第30話
夕方、定時を少し過ぎたくらいで会社を飛び出していつもの居酒屋へと向かう。
華金というのこともあり、ここから賑やかさを増していきそうな飲み屋街を歩いて店の前まで行くと、氷見さんが雑居ビルの壁にもたれかかってスマートフォンをいじっていた。
「氷見さん? 外で待ってたの?」
氷見さんは肩をすくめて流し目で店の入口を見る。そこには『臨時休業』と手書きで書かれた紙が貼られていた。
「あらま。黒部、何も連絡してくれなかったな……」
「ついさっき決まったみたい。電気がつかないんだってさ」
「そりゃ大変だね……」
「って訳で今日は解散だね」
「えっ……そうなの?」
氷見さんは俺の反応を伺いながら上目遣いで見てくる。
「――と言ってみて砺波さんの反応を見てみたかったり。嫌なんだ?」
やられた。ニヤニヤしている氷見さんに一杯食わされたかたちだ。
「そっ、それは単にルーチンが乱れるというか……」
「私はルーチンなんだ? あーあ……マンネリ化していっちゃうのか……」
「二度目は引っかからないよ……」
「ふふっ。で、どうする? 折角だし、たまには家の近くでお店を探してみない?」
「あ、うん。いいよ」
行き先が決まると、氷見さんは壁との反動を利用してぐっと前に出る。
数歩進んだところで思い出したように俺の方を向いていた。
「砺波さん」
「何?」
「次の月曜日、祝日で三連休だよね? 予定あるの?」
「ううん。ないよ。氷見さんは?」
「何も。ヒミさんはヒマさんなんだ」
予定がないというのに氷見さんは嬉しそうにそんなジョークを言う。
「そっか……」
「だからさ、砺波さん。三連休、一緒に溶かそうか」
「悪くないでしょう」
氷見さんと目を見合わせ、二人でニヤリと笑い合いまだ日も落ちきらない時間に駅へと向かった。
◆
氷見さんの最寄り駅で電車を降り、良さげなお店を探して駅前の通りを練り歩く。
その途中、氷見さんが一軒のパン屋を指差した。
「あ、このパン屋ね、幻なんだよ」
「珍しいの?」
「営業は平日だけで売り切れ次第おしまい。数がないからすぐに売り切れちゃって実質営業は午前だけなんだ。けどすっごくもちもちしてて美味しい」
「へぇ……食べてみたいけど無理だなぁ……」
「私、買っておくよ。お仕事の帰りに寄ってくれたら渡せるし」
「えぇ……悪いしいいよ。それにいつ行けるかなんて――そっか。連絡手段があるんだった」
「これは
「律儀にそのルールは守るんだね……」
氷見さんは当然だとばかりに「ふふっ」と楽しそうに笑う。
通りを見ていると交差点に差し掛かった。その角にある雑居ビルの上を見ると、うちの会社で契約しているサテライトオフィスがあった。
「あ、こんなところにあるんだ。『ワクワクワーキング』」
「何それ?」
「テレワーク用のサテライトオフィス。仕事用のネカフェみたいなものだよ。コーヒーが飲めて個室があって、みたいな」
「ふぅん……あ、砺波さん。そこって私も使える?」
「どうだろ……個別にお金を払えばいけるんじゃないかな。何かしたいの?」
「レポート。部屋だと集中できなくて。美術史をまとめるってお題なんだけど、今まさにこの手で歴史を作ってるのに過去を調べてなんていられないじゃん?」
「ビッグマウスのふりしてるけどやる気がないだけでしょ……」
「そういうこと」
氷見さんはサテライトオフィスの看板を見上げながら微笑むと、顔を下げて俺の方を見る。
「よくないね」
「何が?」
「どんどんやりたいことが増えちゃう」
「あはは……早く店を見つけないとね」
「だよね――あ、ここはね――」
氷見さんは言ったそばからランチが美味しいが夜は営業していない喫茶店を指さし、次々と『やりたいことリスト』に項目を追加していくのだった。
◆
店選びの条件はカウンター席があること。希望の店はすぐに見つかり、和食の居酒屋に入り二人でカウンターに並んで座る。
氷見さんは椅子に座るなり振り返って壁にかけられた手書きのメニューを眺める。
「んー……ほっけと……たこわさと日本酒のおまかせを2合かな?」
「氷見さん……日本酒はやめとこうよ……」
前に二人して記憶を飛ばしてとんでもないことになりかけた記憶が蘇る。
「大丈夫だって。飲みすぎないようにすればいいだけだし。水もたくさん飲もうね。ま、万が一潰れちゃっても家はすぐそこだし」
「ギャンブラーだなぁ……」
氷見さんはニヤリと口元だけで笑って答えると、目の前にいる店主に向けて手を挙げてオーダーを始めた。
◆
「――でね! あたしはなーんにも変えてないの。それなのに『媚びた』だの『路線を変えた』だのグチグチ言われてさぁ……嫉妬だよね、嫉妬。はーぁ……疲れちゃうよ……」
氷見さんは絵の界隈で自身の人気が増すに連れて相応に周囲からの期待や羨望を受けてストレスをためていたらしく、据わった目で愚痴をこぼし続けていた。
手元にあるのは日本酒の入ったおちょことお冷とレモンサワーだ。氷見さんは水を飲んで首を傾げる。
「んー……? このお酒、水みたいだね」
「それ、水だから……」
こうなることを予期して俺はセーブ気味に飲んでいる。氷見さんは愚痴が呼び水となってペースが落ちないため、かなり酔っている様子だ。
「んん〜……あれ? このストロー、出てこないんだけど」
今度はレモンサワーのグラスに持ち替えてマドラーを口に咥えている。
「それはマドラーね。ストローじゃないよ」
氷見さんはじっとレモンサワーを観察し、「あははっ!」と声をあげて笑った。
「だっ、だいぶキテるね……」
「んふー? そうかなぁ?」
「普段『んふー』なんて言わないじゃん……」
「んふー?」
氷見さんは可愛らしく顔を傾げてそう言うも、手に持っているおちょこの存在感が凄まじい。
「んふーじゃないよ……」
「ね、砺波さん」
「何?」
「酔っちゃった!」
氷見さんがアニメ声を作ってそう言う。
「うん、知ってる」
そこまで酔っていない俺との温度差がかなりあるため、氷見さんは不満げに頰を大きく膨らませた。
だが、すぐに何かを思いついたらしく、楽しそうに口元に手を当ててニヤける。
「今日、砺波さんの家に泊まっちゃおうかな〜」
「絶対やだ」
「むぅ……塩対応すぎない?」
「普段は氷見さんの方が塩って感じするけどね……そんな酔ってる人は家にあげたくないよ」
俺が当たり障りのない理由で断ろうとすると、氷見さんは両手でパンと自分の頬を叩く。
次の瞬間に現れたのは、泥酔して緩みきった表情の氷見さんではなく、いつもの無表情でクールな目つきの氷見さんだった。
「うん。酔い、さめた」
「本当に!?」
目の前で起こったことに驚いていると、真顔だった氷見さんの頬が徐々に緩んでいき、アハ体験のようにゆっくりと顔が綻んでいった。
「うん、さめた」
「顔、戻ってるよ」
「あっ……」
「いやまぁ、連休だし何かしたいのは分かるけどさ……」
「砺波さん、アレしようよ。アレ」
「アレ?」
「アレだよ。ゲームのさ……大乱交」
「大乱闘ね!?」
だめだこの人。
「というかそもそも俺、スイッチ持ってないからな……」
「あたし持ってるよ。持っていけばいいじゃん。ついでにお泊りの着替えとかも持っていけるし。けって〜い!」
「はいはい……」
このモードの氷見さんを押し返すだけの力が自分にはないことがわかってきたので、連休だしいいか、とそれっぽい理由をつけて氷見さんの案を受け入れたのだった。
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