第4話決意

「先生、

305号室の川口さんの体調が急激に悪化しています!」


夜も更けるころ。

資料を整理していたところで彼は呼ばれた。


同じことを繰り返しているだけだ。


彼にとってそれは、そういった日常の切り取りの部分でしかない。


もはや、呆れている。


こんなことをいつまで繰り返すのだろう。


ただ、いたずらに命を引き伸ばすような作業を、どうして行う必要があるのだろう。


運命。


人間が自分の時間をそういう風に受け入れられる生き物であるのならば、

こんなに楽なことはないのに。


彼の顔は、昼間とはほぼ真逆の冷たさをたたえていた。


あの少女に向けた熱い想いは、どこか失われつつあった。


それでも、


「今行く。」


そう言わなければならない。


「...。」


おそらく先ほどの患者は今夜が峠だろう。


その場でも一命は取り止めたが、

それも時間の問題...。



できるだけの処置はした。


それでも駄目なら仕方がない。


...仕方がない。



医者は患者(せけん)とは距離を置かなければならない。


それを彼は身に染みて分かっているから。


だからもういいんだ。


自分はよくやったほうだ。


彼は自分にそう言って聞かせた。


「...。」


目の前にいる人はもう長くはないのに。


自分からしたら、遠い遠い人なのに。


それでも今まで、自分にすがりつき、

未来を手に入れようとしている。


「まだ...生きてる。」


自分を信じて、頼ってくれた。


少しでも、楽にしてやったときの、安心した表情。


その場しのぎの治療で、お礼を言われたあの日...。


いつだって、この患者は、自分の助けを必要としていた。



ああ、



俺って、いつ、


残酷になれるんだろうな...。







「真壁さん、今日で退院ね。」


「...はい。」


「辛いことがあったら、迷わず相談しにきてね。」


「はい。

...あの。」


「ああ、暁先生は、今日お休みなの。

昨日夜遅くまで仕事してたから、ちょっと体調を崩しちゃったみたい。」


「え...

大丈夫なんですか?」


「ええ、大事には至らないから心配しないでって。」


「そうですか...。」


どうしたんだろう...先生。






家に帰ってきた。


本当は、怖い。


家には母親がいた。


疲れ切っている様子だ。


「沙羅、ここに座りなさい。」


「...はい。」


私は言う通りに、机に座った。


家の机にちゃんと座ったのなんて、久しぶりだ。


「...何を言いたいか分かってるでしょ。」


「...なに?」


「とぼけないでちょうだい。

あなたのせいで私はこの2日間どんな仕打ちを受けたと思う?」


「...。」


「言ったわよね。もう限界だって。

あなたはどこまで私をおとしめたら気が済むの。」


もはや、正気ではないのだろう。


「まさか、病院に話したんじゃないでしょうね。」


「何を?」


「何をって...。

分かってるでしょ。」


「分からない。

母さんは何を恐れているの?」


「...沙羅...あんた...。」


母親は、鋭い目つきで私を睨みつけた。


「話したわね。

このウチのこと...。」


「どういうこと?

きちんと話してくれないと分からないよ。」


「わたしのせいなの...?

そんなに私を悪者にしたいの。」


「...。」


「ふざけないで。

誰が産んで今まで育てたと思ってるのよ。」


「...。」


「全部、あんたのせいよ。

あの人だって、あんたが生まれてからおかしくなったのよ。」


「...。」


「あんたが生まれてから保険、学費や食費、生活費が倍に増えた。わたしだって子育てや家事に追われて...。少しでもやらなきゃ他人の目に晒されて、あんたのせいでこっちはなんにもできない。」


「...。」


「あの人もあの人で浪費、浮気、暴力...。

もううんざりよ。」


「今に見てなさい。

あの人が帰ってくればあんたもまためちゃくちゃよ。あんたが病院に告げ口したこと、話せば矛先は全部あんたに向くの。」


「母さん...。」


「いい加減にして。

あんたにそう呼ばれる筋合いはないわよ。


告げ口したってどうせここ意外にあんたの身柄を引き取ってくれる場所なんてない。

こんなお荷物でしかないあんたをね。」


こんなことを言われて悲しくない人なんていないだろう。


でも...。


逃げていいんだ。


「言いたいことはそれだけ?」


「...後ろ盾作ったからって、ずいぶん偉くなったものね。

親に対してその口の利き方はなに。」


「...母さんは父さんを怖がっているだけ。」


「黙りなさい!

何様のつもり!!」


「大きな声出さないで。

母さんの苦労はよく分かってる。」


バシッ!!


容赦なく平手打ちが飛んでくる。


「二度とそんな口の利き方しないで。

あんたなんかに私の何が分かるっていうのよ。」


「...。」


「何よ、その顔...。

わたしがなにをしたっていうのよ!!!」


あっという間に、胸ぐらを掴まれ、床へと引きずり下ろされる。


「そうやって、また八つ当たりするの?」


「黙りなさい!!」


「それで母さんの気が済むならいいよ。

そのぐらいなら、怖くない。」


しばらく、そうしてすっかりやつれた母を見つめていた。


「...そうやって偉ぶるのも今のうちよ。あんた一人であの人の相手をすればいいわ。」


母親は、私を放ると、その場を去っていった。






「沙羅...、あまり調子に乗るんじゃないぞ。」


がん。


床に転がされ、頭を蹴られている。


「病院に被害妄想をぶちまけたらしいな。」


だんだんと強く。


「そんなに父さんと母さんを陥れたいのか、え?」


グラグラするぐらい、

強く、強く。


「父さんはお前を信じていたんだ。

だから入院を許してやったのに。


お前には失望したよ、沙羅。」


ガク。


首の付け根辺りから変な音がした。


「ふ...ぅぅうぅ...。」


痛くて声が出る。


母親もなにも言わず、襖の隙間からその様子を見ている。


「沙羅。

今日は父さんがしつけなおしてやるからな。」


「...。」


「もう、沙羅も十分大人になっただろう。」


「...。」


「お前の価値など、これぐらいしかないんだよ。

もう逆らえないように、心も身体も父さんに曝け出しなさい。」


ぐい。


襟元を掴まれ、揺すられる。


ぐ、ぐぅ...。


息ができない。


首から変な音がする。


「や...め、て...ぇ。」


「お前は母さんに似ているなぁ...。

若い頃にそっくりだよ。」


「ひ...ひっく。」


「顔も、声も...。

匂いも。」


する...っと、その手が解かれた。


「え...。」


「今夜は垣根を越えようか。

母さんのためなら我慢できるだろう?」


あ...。


手が...。


「い....いや...、父さん...。」


「興奮して泣いた顔も美しいな。

このまま私のモノになりなさい。」


「あ...いやぁ...。

い....ひっ....。」


こんな、


こんなひどいこと...。


ひどい。


ひどいひどいひどいひどいひどい...。


「いや...、

いやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


それから、夜が明けるまで。


その永久にも感じられる、ながいながいあいだ。


浮かんでは消えていったのは、

あの人と過ごした記憶。


私は、どこで間違ったのだろうか。


最初から間違っていたのだろうか。


あの人と出会い、生かされたことは、


こんなもののため...?


先生...。


せんせい。


会いたいよ。


はやく、会いたい。


学校...行かなきゃ。


誰もいなくなった部屋で、身嗜みを整え、


壁の隙間に手を突っ込んだ。


そこには。


「これで...。」


私は、家族を裏切ることになる。


「もう元には戻れない。」


全て、ここに記録してある。


昨日の言葉も、ひどいことも、みんな。


大人の姿をした子どもの悪行は無理をしてでも治さなければ。


わたしの居場所はなくなるけれど。


「...ごめんね。」







「おはよー、沙羅ちゃん。

また入院しちゃったんだってねー。」


「みてぇ?

沙羅ちゃんのためにまた愛のメッセージ書いてあげたの。」


「...そう、ありがとう。」


「...なにー?

開き直ってるのー?ウケるー。」


「そうだ。喉渇いたでしょ?

これあげる。」


生徒たちは、一斉に頭に水筒の水をかけはじめた。


「キャハハ!無様!」


「やばー。

先生きたよ?

座ろ。」


その直後、担任が入ってきた。


若くて優しくて熱血で女子に好かれている彼は、落ちこぼれを見て見ぬふりをする。


偽善者。


「真壁、そんなに濡れてどうしたんだ。」


「せんせー。真壁さん、暑いから水浴びしてきたんだってー。」


「また机にも落書きしてるんだよー。

自分がやったのに私たちのせいにしてくるの。」


「私たちは沙羅ちゃんとオトモダチになりたいだけなのにぃ。」


「はいはい、分かったから皆席につけ。

ホームルーム始めるぞ。」


いつものクラスの軽いノリ。


暇つぶし、優越感に浸りたいがために私を取り巻く寂しい人たち。


「どうした真壁、はやく席に着きなさい。」


「...先生、私やっぱり帰ります。」


「何を言ってるんだ。そんなことが許されるわけないだろう。」


「そこの女子たちに頭から水をかけられたので、また症状が悪化したようです。

...ごほっごほ。」


「何言ってるの?私たち何にもしてないじゃん。

いつもお得意の自作自演でしょー?」


「飯田もこう言っているだろう。お前の考えていることなど先生は分かっているんだ。

クラスの皆に迷惑をかけるのはやめなさい。」


「ええ、居るだけで迷惑でしょうね。

だから帰りたいって言ってるんです。」


「真壁...また逃げるのか。お前は卑怯者だぞ。」


「ええ。もう、黙ってるのをいいことに利用されるのはごめんなんです。

私は学校の中で1人も友達なんていない。

いるのは、私をいじめることで優越感を得ている悲しい人たちと、それを黙認しているクラスメイト。

先生、貴方だってそうです。」


「真壁...被害妄想もいい加減にしなさい。」


「先生。

大人だからってもう貴方のこと微塵も怖くありませんよ。

だって、ただの他人ですから。」


「真壁、また保護者を呼んで面談するぞ。」


「構いません。

確かに両親は怖いけど、

私にだって自由があります。


あなたたちのしたこと、全部話します。

話して、認めてもらえなくても、証拠ならいくらでもあるし、事実を知ってもらう方法だって沢山ある。」


「真壁、あんた、

私たちを脅迫するつもり?」


「これは脅迫ではなく、正当な訴えです。

弱者は弱者なりに、対等な自由を取り戻すため、必要な権利を行使するまでです。」


「一体何するつもり。」


「...いじめてるところも、用意周到にその準備してるところも、先生との会話も、全部録画してあるの。

それに...私に友達はいなくても、協力者はいる。」


「...どういうことよ。」


「いじめ自体が仲間意識で成り立ってるなら、[裏切り者]ってところかな。


あなたたちにはもう屈しない。

今まで私にしたことが、どれほどのことか分からせてあげますね。」


そうやってわざとらしく捨て台詞を吐いて、教室を後にした。


小心者のわたしが、果たしてそこまでできるだろうか。


でも、後戻りはできない。


言ったからには、やるしかない。

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