3 敷島病院失血事件
樋野宮那都希。
七年前、敷島総合病院で起きた連続失血事件の、容疑者であり、その事件後に失踪した、私の父の、片想い相手だ。
父は小児外科医だった。
真面目で優秀、人当たりも良く、地味だが信頼の厚い先生だったそうだ。それは家庭内でもそのままで、父と母は仲が良く、一人娘の私をかわいがり、たまの休日には、荷物が多くなるならと近所のスーパーに行くのにも快く付き合ってくれた。
何もおかしなところはなかった。
平和で、絵に描いたような穏やかな家族だった。
父は誠実だった。
誠実すぎたのかも知れなかった。
ある日、目が覚めると、家の中から幾つか父のものが消えていた。歯ブラシ、お弁当箱、誕生日にあげたマグカップ。ダイニングの机の上には丁寧に畳まれた手紙と、一枚の書類が置いてあった。離婚届だった。
手紙には、母の他に好きな人ができてしまったこと、その人に告白するつもりはないけれど、この気持ちのまま家族ではいられないこと、そして、心変わりを謝る文章が綴られていた。
逃げるように出て行って申し訳ない、とも。
――僕は自分を、許すことができません。人として、してはいけないことをしました。医者として、父親として、夫として、僕はそれを認められません。こうして勝手に出て行くことを、大変申し訳なく思います。それでも、どうか、二人には僕のことを忘れて、幸せになって欲しいと、思っています。
母の口座にはお金が振り込まれていた。
父が家計とは別に資産運用して貯めていたお金で、私の大学卒業までは優にある額だった。
それが、七年前。
父の勤めていた病院で、不審な失血事件があったと私が知ったのは、それからさらに、三年後のことだ。
父の失踪について、母は懸命に行方を追い、同時に不可解な――それを、私は当初よく分かっていなかったのだけれど――失踪の原因について、調べていた。何度も父の勤務先である病院に通い、父の親戚を訪ね、警察に相談していた。そうして、それを一年ほど続けたある日、母は父を探さなくなった。私は、もういいの、と訊いた。やつれた顔で母は、
「うん。お父さん、自分から出て行ったんだもんね。ようやく、仕方ないって思えたの。侑李にも、ずっと、心配させちゃったね」
と言って、力なく笑った。
私は、無言で頷いた。
父のことに納得していたわけではなかった。しかし、警察にまで行って父の行方を捜す母を見ていると、自分には何もできないことが、身に沁みるほどよく分かっていた。小学生の自分には、焼け石に水のようなことしかできない。遠くにも行けないしお金もない。ネットは個人情報を扱えるほどの知識や責任能力が自分に無いことを分かっていたし、私はただ、出かける母について行ったり、コーヒーを作って帰りを待っていることくらいしか、できなかった。
父が母ではない誰かに恋をしていた――そのことに向き合うのも、とても怖かった。
納得しないまま、それでも私は小学校を卒業して、中学生になって――恋をした。
恋と呼べたか分からない。それほど曖昧な、けれど確かに、深夜、涙がこみ上げてきて眠れないような、失恋をした。私はようやく、父のことに向き合う覚悟をした。
父の置き手紙を読み返し、母が警察に話を聞きに行っていたことを思い出した。成人男性の、自発的失踪にあれほど警察に相談に行くのはおかしい。図書館で古い新聞記事をあたった。そこで見つけたのが、敷島病院内で起こった、連続失血事件だった。
事件の発覚は父の失踪する二ヶ月前だ。
病院内の長期入院患者が、貧血で倒れているのが発見された。当初は何か病気の発症による貧血が疑われたが、検査医が詳しく調べたところ、体に、覚えのない注射器の痕があった。そこで一気にこの件は事件化した。
医療過誤も疑われたが、警察の調べでは、病院側の提出記録や証言に問題は無く、誰かが故意にやったことと結論づけられた。さらには、この失血事件は、この二ヶ月前から不定期に起こっていたことが発覚した。体調不良を訴えた患者を検査するとヘモグロビン値が下がっていたが、生命に危険があるほどではなく、投薬で事なきを得た例が他に二件、見つかったのだ。
どれも長期入院患者で、しかし病棟は全く別だったこと、犯行が病院側のスケジュールで麻酔や睡眠薬を投与した後であり、被害者に意識がなかったこと、そして二件の発生時期には数週間の間があったことから、病院ではこの失血事件をこれまで把握していなかった。三件目で不審な注射痕が発見できたことは、僥倖と言えただろう。何せ、病院では検査や輸液のための注射が日常茶飯事だったのだから。
もちろんこれは、当時事件として報道にも取り上げられていた。ただ、死者が一人もいないこととその後の進展がなかったことから、早々にニュースでは語られなくなったようだ。新聞やネットではしばらく続報が出ていたが、小学生の私が気付かなかったのも分かるほどの事件の扱いの小ささだった。もっと言えば、この事件が大きく報道されなかった理由の一つに、病院側には容疑者が一人もいなかったことがある。
犯人には医療の知識がある。患者のスケジュールも把握している。それは間違いなかったが、病院のスタッフにはアリバイがとれていたそうだ。三件とも全てに犯行の可能な人物が見つからず、外部犯の可能性も浮上していた。セキュリティ面での責任は追及されていたが、見舞いの者や患者がうろうろしている病院では警察による見回りをお願いするしかなく、それも数週間に一度の法則性もない事件となれば、対策の難しさに批判の声は小さかったようだった。
しかし、事件発覚から六週間後。父が失踪する半月前だ。四件目が起きた。
この時の報道も、大きくは扱われなかった。例によって死者は出ておらず、病院側がすぐに気付いて処置、事なきを得た。ネット記事以外では地方新聞の二面で報道されてはいたが、全国ニュースにもなっていない。
貧血は人によっては重篤な症状を起こすことがある。健康な人による献血であっても事前に検査を必要とするくらいだ。決して小さく扱われるべき事件ではなかったけれど、その理由の最大の原因に辿り着いたのは、中学二年も終わる、寒い冬の日だった。
それは、敷島病院では誰もが知っている話だった。知っていて、けれど決して口にすることはなかった話だ。私が、失踪した秦野医師の娘という立場だったからこそ聞けた話だった。
当時、外部犯の疑いもあった中で唯一、病院内の人間で注目されていた人物がいた。
それが、那都希だ。
当時中学二年生。
敷島病院の、小児科病棟に長期入院していた。
那都希は生まれたときから中学卒業に至るまで、人生のほとんどを病院で過ごしている。実家に帰れたのは両手の数で足りるほど、それくらい造血機能が悪かった。年齢とともに回復の様子を見せてはいたが、当時はまだ、病院を出られる状態ではなく、日がな一日、退屈そうにテレビやネットを見ていたという。
那都希は、当時、敷島病院にいた唯一の血食症患者だ。
それはほとんど偏見だった。
明確な根拠はない。アリバイのとれない患者など総合病院には大勢いる。ただ、那都希には動機があった。それだけが、その他大勢と那都希を分けていた。
那都希は以前から、人間の生の血液を飲みたいと公言していたのだ。
もちろんそれは、飽くまで同意を得た相手のみの話で、それも、那都希が退院できるようになってからと、病院側から出された条件に那都希は同意していた。
警察が明確に容疑者としたわけではない。病院側もそのような態度をとった事実はない。それでも、那都希の存在を知っている者はどうしてもその可能性を考え、ひっそりと、その憶測は院内で広まった。警察が完全に否定しなかったのも大きい、と、顔見知りの看護師長さんは申し訳なさそうに言った。警察は当然、動機のある人物には注視していた。その雰囲気は院内にも伝わっていたのだという。それでも、那都希は可能性の一人に過ぎず、警察の側としてもその憶測が偏見に基づいていることは分かっていたのだろう。無闇に世間の差別を誘発させないための配慮が、血食症患者のいる病院で起きた失血事件の、報道の扱いの小ささだった。
その日私は、病院前のバス停で、制服のポケットに入れていた父の最後の手紙を読み返した。薄暗い灰色の空から、今にも雪が降りそうだった。
――人として、してはいけないことをしました。
私はその言葉を、母以外の人を好きになったことだと思っていた。
けれど、本当にそうだろうか。
父は不倫をしたわけではない。
父は好きになった相手とどうにかなったとは、一言も書いていなかった。ただその人を好きになったこと、それを最近自覚したこと、想いを伝えるつもりはないこと、それでも気持ちを自覚した以上、母と夫婦でいてはいけないと思ったこと。それが、几帳面で繊細な父の筆跡で、綴られていた。それはとても真面目な別れ話で、心変わりを謝罪する内容だった。世間から非難されるような事実は、恐らく全くないのだ、と私には思えた。
ならば。
父が、逃げるように家を出て、行方をくらませた理由は、別にあるのではないか。
人としてしてはいけないことって、何?
母に買ってもらったばかりのマフラーに顔を半分埋めて、私は、恐怖に震えそうな唇を噛むことで堪えた。
私が知ろうとしているものは、もっと、恐ろしいものなのだろうか。
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