第2話 アドレッセンス 1 

 誰も通らないような山道を、二つの人影が草を分け入るようにして歩いていた。

 一人は背が高く、体格のいい青年だった。

 髪は伸びっぱなしのうなじまでかかる長髪で、鼻筋の通った端正な顔をしている。

 片手に長い棒を携え、背筋を伸ばして道とは言えない道を難なく進んでいる。

 もう一人はまだ幼さの残る少年だった。

 ひいひい、ふうふう言いながら何とか青年に付いていっている。


「待って、おにいちゃん」


 青年はペースを落とさず、ずんずん歩いて行く。待って、と何回繰り返しても彼は待ってくれなかった。

 少年は必死で食らいついていく。

 こんなところで見失ったりなどしたら最悪だ。

 心臓がばくばく拍動している。呼吸は二秒に一回の割合で吸って吐いている。数日分の体力を一気に消費しているように思える。

 寿命がリアルに縮んでいるんじゃないかと心配になる。

 山道は突然、急な坂になってきた。

 ただでさえ限界に近いのに、余計につらい。

 なんだか足場が固いと思っていたら、下の土から石段が顔を出している。

 道理で急勾配になるはずだ。ここはかつて階段だったのだ。

 かなり古いもののようで、土と草におおわれている上、所々が苔むしている。


「もうすぐだ。がんばれ、ユウ」


 青年が励ましをかけた。

 さっきより声が遠い。ちょっと離されているようだ。

 ユウは手で土をつかみ、四つ足の動物のように這いつくばって階段を登った。

 すでに青年は階段の最上部に立っていた。

 棒を近くの松の樹に立てかけて、一人で水筒の水を飲んで休憩を取っている。

 ユウは一気に段を登りきると、尻を地べたにつけて後ろ手に倒れ、空を仰いだ。

 激しい鼓動と呼吸がおさまるまで待つ。

 呼吸が整うまでの間、空の景色をぼおっと眺めた。

 淀みのない、澄んだ秋の空が広がっている。

 筆で伸ばしたような、薄い、白い雲が、ゆっくりと流れている。

 視界の端に不意にアキアカネが飛び込んできた。ホバリングしながら、右へ左へ旋回している。

 呼吸が普通のリズムに戻ったところで、立ち上がって背中側を見るよう青年から促された。

 そこには荒れ果てた何かの建造物の残骸があった。

 石畳の続く道の向こうに、大きな廃屋が見える。

 登ってきた階段を挟むようにして石の柱が二本立っている。どちらも途中で折れ、近くにその柱の上に架かっていたとおぼしき部分が落ちて、野ざらしになっている。

 記号のシャープか漢字の『天』の字に似ている。形状からそれが鳥居だと気付いた。

 だとすると、ここは神社だったのだろうか。

 周囲はまばらな林に囲まれ、落ち葉や土くれが埃のようにたまっている。

 閑散とし、ひとけはない。

 雑草が我が物顔で伸び放題になっている。細長い葉を何本も伸ばしたり、ひょろ長い茎の先に小さな黄色い花を無数に咲かせている。

 風が吹いてそれらががさがさと揺れると、まるで草がささやいているように聞こえる。

 石畳はそういった無数の雑草や、風にまかれた土におおわれて、ひどく汚れていた。


「おにいちゃん、ここ、なに?」


「神社の跡地、だ。今はもうただの廃墟だ」


 ああ、やっぱり神社なんだ。

 なんだか既視感がある。ここは前に来たことがある。そんな気がする。

 おにいちゃんに心の中で感謝をした。彼は自分との約束を守ってくれたのだ。

 周囲を見回していると、急にユウは頭に霞がかかったような感覚を覚えた。

 遠くのほうで、声がしたような気がする。

 可愛く、軽やかな声。

 また幻聴だ。

 最近多くなっている。

 ぼんやりとしていると、同行の青年がすねを軽く蹴ってきた。


「何してる。ゆっくりしてられないぞ、先は長いんだからな」


 そう言うと、青年は黒い棒を手に取って再び歩き始めた。


「行くぞ。あそこから入るからな」


 青年が指差す先には、石畳によって導かれる廃墟があった。



 この青年は、榊といった。

 だからユウは彼のことを、『榊のおにいちゃん』と呼んでいる。

 おにいちゃんと言っても血のつながりがあるわけではなく、親しみを込めてそう呼んでいるだけだ。

 榊のおにいちゃんとは、ほんの数ヶ月前に知り合った。

 ユウには八つも年の離れた姉がいる。

 野暮ったく鈍くさい自分とは違い、美人で聡明で、何をやっても人並み以上にこなした。

 高校を卒業するやすぐに社会人として働きだし、まだ小学生だった自分にとって別世界の人間になっていた。

 そんな姉は自分のことをまるで相手にせず、たまに話せば小馬鹿にし、何か言い返したりすれば平気で年下の弟を殴った。

 ユウにとって姉とは、尊敬と恐怖の対象だった。

 中学校に入ってから間もない頃のこと、家に帰ると玄関先で姉が見知らぬ男と話し込んでいた。

 背が高く、髪の長い男だった。

 姉は男の胸元に手を添えてじっと目を見つめたまま、なにか囁きかけているようだった。

 ユウにはその姿が艶っぽい悪女のように見えた。

 姉は帰宅した弟など眼中にないようでまったく気にせず男と会話を続けていたが、相手の男のほうが気づいて「よう」と声をかけてきた。

 それが、榊のおにいちゃんとの最初の出会いだった。

 第一印象はあまり良いものではなかった。

 無造作な長髪に、どこを見ているか分からない目。へらっとした、だらしない口元。

 言い方は悪いが、いわゆるちょっとイっちゃってる人かと思ったくらいだ。

 今でもその外観は変わっていない。

 ユウはその妙な男に、何故か目が釘付けになった。

 引き込まれるような感覚を覚えたのだ。


「お姉ちゃん、この人、誰……」


 姉は鬱陶しそうに一瞥したが、思いついたように突如、にやっと意地悪そうに笑った。


「お姉ちゃんの彼氏よ。いいでしょお~」


 そう言って彼の肩ごしに手をまわし、首ったまにもたれかかった。

 姉に恋人がいること自体は、別段驚くことではなかった。

 今まで一人も家に連れてきたことはなかったが、あの姉なら何人かの男と付き合ったことはあるだろう。

 驚いたのは、目の前にいる男が学生服を着ていることだった。

 見た目からすると多分、高校生だ。

 つまり、姉にとっては年下の彼氏ということになる。

 ユウは姉がまだ学生だった頃、同級生の男子を馬鹿にするのを何度も聞いていた。姉は同年代の男を軽蔑しているようだった。

 そんな姉が年下の男を好きになるなんて考えられないことだった。

 その場はお互い自己紹介して終わったが、それから何度も姉の彼氏はユウの家へ遊びに来るようになった。

 時には姉とではなく、ユウと二人だけで話すこともあった。

 色々聞いてみると、その男――榊は現在高校三年生で、共通の趣味を話すサイトで姉と知り合ったのだと言う。

 高校生ながら独り暮らしをしており、将来は趣味を活かした仕事に就きたいと話した。

 ユウは彼が姉をどうやって口説いたのか知りたかったが、それはさすがに教えてもらえなかった。

 代わりに、その趣味とやらのほうを教えてもらった。

 ユウは姉のことを実はほとんど知らない。

 社会人になってからは尚更知らないことが増えた気がした。

 彼氏との共通の趣味とは何なのか興味があった。聞いてユウは意表を突かれた。

 遺跡巡り、だと言うのだ。

 今どきの高校生や、OLの趣味が、遺跡巡りだって?

 信じられなかった。

 しかし榊が見せた遺跡の写真は、ユウをさらに驚かせるものであった。

 写真に写っていた遺跡の建築様式、背景に映り込んでいる巨樹、花と人の彫刻、地下を思わせる深い闇、その闇のなかに浮かぶ無数の青い光、そういったものに見覚えがあったのだ。



 実は、ユウには誰にも言えない過去がある。

 三歳くらいまで、田舎の山間部に家族で住んでいた。

 このとき、昔話で言うところの『神隠し』に遭った。十数日もの間、行方不明になっていたのだ。

 その際、一緒に消えた幼馴染みの女の子は帰って来なかった。

 ユウひとりだけが、何日も経ってからひょっこり戻って来た。

 親や町の大人たちは無事に戻って来たことを喜んだが、一方で尋問のようなこともしてきた。

 今まで一体どこにいたのか。

 どうやって食いつないでいたのか。

 どのようにして町まで帰ったのか。

 そして、一緒だった女の子はどうなったのか。

 ユウは大人たちの度重なる質問にどう答えたのか、記憶にない。

 ただ、女の子についての質問に対してだけは、何と答えたか覚えている。

 自分は、こう、答えた。


「食べちゃった」


 何故、あんなことを言ってしまったのだろうと思う。

 それから程なくして、ユウは家族ごと引っ越した。それまでとは真逆の都市部に住むことになった。

 昭和のこどものように山遊びが大好きだったユウにとってそれは悲しいことであったが、今になって思えば仕方がなかったと思う。

 消えた女の子は、家の近所に住んでいた。仲の良い女の子で、よく一緒に遊んでいた。

 きっと親同士も交流があったに違いない。

 それが自分だけちゃっかり帰ってきて、その子のほうはついぞ家に戻ることはなかったのだ。

 父と母は、なんともやりきれず、肩身の狭い思いをしたのだろう。

 自分の息子が事故の巻き添えにした、といった罪悪感もあったかも知れない。

 だから町にはいられなくなったのだろう。

 悲しいことに、ユウはその子の顔を思い出すことができない。

 それはあまりにも小さい頃の出来事で、思い出のなかでその子の輪郭がぼんやりと浮かぶだけだった。

 顔だけでなく名前すらも思い出せなかった。

 自分の薄情さに嫌気がさすが、やっぱり三つくらいの年では無理もないかと思う。

 小学生のとき、両親にその子のことを聞いたことがある。

 父も母も、それまで明るく喋っていたのが急に無言になり、顔は能面の如く無表情に固まった。

 何故か、どうしてもその子のことを教えてくれなかった。

 頑としてユウの質問を無視した。

 姉もまた同様であった。

 当時姉は小学校の高学年、弟の失踪事件をはっきりと記憶しているはずである。

 当然、帰ってこなかった幼馴染みの女の子のことも。

 しかしやはり、話してはくれなかった。

 仕方がないので、ユウはアルバムを引っ張りだしてその子の写真を探すことにした。

 するとどうだろう、アルバムは部分部分、虫喰いになっていたのだ。

 明らかに入っていた写真が抜き取られていた。

 今度はかつて住んでいたという山間部の田舎町の住所を知ろうとした。

 ところがこれも両親たちは決して教えてくれなかった。

 このあたりでユウはようやく、家族が昔のことを『なかったこと』にしようとしていると勘づいた。

 ユウはいつしか、家族に本心で笑顔を向けられなくなった。

 意を決して一度、自分の家を家捜ししてみたことがある。

 父の書斎、姉の部屋、両親の寝室、クローゼット、タンス、本棚、庭の物置、縁の下にまで潜って調べてみた。

 どこにも前の住所を示すものはなかった。

 デジカメやパソコンなどのデジタル記録も引っ越してからあとの内容ばかりだった。以前のものはすべて消去されていたのであった。

 例の女の子のことも一切、残されていなかった。

 両親たちの隠蔽は、徹底していた。

 ユウはもう、調べるのを諦めた。

 しかし家族がこうまでして隠したがるのは何故なのだろう。

 逆にそれが疑問となった。

 本当に肩身が狭くなって逃げ出しただけだろうか。

 昔を思い出したくないだけだろうか。

 本当は息子に知られてはまずいことがあるのでは?

 ひょっとしてそれは息子を守るためなのでは?

 知ってしまうとユウが苦しむから、だから隠しているのでは?

 考えがそこへ行き着くと、自分が何かとてつもなく罪深いことをしでかしたのではないかと急に恐くなった。

 思い出されるのは、あの言葉だ。


 ――「食べちゃった」


 齢三つの幼児が、山のなかで十日以上、何も食べずに生きていけるのか。

 まさかとは思う。

 名前も知らないあの幼馴染みの女の子は、自分にとって大切な存在だったはずだ。

 それを、まさか、そんな、そんなわけはない、あるはずない。

 いくら何でも考え過ぎだと、自分を落ち着かせた。

 きっとあの子は、自分と一緒に山を迷い、その最中に足を滑らせでもして崖の下に落ちたか、野犬に襲われでもしたかのだと考えた。

 ずっと、そう思うようにしてきた。

 それが、榊の持ってきた写真を見た途端に、意識の深い沼からぼこりと泡がせり上がるようにして記憶が蘇ってきたのだ。

 そうだ、ここには以前来たことがある。

 少なくとも、似たような場所には行った。

 幼い日、女の子と連れだって山奥にある奇妙な洞窟に入った。その中で確かに見たのだ。

 写真に写っているものと同じものを。

 それを榊に話したとき、興味深いね、と言って姉のほうを流し目で見やった。

 姉は無言だった。

 その日を境に、榊は姉よりもユウと話す時間が圧倒的に多くなった。

 話題は当然、遺跡についてだった。

 榊は部活には入らず、バイトもせず、しょっちゅう奇妙な遺跡群を巡っていた。土日を挟んで数日戻らないこともしばしばであった。

 そして帰ってくれば、いの一番に姉ではなくユウに調査報告をした。

 社会人の姉は自由な時間が少なく、榊の遺跡巡りにはたまにデート代わりにくっついていく程度になってしまっていた。

 姉は最初こそ無関心を装っていたが、恋人が自分より弟と仲良くなるのが内心かなり不満だったようだ。

 ある日、二人が姉の部屋に籠っているとき、ユウは偶然その前を通りがかった。

 てっきりいちゃついているのだ思って、抜き足差し足で邪魔しないよう自分の部屋へ戻ろうとすると、ドアから怒鳴り声が響いてきた。


「なんであいつを巻き込むのよっ!」


 姉の怒ったときの声は上擦っていて、聞く人の心をざらつかせる。ユウはこの声が心底苦手だった。

 ドアの前で蛇に睨まれた蛙の如く、しばらく動けずにいた。


「あんた、いったい何考えてるわけ?」


「怒った顔も綺麗だなぁ」


「ふざけないで。何を企んでいるの? いい加減、はっきり言ったらどうなの!」


「家族が欲しいんだ。俺、家族いないからさ。ああ、そうだ、お前の弟をくれよ」


「……殺してやる」


 その後、何かを叩きつけたり、ひっくり返したりする音が続き、急にしんと静かになった。

 ユウはいけないと思いつつもドアに顔を寄せ、耳をそばだてた。

 ただならぬ雰囲気なのは分かった。

 ユウにはまだ彼女ができたことはなかったが、彼氏彼女というのはたまにはこうしてひどく険悪になったりするものだろうか。

 しかし殺してやるとは尋常ではない。

 息を殺してドアごしに様子を伺っていると、そのうちくすくすと押し殺した笑い声が聞こえてきた。

 姉の甘えるような言葉、榊の歯の浮くような台詞も連なり、急にユウは馬鹿らしくなってその場を離れた。

 その日の夜遅くに榊は帰宅した。

 姉は玄関先まで出て見送り、妖艶な微笑みとともに手を振っていた。

 ドアを通じて聞いたときのような険悪な様子は感じられなかった。

 雨降って地固まるのことわざ通り、喧嘩をしてすぐ仲直りし、以前より親密になったように見えた。

 しかしあの会話はいったいなんだったのだろうか。

 本当にただの恋人同士の喧嘩だったのだろうか。どうも腑に落ちなかった。

 それ以降、二人が喧嘩しているところを見たことはない。

 ただ、このことがあってから、ユウは二人の関係について若干の疑問を持つようになった。



 榊と知り合って数週間後、彼はユウにこんな提案をしてきた。


「幼馴染みの女の子、探してみないか?」


 彼はユウが以前住んでいた田舎町がどこにあるか見当が付くと言う。

 家には一切の手がかりがなく、姉は榊に対してもそれを教えてくれなかったが、それでもいくつかの情報――ユウのかすかな記憶やこれまで巡った多くの遺跡の特徴など――から一ヶ所に絞れると断言した。

 ユウは一も二もなくその話に乗った。

 ずっと心の奥底で引っかかっていたことが解決できるかも知れないのだ。

 もちろん、ユウも榊もあの子が生きていると信じているわけではない。

 探す、というのは、あの子の痕跡を探すということを意味する。

 死体、と名言するのはさすがに避けたが、何か服とか靴とか、遺留品が遺跡内に残っている可能性はある。

 ユウはその女の子のことに思いを馳せる。

 まだ幼い時、自分と二人、見知らぬ奇怪な遺跡に迷い込み、そして恐らくは命を落としたであろう女の子。

 どんな気持ちで死んでいったのか。

 一人、あの場所から帰れず、暗い遺跡のなかに残り、今も寂しく骨を晒しているかと考えると、胸の内がぎゅっと絞られるように苦しくなる。

 もしあの子に関する物品が何か見つかれば、あの子の家族を探し出してそれを手渡したい。許してもらえるなら、あの子の墓前で手を合わせたい。

 そうして初めて、自分は心のつっかえが取れて前へ進めるだろう。

 きっとまた両親とも笑顔で話ができるようになる。

 しかし榊の話によれば、遺跡に入ることはかなりの危険を伴うらしい。

 まずは訓練が必要だということで、榊から遺跡巡りのいろはを教わることになった。

 その代わり雑務をするよう要求してきたが、ユウにしてみれば願ったり叶ったりである。

 つまらないことでも彼の役に立ちたかった。一緒に何かをしていたかった。

 すでに榊のことをおにいちゃんと呼び始め、本当に血のつながった姉よりも懐いていた。

 ユウは榊の出す訓練に耐えた。

 なまじ体を動かさないインドア派だったものだから、ほんの少し走っただけでもすぐ息が切れた。

 しかし榊は決してユウを甘やかさず、厳しい体力作りをさせた。遺跡巡りはとにかく体力勝負だとのことだった。

 研究している不思議な遺跡群に関しても教えてくれた。

 今までは「どこそこへ行ってきた」とか、「こんなものを見た」といった程度の単なる会話のネタでしかなかったが、今度はれっきとした授業であった。

 予想はしていたが、それはかなり荒唐無稽でファンタジックなものに思えた。

 自分が知っている歴史や科学とはまるで違うのだ。

 そんな感想も榊が見せたいくつかの資料を目にしたとき、きれいに吹っ飛んだ。

 それは写真であったり、動画であったり、標本であったり、何者かが書いた手記であったりした。

 ネットにも専門のサイトがあり、会員制で情報は厳重に管理されていた。

 それらは榊の話す内容に強い信憑性を伴わせた。

 しかしそうやって教えておいて、なぜか榊はいくつかの質問について微妙にはぐらかすことがあった。

 専門サイトも榊が開いたページを見せてくれるだけで、何度頼んでもパスワードを教えてくれなかった。

 どうやら榊はユウに伝えることを意図的に限定しているようだった。

 加えて最も肝心なこと、つまりユウが幼い頃に女の子と神隠しに遭った、くだんの遺跡に関する情報についてもまったく教えてくれなかった。

 ユウがしきりに聞きたがると、


「まだ早い」


 とけんもほろろに断るのだった。


「べつに教えることはかまわない。だけど場所が分かったらお前、我慢できずに一人で行っちまうんじゃないか? それはまずいからな」


「じゃあ、いつ教えてくれるの」


 一人では行かないよ、とは言わない。

 そんなところを見透かされていたのかも知れない。

 榊はこう、答えた。


「実際に調査に行く日まで内緒、だ。そのときには道すがらおいおい説明することにしよう。実物を見ながらな」


 そうして、今日やっとここに到る。

 長かった。本当に長かった。

 手ほどきを受け始めてから実に三ヶ月の月日が経過していた。



 横に長い廃屋は、かつて神殿か何かであったようだ。

 両開きの扉らしきものがあるが、ひしゃげて潰れ、まるで意味を成していない。

 ユウたちは扉の横にある狭い間隙から体を横にして入った。

 なかに入った途端に、冷気が顔に当たるのを感じた。それは奥のほうから流れてくるようだった。

 実際に肌に冷たいというよりも、得体の知れない恐ろしさで心を凍えさせるような感覚だった。

 榊の後ろについて、冷気の出所へと近寄っていく。

 すると廃墟の奥まったところの床に、大きな黒い穴が広がっているのが見えた。

 炭鉱の出入り口のような、無造作な木組みで作られた四角い穴だった。

 穴は廃屋の木ぎれの下敷きになっている。

 屋根や柱、さらには扉のようなものの残骸がおおっている。

 ほぼ全体が隠れているのにも関わらず、穴から闇が漏れてくるような錯覚がする。

 冷たい空気とともに、真っ黒な闇が奥から漏れている。

 不意にユウは、誰かの足音を聞いた気がした。

 次いで、笑い声。あどけない、こどもの笑い声。

 ぎょっとして硬直した。

 ユウの視界の端、目尻の近くに小さな女の子がトテトテと走るのが見えた。


「あっ」


 誰もいない。

 声も、足音も消えた。


「ユウ、どうした」


「うん……、なんでもない」


 まただ。どうも最近、頻度が多くなってきている。

 あの幻は考えるまでもなく、あの子だろう。

 だとすれば、これは自分の罪悪感が引き起こしているに違いない。

 しかし、今まではたまのフラッシュバック程度だったのが、榊から遺跡のことを聞かされてからは特に回数が増えた気がする。


「大丈夫か」


「気にしないで。ちょっとした立ちくらみ……みたいなものだよ」


「ふ~ん、そうか。てっきり、いないはずのものでも見えてるのかと思ったぜ」


 ごくりと生唾を飲み込んだ。

 おそるおそる、自分がおにいちゃんと慕う男を見る。

 榊は背中を向けて話しており、その表情を伺い知ることはできない。



 榊は行く手を阻む残骸を無理にどかしたりはせず、その合間合間を縫って慎重に穴まで近寄った。ユウもその後ろを追う。

 じきに穴の縁まで辿り着いた。

 二人の足元に、真っ黒で深い穴が口を開けている。

 穴の上には柱やら木の板やらが折り重なっているが、なんとか人一人は入れそうな隙間がある。

 そこから覗き込んでも、奥は闇が充満して光を吸い込んでおり、何も見えない。


「これなに? どこへつながってるの?」


「遺跡内部へ入るための連絡通路だ」


 得体の知れない闇の道へと、榊はためらいなく足を踏み出した。

 つま先から、足首と、順番に暗闇に消えていく。

 榊はユウに付いてこいとも言わない。

 勇気を持ってユウもその暗い穴に入った。

 進み出たユウの足は踏みしめるべき地面を見失った。

 落ちるかと焦ったが、すぐに足は下にずれた地面を踏んだ。

 どうやら闇の向こうはスロープではなく、階段のようだ。


「あ、わりい。お前は見えないよな」


 そう言うと榊は、何かを軽く叩いた。

 壁にぼうっと青い灯が滲み出す。

 その光に、榊の横顔と長髪が浮かんでくる。

 榊は右手の中指を曲げて、ノックをする体勢で下から見上げていた。

 彼の叩いたものは、壁の石だったようだ。

 青い灯は次々と壁石に灯り始めた。

 不思議な光だった。

 じっと見つめても眩しくはなく、そっと手をかざしても熱くはない。

 その灯りに照らされて、長い階段が下へ向かっているのがぼんやりと見えた。

 階段は切り出した石で組まれているようだった。見れば壁も天井も同じ材質だ。

 榊が先導し、段を降りて行く。

 固い足音が木霊する。

 ユウもそれに続く。

 足元が不安になり、青く光る壁に手を付けた。

 あったかい。

 思ったより柔らかい感触だったので、びっくりして反射的に手を離した。


「はは、どうした?」


 榊が下から上目遣いに語りかける。

 額にかかる髪の合間から瞳が覗く。楽しげに笑う。

 声が壁石にうわんうわんと反射する。


 はは、はは、どうした、どうした、どうした……。


「なんか、壁が、妙に生温かくて、なんて言うか」


 なんか、なんて言うか。

 ユウは言葉を飲み込んだ。

 馬鹿馬鹿しいことを口走りそうになった。


 ……生き物みたい。


 壁の石に触れた感触は、これまで触れたもののなかで一番近いものを挙げると、人の肩とか背中だ。

 筋肉の弾力があり、ある程度脂肪もあって柔らかくもある。


「ユウ、聞きたいこと、いっぱいあるだろ?」 


「う、うん」


「教えてやるよ。約束だったしな。でも、その前に言っておくことがある」


 榊は言葉を強めた。


「まだ大分先だが、道のりに分岐点がある。そこで一旦、二手に分かれないといけない。でないと、最深部には入れない仕組みになっている。ここの遺跡で唯一残っている仕掛けで、二つの方向から同時に操作しないと最深部への扉が開かないようになってるんだよ」


 にやけた顔のまま、ぞっとするようなことを言った。


「つまり、そのときはお前一人だけで進まなきゃあ、いけないんだ」

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