな雰囲気の話し声がこぼれてきた。三人は会話を交わしながら、歩を進めているようだった。

 ついさっきまでの、どこか緊迫してぎすぎすした空気はほどけていた。

 明らかに食事の前と後とで三人の、特に女子二人の精神状態は良くなっている。

 ユウは少し不満を感じたものの、現時点の状況に安心した。

 昼食を摂ることを提案した虎ちゃんに心のなかで素直に感謝した。

 道すがら、虎ちゃんはこの遺跡についてユウに色々と質問をしてきた。

 ずっと聞きたかったのを我慢してきたようだ。好奇心が溢れていた。


「ユウくん、この遺跡って、いつ出来たの?」


「ごめん、僕も分かんない。でも調べた人たちの話だと、有史以前らしいよ」


 話題を振られたことが嬉しくもあり、つい答えてしまった。

 会話に入りたかったのだと気付く。

 認めたくはないが、やはりこのグループからもあぶれたくはない。

 それに虎ちゃんにはすでに幾らか説明をしてしまっている。

 もういいや。

 ユウは聞かれるままに、答えてあげることにしようと思った。

 ここまで来れば計画はほぼ成功したも同然だし、それに自分一人沈黙していると、ほかの三人は先へ進むほどに不審や不安を増してしまうだろう。


「邪馬台国とか、それくらい昔ってこと?」

「ううん、もっと前。五千年とか、七千年とか」


 前を行く芙蓉が振り返った。


「うそよ、ここにはそんな昔に文明はなかったはずよ」


「一応、そういうことになってるんだけど。実はたくさんの人がずっと前から知ってる。遅くとも江戸時代にはとっくに知られてたよ。ほら、上に神社があったでしょ。あれ、昔の人がこの遺跡を封印するために建てたの」


 虎ちゃんは、ふーんと鼻から息を吐いてうなずいた。

 だが芙蓉は納得しなかった。


「そんなこと、教科書にも載ってないわよ。でたらめばっか言わないで」


「うん、えっとね、この遺跡群は、説得力を持つオーパーツっていうか、存在を認めると歴史が根底からひっくり返るんだ。だから表には出ない。教科書にも載らない」


「じゃあ、あなたはどうやって知ったの?」


「……ほかの人から教えてもらった。昔からいるんだ、研究している人たちが。それこそ、江戸時代くらいから」


「遺跡『群』ってことは、ほかにも同じ様な遺跡があるのね」


「たくさんね」


 一般には知られてないのだけれど。


「でもユウくん、研究したって表に出ないんじゃ、しょうがないんじゃない?」


 と、これは虎ちゃんだ。


「そうでもないと思うよ」


 いつの間にか、ユウと虎ちゃん、芙蓉の三人の会話になっている。


「誰にも知られず、知識や遺物を独り占めできる。それを好き勝手にして楽しめる。最初に遺跡を見つけて中を探索した人たちは、なかに残されたものを自分たちで再利用できないか考えたみたい。それで、その成果が今もいくつか残ってる」


 言って、ユウは右手に持つ刀を指し示した。


「ふーん。それも、そうなんだ」


 虎ちゃんが刀を覗き込むような姿勢をとる。


「そ。これ、造りは明らかに日本刀なんだけど、そんなもの有史以前の遺跡にあるわけないよね。これは遺跡内にあった合金を材料にして、戦国時代か江戸時代の刀工が打ったんだよ。多分だけど」


 この刀は大切な人から譲り受けたものだった。

 これら一群の遺跡には、地上の封印としてお寺や神社が建てられていることが多い。

 こことはまた別の遺跡に乗っかった神社に奉納されていたのが、この刀剣だった。


「あの、よかったら、刀の刃をもう一度、見せてほしいな」


 虎ちゃんがさりげなく頼んできた。

 ユウはそれが正直ちょっと気に入らない。

 これまでの態度で分かってはいたが、刀を向けて脅したことなど彼はまったく意に介していないようだ。

 溜め息ひとつ。

 見たいと言うなら、見せてあげよう。

 ユウはすらっと流れるような動作で刃を抜き払った。

 下り坂の回廊の、淡い光にきらりと反射する。宙に細長い三日月が光る。

 ユウはよく見えるよう、虎ちゃんの顔の真っ正面に刃をかざした。

 虎ちゃんはこの不思議な刀を恐れることなく、じっと眺めていた。

 ユウには彼の気持ちが分からないでもない。

 自分も譲ってもらったばっかりのとき、特に用無く抜いては時間が忘れるほど見入っていたものだ。

 斬るためにある刃物だが、これは絵画や彫刻と同じ芸術品の雰囲気がある。

 ユウには目利きは無理だが、それでもこれは『本物』だと信じられた。

 虎ちゃんの目は刃にゆらめく紋様をなぞっているようだ。

 一見、木刀に見える木目様の紋様は、得も言われぬ妖しさを持っている。

 ずっと見ていると、刀に意識が取り込まれてしまうような錯覚に陥る。


「ユウくん、さっき、上でおっきな石を切ったけど、どうやったの?」


「どうもなにも、普通に切っただけだよ。これ、切れ味が異常にいいんだ。軽いし、油断すると切りたくもないものを切っちゃいそうでちょっと恐い」


 ちら、とリースのほうを見てしまった。顔を曇らせながら話を聞いている。

 リースは、彼女は会話に入ってこない。

 ユウは刃を鞘にしまった。

 峰を鞘の鯉口に当てて沿わせながら引くと、自然に刀の切っ先が鞘に入る。

 ゆっくりと、慎重に、自分の手を切らないように納める。

 その所作を見て虎ちゃんは感心したふうだった。彼にそんなふうに見られると、ユウの自尊心がくすぐられる。

 まだまだ螺旋の回廊は続く。もう少し話をしてもいいかな、と思う。


「こういうのって、ほかにもたくさんあるの?」


「うん、でも僕はこれしか持ってない。ほかの遺跡から発掘されたものとか、造り直したものとかがあるはずだけど、ほとんど世に出回らない。本音を言うと、もっと欲しいんだけどね」


「この、今いる遺跡にはまだ残ってる?」


 虎ちゃんの目は青い光の加減か、好奇心のせいか、少し熱を帯びて見える。


「残念だけど、ほとんどないよ。盗掘されまくって、中身はがらんどうだって話」


 厳密に言えば、ついさっき降りてきた石段の生暖かい壁石や、今歩いている回廊を形作っている石材は、どれも遺跡文明によって造られたものだ。

 青く流れる光が証拠だ。これらも遺跡文明の遺物と言えなくもない。

 もっとも、これらは現実的に持って帰ることが不可能か、または持って帰ってもまったく意味がない。到底、お宝とは言えない。

 と、ここでユウはさっき上で見たモノを思い出した。

 首を回して、下を見渡す。

 見つけられるかちょっと心配だったが、周囲の明るみのおかげでさっきよりは簡単に見つけられた。

 からかい半分、本気半分で聞いてみた。


「そうそう。虎ちゃん、さっき見たニンギョウだけどね。お宝だって話したでしょ。あれ、何の加工も施してない、遺跡文明のそのまんまの残りなんだって。大分価値があるらしいよ。ね、興味ある? なんなら観光ついでに探してみる?」


 これは遺跡探索のサイトではかなり有名だった。この遺跡にはまだいくつか貴重なものが残っているが、個人で回収できる範囲ではもうあれしか残っていない。

 あの異形の物体は、世界各地にある同系統の遺跡でまれに発見される。

 手に入れた者は、人間から別種の生命体へ変換できるとコミュニティ内ではまことしやかに噂されている。

 都市伝説レベルの眉唾もんだと思うのだが……。

 ユウの言葉を受けて、虎ちゃんは明らかに先程よりも目を輝かせて答えた。


「ああ~、ユウくんがいいって言うなら、ぜひ」


 芙蓉がいきなり首を向けて叫んだ。


「やめてよ、冗談じゃない!」


 虎ちゃんは口元だけでうっすらと笑っていた。楽しいときに彼がする表情だ。

 まったくこの状況に動じていない。

 ユウはおろか、この奇怪な遺跡に対しても恐怖は感じていないのだろう。


「あそこに見えるのが、そのニンギョウだよね。ユウくんの話からすると遺跡を探索している人はほかにもいっぱいいるみたいだけど、そんなに価値があるならどうして誰も取らないの?」


 虎ちゃんの言葉に女子二人もうつむき、下を見る。

 虎ちゃんの伸ばした腕の、指の先。

 その遥か彼方に、ふわふわと黒い人影みたいなものが浮いている。

 右へ、左へ、ときにくるりと旋回して。

 意志あるもののように、気の向くままに動いているように見える。

 ときどき何かに遮られるのか、姿が消えたりする。

 あれは確かに見えているのだが、実際に遺跡内のどの辺りに存在しているか定かではない。

 今歩いている回廊と同じく、ニンギョウの漂っている場所もまた遠近感がうまく測れない。

 遠くにあるようで、その実近くにあるようにも見えるのだ。


「あれは、前々から存在が確認されていたんだけど」


 コミュニティでは誰が最初に奪取するか競争しよう、などという意見も出て、一時期盛り上がっていたようだ。


「けど、取れなかった。誰にも取れなかったんだ。遺跡を探索している人は確かにたくさんいるけれど、どこにあのニンギョウがあるのか、目では見えるのに全然分からないんだってさ。だからあれは例えばゲームで言うところの『バグで取れないコイン』みたいに扱われてる。どうやっても取れない上、万一取る方法が分かっても命懸けになるかも知れない。そこまでして取ろうという人もいない」


 今ではもう、ただ眺めるだけの存在として放置されている。

 それでもユウは、もし機会があればいつかチャレンジしてみたいと考えている。

 それだけの価値はある。

 問題はどこにあるか、だが……。

 ときどき姿が消えるところがヒントだと思う。

 虎ちゃんはじいっと、そのクリオネのように動く黒い物体を目で追い続けていた。

 不意に口を開いた。


「う~ん……がんばれば取れそうだと思うんだけどなあ。ねえユウくん、ほらほら、見て。なんか、手を振ってるように見えない? おいでおいでをしてるみたいだ。きっとね、あれも人間に会いたいんだよ。見つけてくれるのをずっと長いこと待ってるんだよ」


 喜々として語る彼の表情をうかがい見て、ユウは不覚にもぞっとしてしまった。

 ちょっとだけ、常軌を逸しているかのように見えたのだ。

 おいでおいでって、何言ってんだ。

 自分はとてもではないが、初めて見た不気味なものに対して、これほど強く好奇心を抱くことはできない。

 虎ちゃんなら、案外簡単に取れるかも、と本気で思えてしまう。

 今日の計画で必要なのは最低一人だけ。

 別に彼でなくてもいいのだ。

 女子二人のうちどちらかで構わない。

 もしうまくいったら、今度は彼と一緒にお宝探しに来るのもいいかな、とユウは思う。

 自分がこれからすることを彼が許してくれるのなら、の話だが。



 回廊内を淡く照らす青い光のなかを、ユウたちは道なりに進んでいった。

 途中、いくつか分岐や脇道があった。

 本来は小部屋などへ入るためのれっきとした連絡通路だが、長い時を経た今となっては侵入者を迷わせるためのものに成り代わっている。

 内部のマップを正確に知っているつもりでいたユウも、枝分かれのたびに不安になった。

 三人に知られないよう、こっそりとポケットからスマホを取り出して道筋を確認をする。

 そこにはあらかじめダウンロードして保存しておいたマップがある。

 この遺跡は、全体的に正八面体の構造をしていた。

 ピラミッドを二つ、底辺を合わせた形になる。

 どうやらもともと上半分が地上に、下半分が地下になっていたようだが、長い年月のせいか、はたまた発見した昔の人たちの手によってか、全体に土が被さり、完全に山の一部と化してしまっている。

 下へ降りる回廊は正八面体の壁に沿うようにして大回りな螺旋カーブを描き、上半分を降りきったところで一旦左右に分かれる。

 そして左右からぐるっと囲い込むようにして周りながら降り下り、最後は下半分のピラミッドの頂点、つまり遺跡の最下ポイントに達する。

 そこがこの旅行の最終到達地点である。

 その場所に何があるのか、ユウはまだ三人には伝えていない。

 分岐部や脇道をいくつも通り過ぎ、そのたびにそれらを横目で見ながら思い悩む。

 もうすぐ、上半分を降りきる。

 それは手に入れたマップから得た情報だが、単にそれだけでなく感覚的なものとして分かってしまう。

 この先、遺跡の最深部に入るための道は左右に分岐している。

 ここで二手に別れなければいけない。

 どうしようか。どうすれば言う通りに二手に別れて行動してくれるだろうか。

 こればっかりは、この日に至るまで考えても考えても妙案は浮かばなかった。

 すでに脅すという選択をしていたのでいっそ力尽くで、とも考えるが、別れたあとも協力してもらうことを考えるとあまり名案とは言えない。

 どう三人を言いくるめようか。

 特に女子二人だ。

 組み合わせも考える必要がある。虎ちゃんに別行動をとってもらうことは決定事項として、誰とペアを組ませようか。

 それを決めたら自然、自分と同行する人物も決まることになる。

 さりとてリースも芙蓉も自分と二人きりで歩きたくはないだろう。

 ユウは地下に入ってからというもの、三人の観察を怠らなかった。

 虎ちゃんは見込んだとおり肝が据わっており動じることがない。この遺跡にも興味を示している。

 芙蓉は自分を油断なく伺っており、時折尖った感情をぶつけてくる。生来の勝ち気な性格のためか、弱い部分は見せていない。

 問題は、リースだった。

 昼食が終わった直後はまだ気持ちに余裕を感じられた。芙蓉ともにこやかに談笑したりしていた。

 それが、虎ちゃんとユウの会話を聞いているうちに、段々ともとの怯えた様子が戻ってきていた。

 虎ちゃんに頼まれて刀を抜いたのも良くなかった。きっとバッグを切られたときのことを思い出したのだろう。

 リースの様子をさりげなく、横目で伺ってみる。

 呼吸が速く、唇の色が悪い。指先が震えているようにも見える。

 虎ちゃんと比べてはいけないが、正反対と言えるほどもろい精神の持ち主だ。

 なんとか心をほぐそうと、ユウはリースの隣に駆け寄って話しかけてみた。

 リースはユウの言葉を、耳でただ受けているだけのようだった。

 無視しているようにも見えた。

 ただ、つぶさに観察すればちゃんと反応は見つけられた。

 目元や頬、唇といった感情の影響を受けやすい部位が、ユウの言葉一つ一つに微細な動きを示した。

 彼女の顔色はますます悪くなっていった。

 震えはいつしか指だけでなく、肩にまで広がっている。

 ときによろめくのは、足場を見誤ったわけでなく、足もまた震えで力が入らないからかも知れなかった。

 ユウは自分が話しかけたことが逆効果だったことを認めざるを得なかった。

 なんて気の小さい女子だろう。

 自分が脅したことがそもそもの原因であることを棚に上げ、ユウはこの哀れな女子に心底呆れた。

 ユウが話しかけている間、終始無言だったリースが口を開いたのは、あとわずかで通路の分岐が見えてくる所だった。

 リースは声も震えていた。

 腹に力が入らないのか、吐く息とともに辛うじて声を形にしていた。


「ね、ねえ……このまま、どこへ連れて行かれるの……? わたしたちのこと、本当に……どうするつもりなの? ひょっとして……」

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