想望する紫苑

「これは…あぁ、こっちか。いやはや、命呼執みことは重いものが多くて腰がやられるねぇ…。体はまだ二五歳だというのに…」


 僕は手に持っていた命呼執を机に置くと腕を上にあげ、大きく伸びをした。


「まぁ、命呼執の重さは生き長らえた時の重さだからね。薄く軽いと思うところがある。他人ひとの命呼執を勝手に読むことは禁忌だけれど…一冊毎に題名も質感も厚さも違う命呼執から伝わる温もりは、この仕事を愛するのには十分、かな」


 そう語りながら後ろを振り返るが、いつも僕の話を聞いてくれていた彼女の姿はここにない。机に置いた命呼執を再び手に取ると過去を思い出しながら終わることのない仕事をする。彼女が命祀めいしのほうの手伝いを辞めて暫く経つが、仕事をしていると頭の中には僕よりも力持ちで強くて明るい彼女がいる。

 彼女、というのは僕の妻の事。離婚などはしていないが、今この命祀ノ棚に彼女はいない。何故なら彼女は命呼執守にはならなかったから。昔は、主婦をしながらこの命祀ノ棚に手伝いに来てくれていたが、彼女ももう働ける歳ではなくなってしまったから金鳳花町きんぽうげちょうでのんびりと暮らしている。毎月僕宛に手紙を送ってきてくれる本当に可愛らしい妻だ。先日来た手紙には、夏頃この街に住んでいる孫に会いに来るからその時にみんなで夕食を食べに行かないかと書いてあった。僕と妻が出会ったのは六十年ほど前だが、仲良くなったきっかけは些細なことでお互いの名前だった。

 妻の名前はキク。僕の名前は紫苑。紫苑の花がキク科だということは彼女に教わった。社交的で優しく、かわいらしい彼女の言葉はどれも僕を射抜くのには十分だった。と、そんなことを思い出しながら命呼執を整理していると命祀ノ棚の玄関が開く音がした。


「おや?どうしたんだい?ちょっと待っててくれたまえ。今手が離せないんだ」

「すみません。少し聞きたいことがあって…」

「あぁ、今行くよ」


 下に向かって声を掛けながら、手に持っていた分の命呼執をあるべき場所に仕舞い螺旋階段を降りる。訪問者の方を見ると見覚えのある顔をしていた。身長は伸びているし、前に会った時よりも大人びた顔をしているがこの子は…


「君は…維久いく君じゃあないか。見ない間に大きくなったね。とは言っても、ここは何度も来る場所では無いんだけどね」


 維久君の隣を見ると、整った顔立ちの女の子と目が合った。さっきの声はこの子の声か。よく通るいい声だったなぁと考えながら、維久君の方を向き直し微笑む。


「維久君と一緒いるその子はガールフレンドかい?」


 僕の言葉に女の子は顔を赤くして否定する。


「ち、違います!!」

「違います。えーと、親友です」


 女の子の反応と反対に維久君は冷静に答える。この二人の関係に想像を膨らませながら「そうかぁ、恋バナでも聞かせに来てくれたのかと思ったのだがね」と呟くと女の子は慌てて本題を切り出す。


「じゃなくて!維久が持ってる、命呼執についてなんです」


 維久君の方に目を向けると彼は珍しい命呼執を抱えていた。僕は彼が抱えている命呼執に顔を近づける。


「これは…珍しい。動物の命呼執のようだね」

「動物も命呼執になる時なんてあるんですか?」


 維久君は僕に命呼執を手渡しながら聞く。


「人間と長い時を過ごした動物は、稀に命呼執になることがあるんだ。この命呼執は君のペットか何かかい?」


 僕は命呼執に咲いたローダンセの花弁に触れながら、二人の話を聞いた。


「分からないんです。今朝、維久がご飯をあげに行ったら、私たちで飼っていた犬が居た場所にこれがあって、その子はどこにも居なかったらしくて…」


 二人とも不安そうな顔で僕の方を見る。しかし、女の子の方は不安の中に安心も含まれているような…。


「うん、そうだね。きっとこれはその子の命呼執だ。この命呼執を読むかどうかは君たち次第だけど…どうする?」


 二人はお互いに顔を見合わせると「お願いします!」と答えた。僕は二人に返事をするように笑いかけ、命呼執の花を摘み取る。摘み取られた後に命呼執に残った根が灰になり消えるのを確かめると、優しくページを開いた。


「ローダンセ。花言葉『変わらぬ思い、終わらぬ友情』」


 僕の手の中でローダンセの花は淡い光に包まれる。淡い光にふっと息を吹きかけると光は消え、手にはローダンセの栞だけが残った。


「ほら、これで読めるはずだ」


 僕が彼らに命呼執を手渡すと、近くにあった机に広げ早速読み始めた。そんな彼らを横目に仕事の続きをする。一世紀以上前の命呼執の整理がまだ終わっていなかったはずだ。


煌華おうか、これ見て」


 下の階から二人の話し声が静かな館内に響く。維久君の連れの子は煌華という名前のようだ。

 煌華…か。半年ほど前に来た子と顔立ちが似ていると思ったが、名前まで似ているとなると…。

 なるほど。彼女の表情の意味はきっと、そういうことなのだろう。半年ほど前、ここを訪ねてきた彼はとても爽やかな青年だった。高校生にしては大人びた印象だが、彼の笑顔は太陽のように明るく子供のような純粋さを感じさせた。



『こんにちは。少しお話いいですか?』


 あれは年が明けて直ぐだったか、彼は命祀ノ棚に入るなりそう言った。この時期、若い子が訪ねてくるなんて珍しく少々驚きながら僕は談話室に案内した。


『いきなり来たのに、お時間取ってもらってありがとうございます。俺、くちなし 燈華とうかって言います』

『燈華君か。私のことは命呼執守と呼んでくれたらいいよ』

『わかりました』


 燈華君は来てからずっと明るい表情をしていた。ここは命呼執を保棺する場所であるから、こんなに明るい表情で来る人もそう居ない。


『燈華君はどうしてここに来たのか聞いてもいいかい?あぁ、待って。僕が当てよう。ずばり、君がここに来たのは私のファンで…』

『あははっ。確かに命呼執守様は奇麗な顔立ちだし、ファンも多そうですよね』

『おぉ、そんな返され方をしたのは初めてだから、自分で言ったものの少し照れてしまうよ』

『でも残念ながら違います。不正解ですね』


 彼はまるでいたずらっこのように笑う。


『そうかぁ。それは残念だ。では、なぜここに?外は寒かったろう』

『今日は一段と冷えますよね。今日俺がここに来たのは…』


 彼は笑顔を崩さない。作っている様子もない。


『そうですね。何というか…死亡報告、しにきたんです』

『死亡報告?命呼執は持っていないようだけど…』

『あぁ、いや、生きているんですが…』


 彼は言葉を選んでいるのか目を泳がせる。


『基本的に死亡報告は身内が亡くなってから三か月以内に行うものだよ。亡くなる前に報告したとしても命呼執がないから、原則、受け付けることはできない。たとえ病気であったとしても報告できる人が周りにいるのであれば例外にはならないよ』

『例外、というのは…?』

『例外は、余命宣告されている人で一人暮らし。親族もいなく、他人との交流もない人だったり。この場合、自力でここまで来れない人も多いから代わりに市の職員とかに委託するケースも少なくないね』

『なるほど…』


 燈華君は少し不安の混ざった笑顔に表情を変える。そしてまた考えるように息をついた。僕は黙って彼の言葉を待つ。


『俺には家族がいます。血は繋がってないけど、俺のことを本当に大切にしてくれるんですよね』

『ほう。それはとてもいい親御さんのようだね』

『はい。俺には勿体ないくらいです』

『もしかして、その親御さんが病に罹ってしまった、とかなのかい?』

『いえ、二人とも元気です。もちろん俺も、この通り』


 燈華君は体を見せるように両腕を広げる。


『確かに君はとても健康そうだね。スポーツでもやっているのかい?』

『昼休みにクラスの奴らとサッカーしたりするくらいですよ』

『ほー。楽しそうだね。僕のような年寄りでよかったら仲間に入れてほしいよ』

『年寄りって、命呼執守様はだいぶ若く見えますが…』

『まぁ、見た目は二十五歳だからね』

『見た目は…?』

『ま、この話は良いとして、ご家族みんな元気なのであれば死亡報告は必要ないように思えるけど…』


 彼は、小さく息を吸うと僕の方をまっすぐに見た。真面目な顔をして、何かを決断した時のような目で。


死亡報告を、しにきたんです』


 さすがの僕もこの言葉で彼がここに来た意味を理解した。


『…そうか。あぁ、いや。詳しくは聞かないけれど…』

『あははっ。そんな顔をしないでください。別に暗い理由でこんなことを言っているわけではないんです』

『うーん。そうかぁ』


 彼はこんな話をしているというのに穏やかに、まるでこれからもずっと変わらず生きていくと思わせるような笑顔で僕の前に座っている。


『だけどね、それを聞いてしまった以上、僕は大人として命呼執守としてそれを止めなければならないし、僕のエゴとしても止めたいと思ってしまうよ』

『わかってますよ。だけど、そっか。俺の状況だと今、死亡報告することはできないってことですよね』

『まぁ、そういうことになるね』


 彼は椅子の両腕を上げ伸びをすると背もたれに体を預ける。


『俺、今すげぇ幸せなんです。……だけど、変ですかね。俺っておかしいですかね』

『…どうしてそう思うのかい?』

『幸せな時に死にたいと願うのは、やっぱり普通じゃないですよね』


 命祀ノ棚に来てからずっと明るい笑顔だった彼はこの時初めて口角を下げた。


『普通の人間なんてこの世にいないと私は思っているよ』

『え?』

『普通という概念は人によって異なるだろう?「普通はこうだ」というのは、ただの押し付けに過ぎなく、みんな共通の普通なんてきっとこの世に存在しないんだ』


 燈華君は黙って僕の目を見る。


『だからね。辛いときに死にたくなってしまう人もいれば幸せな時に死にたくなる人がいても何もおかしいことではないと僕は思っているよ。何もなくても死にたくない人がいるように、何もなくても死んでしまいたいと思う人もいるだろう』

『そっかぁ…。自分の普通は自分だけの普通』

『そう。僕もよく変わっていると言われるけれど、僕から見たら僕以外の全員が変わっていると思うよ』


 彼は再び笑って『いいですね!その考え方!』と言った。

 それから少し話をした後に彼は帰っていった。

『また来ます』と言って。



 数か月前のことを思い出しながら一世紀以上前のボロボロになり文字の読み取れなくなった命呼執を選別をしていると、二人の会話が耳に入ってきた。


「あ、維久、そろそろ戻ろ。お昼ご飯の時間になるよ」

「え、もうそんな時間?」


 僕は棚の間から顔を出して言う。


「おや?もうそんな時間かい?通りで…僕のお腹の虫が騒がしいと思ったよ」


 僕に返事をするように二人は笑った。


「その命呼執どうするかい?ここに保棺する義務は無いし、持って帰ってもらっても構わないよ」


 この子たちは、きっとあの子の元へ会いに行こうとするのだろうと僕の直感が言った。


「この栞があればいつでも読めるから」


 僕は維久君に栞を渡す。


「あとこれも。…良い旅を」


 そして、机に飾っていたダイヤモンドリリーの花を一輪、煌華ちゃんの髪の毛に飾った。



『また来ます』


 そういった彼が次に来たのは初めて会ってから一か月が過ぎた頃だった。

 二回目に会った彼は命呼執の姿になっていた。奇麗な百日草を咲かせて。彼の両親はやつれた顔で死亡報告だけ済ませて帰っていった。二人は、彼が自分たちのせいでこうなったと思うと、怖くて命呼執を開く勇気がないと言った。貴方たちのせいではないと言いたかったが、二人はきっと彼がこうなる前にここへ訪れたことを知らないだろう。

 それに全員が全員、命呼執を読みたいと願うわけではないことも知っているし、読まれたくない人は人に読まれないように申請もできる。彼は申請しているわけではないが、彼の両親が落ち着いて彼について知りたいと僕のところに来るまではこのままでもいいだろうと思う。僕が口を出せることではない。だが、これまでたくさんの人の死に関わってきたが、一度しか話したことのない青年の死にショックを受けてしまっている。この仕事の一番怖いことは死への慣れだ。彼の死が僕にまだ人の死を悲しむ心が残っていると教えてくれた。だからこそ、彼には自ら物語じんせいを終わらせてほしくなかったと思うのだ。


 僕は、死=不幸ではない、幸せ=生きるではないのだなと改めて知った。

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