第28話

 金曜日の夜、いつもの居酒屋のいつもの場所で、隣にはいつもの氷見さんがいつもの焼酎のグァバジュース割を飲んでいた。


 だが、今日はいつもと違うところがある。氷見さんがショートボブの髪の毛を後ろで結んでいるのだ。


 先週、俺が「髪型が可愛い」なんて言ったから変に思われて引かれていないかと少し不安に思いながらも切り出すタイミングもなくチラチラと氷見さんの首筋を見てしまう。


 氷見さんも俺の視線が気になるのか、正面を向いたまま横目で俺の方をチラチラと見てくる。


「……何かあった?」


 たまらずに尋ねてきた怪訝そうな氷見さんの目つきに「あはは……」と苦笑いを返す。


「髪の毛、結んでるのが珍しいなって思って」


「あぁ……これね。昼寝をしてたらちょっと寝癖がついちゃって。すっごい右にハネてるんだ」


「なるほどね」


「砺波さん、見たら笑っちゃうよ」


「そんなに!? 寝癖ごときじゃ笑わないと思うけどなぁ」


「じゃ、試してみる?」


「氷見さんがいいなら……」


 氷見さんは俺の方に身体を向けて右手で曲げゴムを引き抜く。


 すると、ふわっと落ちてきた髪の毛がそのまま右に向かって毛先がはねた。


「びよん」


 氷見さんはそれと同時に変顔をしながら両手の人差し指を立てて右に向ける。


「……ぷふっ……」


 シュールな雰囲気に耐えきれず吹き出してしまう。


「あ、笑った」


「笑わせにきてたよね!?」


「はて? なんのことかな?」


「寝癖付いてるから髪の毛結んでおきなよ」


「はいはい」


 氷見さんは俺に横顔を見せるようにカウンターの方を向くと両手を後頭部に回してまた髪の毛を結ぶ。


 そして、また身体を俺の方に向けて直立した。


「……なに?」


 しばらくの沈黙の後、俺の質問をきっかけに氷見さんはまたまげゴムを引き抜く。


 当然、髪の毛は右に向かってハネる。


「びよん」


 再び襲いかかってくる変顔付きの人差し指のジェスチャー。


「ふふっ……それやめてよ……」


「砺波さんの気が狂うまで続けようかな」


「せめて飽きてきた程度でやめてくれるかな!?」


「けどさぁ……すごくない? そんなに髪の毛が太いわけじゃないのに、すっごい頑固なんだよね。触ってみてよ」


 氷見さんは右側の外ハネしている髪の毛を摘むと、触りやすいように俺の方に身体を寄せてくる。


 誘導されるがままに氷見さんの髪の毛を手に載せる。細くてふわふわとした感触。手触りが良くてずっと触っていられそうだ。


「確かに。こんなに細いのに癖がついちゃうってよっぽどな寝方をしてたんだね……」


「普通に寝てただけなんだけどなぁ……」


「へぇ……」


 手を離すタイミングを逃してしまい、会話が途切れてからも俺の手は氷見さんの髪の毛に触れたままだ。


「……まだ触る?」


「あ……ごめん! 触り心地が良くて……」


 慌てて手を引くと氷見さんも急いで俺の手を握ってくる。


「あ……い、嫌とかじゃなくて、むしろ良いんだけど……け、結構恥ずかしかったり……」


 頬を赤くして氷見さんがボソボソと何かを言うが、店内の喧騒にかき消されてよく聞こえない。


「ん? 何? 聞き取れなくて」


 氷見さんが顔を上げて声を張ろうとした瞬間、氷見さんの視線が俺の頭の方に釘付けになった。


「ど……どうしたの?」


「砺波さん、ちょっと中腰になって」


 氷見さんはおもちゃを待ち切れない子どものように両手をパタパタと動かす。


「あ……うん」


 言われるがまま中腰になると氷見さんは俺の髪の毛を慎重に触り始めた。かなり近づいてみているらしく、俺の視界はほぼ氷見さんの黒い服で覆われる。


「ち、近くない?」


「砺波さん、動かないで。もう少しだから」


「何が――いだっ!」


「よし、抜けた」


 ドヤ顔をしている氷見さんの手には一本の白髪があった。


「あぁ……抜いてくれたんだ。ありがと」


「いいえ。あっ……またあった」


 氷見さんはお宝を見つけたように目を輝かせ、俺の肩を叩いて中腰になれと指示をしてくる。


 仕方なくもう一度中腰になると、氷見さんは鼻息を荒くしながら俺の白髪捜索を始めた。


「あれぇ……? さっきまでいたのに……あ! いたいた」


 ブチン、という音とともに髪の毛が抜かれる。


「二本目」


 氷見さんは嬉しそうに俺の白髪をテーブルに並べる。


「そ、そんなに楽しい?」


「楽しいよ。あ、またあった」


 氷見さんは3本目を探すためにまた俺を中腰にさせる。


「毛づくろいってさ、動物でいうところの愛情表現だよね。猿とか猫とかよくやってるよね」


 白髪を探している最中、氷見さんの鼻息がかかるくらいの距離で声が聞こえる。


「へぇ……」


 氷見さんに頭をまさぐられているのが妙に心地よくて生返事になるが、氷見さんは気にせずに白髪捜索を続ける。


「猿も案外楽しんで白髪を探してたりするのかな?」


「それを楽しんでるのは氷見さんくらいだよ……」


「もっといるんじゃ――あっ、いたいた」


 ブチン、と髪の毛が抜かれる。


「3本目ぇ」


 氷見さんは楽しそうに机に白髪を置く。


「そっ、そろそろ満足した?」


「まだまだ抜きたいところだけど、砺波さんが可愛そうだからここまでかな」


「た、助かった……」


「砺波さん、毛づくろいって動物の愛情表現らしいよ」


「さっき聞いたよ」


「そうだね」


 氷見さんは楽しい遊びを取り上げられたからなのか、いつものクールな目つきに戻り、グラスを口につける。


「砺波さん」


「何?」


「毛づくろいって――」


「聞いたよ!?」


 俺のツッコミにも動じずに氷見さんはじっと俺の目を見てくる。


 氷見さんが微動だにしないため、3回も言われた事を解釈する余裕ができてきた。


「……ん? つまり白髪を抜くのも愛情表現ってこと?」


 氷見さんは笑顔で頷き「そんなわけないじゃん」と言う。


「どっち……」


「そういうとこ、いいよね」


「はいはい……」


「本当に思ってるよ」


 氷見さんはそう言いながらグーで自分の胸を何度か叩く。


「何か詰まった?」


「……ドラミングのつもり」


「ゴリラ!?」


「――の愛情表現」


「氷見さん、いつからゴリラになったの……」


 今日のテーマは動物だったのか、と一人合点がいく。


「あ、これ見てみようよ。『動物のおもしろ交尾映像10選』だってさ」


 氷見さんがスマートフォンで動画アプリを開いて俺の横に来る。二人で動物の交尾を見続ける不思議な時間が始まってしまうのだった。

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