2 血食症(続)


 まめに通ってくれてありがとうございます、と十畑先生は研究室のポットを沸かしながら言った。私は目の前に出されたプチ洋菓子の袋を一つとって開ける。


「いえ、こっちこそ部外者なのに、いつもお茶に誘っていただいて」

「まじめに聞いてくれる子が一人でも必ずいるって分かっていると、こっちとしてもやる気が違うんだよ。それに、部外者と言っても君は樋野宮さんのルームメイトだから、君のお話も十分僕らには研究資料だしね」


 最近は、変わりなく? と十畑先生は微笑んだ。


「そうですね。夏に熱中症で倒れてからは、那都希もわりと元気にしてます。相変わらず血液パックは飲みたがらないですけど」

「彼女らにとっては、そう美味しいものじゃないみたいだからね。樋野宮さんみたいに生の血液を飲んだことのある人はそう多くないけど……生の血液の味の差は、なかなか僕らには想像しにくい」

「なっちゃんは、全然違う、ていつも言いますよね。血液パックは栄養ドリンクみたいな、画一的で万人受けする甘めの味だけど、生だとしょっぱかったりめちゃくちゃ甘かったり、もっと個体差があって、ちゃんと個別に味付けされた違う料理――オムライスとかクッキーとかを食べてる感じだって。その分、美味しかったり不味かったりもあるみたいですけど」

「血液型とかは関係ないんだよね」

「ないそうです。先行研究で分かっていることの域を出る話は、聞いたことないですね」


 十畑先生が、沸いたお湯でスティックのコーヒーをいれてくれた。リンゴのマークが入ったマグカップは、那都希が私のために各研究室に置いていったものだ。


「具体例をじかに聞く機会はそうないから、それでも十分貴重だけれどね。先駆者は偉大だよ。協力してくれた血食症の人たちには危険な行為だったけれど、おかげでこうして、血食症患者の味蕾についての研究が進歩している」

「感染症のリスクがありますもんね。なっちゃんは、病院育ちでそういうこと知ってたのに、それでも飲んじゃうの、怖いもの知らずなのかなとか考えるんですけれど」


 那都希は、造血機能がかなり悪い方で、中学卒業まで病院で過ごしていたという。血食症患者は、その先天的疾患から出生後すぐに病院で育てられることが多く、食事用の血液は生まれたときから病院お手製食用血液パック(中身が分からないように銀色のパッケージングがされていて、見た目もほぼ栄養補完ゼリーと同じになっている)で賄われる。そのため彼らが生の血液を飲む機会はあまりなく、那都希が生の血液を飲んだのは、高校に入ってからだそうだ。当然、何の処理もされていない血液というのは、生食できる肉が少ないのと同じで、色んな健康面へのリスクがある。だから、怖くはなかったのかな、と時々考える。那都希ほど日常的に、生の血液を摂取した血食症患者はそういない。

 十畑先生は、自分のコーヒーを持って、私の向かいに座る。


「樋野宮さんの消化器官は、多少そういったリスクに強くできているようですが。でも、それが元からなのか、それとも日常的に処理されていない血液を摂取したことによる変化なのかは、生物学の藤堂先生の領域ですね」


 十畑先生は、私の話を軽くメモに取りながら、コーヒーを飲んだ。私との雑談をメモに取ることは、ここに通い出した最初の頃に説明されている。


秦野はたのさんが、僕や他の先生方の講義に来るのも、そうやって、樋野宮さんの気持ちを考えようとすることも、とてもすごいことだと、僕は思っています。血食症という遺伝子異常が見つかって、既に半世紀がたつ。けれどまだまだ、世間の理解は得られていません。建前では血食症患者の尊厳が認められていますが、僕自身も含めて、偏見はそう簡単になくなるものじゃない。けれど、血食症患者が一個人であることに、研究者でもない、研究者になるつもりでもない、身内でもない君が、意識的であるということが、僕はとてもすごいことだと思います」


 先生は、そう言って頬笑んだ。

 いつもは気さくな、少し年上のお兄さんみたいな人だけれど、時々こうして、ちゃんと先生の顔をする。その度に私は、少し後ろめたくなる。


「……すごくはないです。那都希のことが知りたい、きっかけがあっただけなので」


 十畑先生は眉を下げた。その辺の事情を、私も那都希も話す気がないのは、既に察しているからだ。そう、私は那都希の身内じゃない。血食症に興味があるわけでもない。私は、樋野宮那都希のことが知りたくて、今、一緒に住んでいる。

 顔を俯けた私に、十畑先生は話題を変えるように明るい声を出した。


「秦野さん、そろそろ受験も追い込みだよね。うちの大学、受けるの? 公開講座にわざわざ来なくても、血食症の講義が聴けるけど」

「一応、願書は出してます。バイトも続けたいし、ここはなっちゃんちから近いので」


 私が顔を上げてそう言うと、十畑先生は目を細めて、頑張ってね、と言った。

 ちょうどコーヒーも飲み干したところだったので、私は研究室から退出することにした。十畑先生にまた、と手を振って扉を閉める。ついでに那都希を探してみようと、構内を歩くことにした。今日は自分の研究室にいるはずだった。


 那都希は歴史学の研究をしている。

 西洋史、特に古代ギリシアを研究していて、レポート提出が近いと言っていた。血食症の研究室には被験者としての臨時参加で、正式なメンバーではない。自分の研究はしないの、と以前訊いたら、「気にならないわけじゃないけど、自分の研究なんて、自意識過剰みたいで寒気がする」と言っていた。那都希らしい。と思う。

 らしい、なんて、私に那都希の何が分かってるんだか。

 自分の思考に自分で皮肉った。


 人文学部歴史学科西洋古代史の研究室の扉を見つける。廊下の端、大学の南側に面した研究室で、お昼のこの時間は、明るい陽差しが扉の磨りガラスから溢れている。

 古代史専攻の麻見先生は、几帳面な先生だ。板書が大学教授としては抜群に綺麗だと那都希が言っていて、だらしないわりに神経質な那都希とは相性が良いのだろう。よく研究室に入り浸っている。

 扉の前でほんの少し耳を澄ませて、特に緊迫した空気を感じなかったので、こんこん、と控えめにノックをした。中からはいどうぞー、というあまり感情のこもっていない女性の声が聞こえて、私は扉を開けた。


「あら、侑李」

「いらっしゃい秦野さん」


 ウェッジ・ウッドのティーカップに白湯を入れて飲んでいた那都希が、こちらを見て首を傾げた。奥の教授席で、趣味の切り絵をしていたらしい麻見先生が、顔を上げて、無表情のまま私に会釈をする。


「すみません、お邪魔して大丈夫ですか」

「どうぞ」

「ああ、今日は公開講義ね。十畑先生の」

「うん」


 那都希が得心したように頷くのに、私も首を縦に振った。研究室には二人しかおらず、どこをどう見ても休憩中だったので、私は遠慮無くお邪魔することにする。


「秦野さん、何飲む?」


 麻見先生が、いつもの銀縁眼鏡をかけ直しながら立ち上がった。上品で無駄のない動きが、水辺に佇む鷺を思わせる。私はいえ、と手を振った。


「十畑先生のところでいただいたので」

「もらっておきなさいよ、侑李。お喋りするならいるでしょう。せんせ、リンゴジュース出して、高いやつあったわよね」


 私の意見をきっぱり無視して、勝手なことを言う那都希は、まるでどこかの女王様だった。麻見先生は全く気にする様子もなく「あーあれね」と研究室に置いてある冷蔵庫から壜に入った高そうなリンゴジュースを取り出す。ここにも置かれているリンゴマークのマグカップに、それを注いで出してくれる。申し訳ない。


「何か用事?」


 那都希が、ふふん、とでも聞こえそうな笑みを浮かべて問うてきた。私は肩を落とした。


「いや、寄っただけだけど」

「ちょうど良かった、今先生と侑李の話をしていてね」

「え」


 麻見先生を見ると、先生は自分の席に戻りながら、頷いた。相変わらず無表情で、どういった内容を話していたのか、全く読み取れない。

 私は那都希の目の前の椅子に腰掛ける。


「何話してたの」

「侑李の血は美味しいか否かの話」


 うわ、と私は眉根を寄せた。

 そういう話は、せめて藤堂先生として。


「なんで麻見先生と。先生だって困るでしょ、答えなんか出ないんだし」

「食べたことのない食べ物を見た目だけ見ておいしそ~って言うじゃない。ああいう談義よ。侑李は見た目的にどんな味がしそうか。他の人にはしたことあるって言ってるのに、怪我したときでさえ、直接舐めるのは全然させてくれないから」

「不衛生。食事環境の悪さには考えるところもあるけど、私は嫌」

「まじめぇ」

「お吸い物じゃない、て、話をしてたのよね」


 麻見先生が、口を挟んだ。視線は手元の切り絵に戻っている。


「……お吸い物?」

「こう、松茸のお吸い物みたいな、香りは強いけど味は上品な感じじゃないかしらって。秦野さん柔らかそうな見た目だから、桃とかどう? て言ったんだけど。樋野宮さんが、もっと淡泊な味してそう、て」

「果物も捨てがたいけど、もっと、糖度低そうだなと思って。話してるうちにお吸い物に」

「大分違くない、果物と」


 まあ、那都希に比べれば地味な容姿だしな、と私は息をつく。必要最低限のお化粧はしているけれど、同級生のヒエラルキー上位にいる子たちみたいに飾る気はなかった。リップも無色で、保湿の意味しかない。顔立ちも凡庸だと思う。


「それなら、麻見先生は? 確か那都希、飲んだことないですよね」

「そうね、何だろ。秦野さんはどう思う?」

「……コース料理の前菜かな。チーズの塩漬けとか、野菜のオリーブオイル漬けとかのイメージです」

「いいね、チーズは好物」

「私はもっとねっとりした味わいかなぁ。オールドヴィンテージワイン、ボルドーなら二千年」

「樋野宮さん、良い酒飲んでるね」


 ええたまに、とにっこり笑う那都希は、ワインの味など知らない十代の少女のようだった。身長は私とそう変わらないけれど、手足の細さと病的な白さが、彼女を幼く見せている。


「じゃあ那都希は? 私パッタイ」

「パッタイ? タイ料理の? 珍しいところをつくね。私は甘酒」

「こんにゃく」


 え、と私と麻見先生が振り返った。

 那都希が眉を顰めて低く言う。


「こんにゃくに似てたわよ。食べたことないわけないでしょう。真っ先に試したわよ。まさかの素材味だったけど。しばらく何の味か分からなくて手当たり次第にスーパーで買い物して探したくらいよ。別にこんにゃく嫌いじゃないけど、もうちょっと味付けが複雑な方が嬉しいとは、思ったわよ」


 そろそろ冷めているだろう白湯をすすって、那都希はふん、とそっぽを向く。態度が悪い。

 でもそうか。

 飲んだことあるのか、自分の血。


「あれかな。自分の誕生日が自分の好きな季節じゃなかったみたいな」

「生まれた季節だから好きになるって言うのもあるわよ」

「自分のパーソナルカラーが自分の好みの色じゃなかった的な」

「近い」

「実家にある大好きな都市国家ポリス研究の本が最新研究では大分解釈違いだったみたいな」

「……それは麻見先生だけかも」


 やはり切り絵から全く顔を上げずに話に乗ってくる麻見先生に、肩を竦めて那都希は言った。

 うっそりと目を細めて、私を見る。


「侑李は、美味しいと思うんだけどな」

「それは、ただのなっちゃんの希望」


 言って、私は濃厚リンゴジュースを飲み干した。

 そのタイミングで、ブブ、と携帯が振動する。

 嫌な予感がしながら、私は鞄から携帯を取り出して画面を見た。


啓高ひろたか先生は、リンゴの味がしそう〉


 メッセージにそう書かれているのを見て、無言で、携帯の電源を切った。

 意地悪。

 送り主である那都希は、何でもない顔をしてポットから新たにお湯を注いでいる。

 秦野啓高。

 七年前に失踪した、私の父の名だ。





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