第七話 前編
金曜日。
左足のつま先から段々と身体を慣らすように、全身を湯船に付ける。足を伸ばせばぶつかってしまう浴槽に全神経を捧げ、体中に潜むありとあらゆる『悪』がつくものを浄化していく。
「んーーーはぁ」
柔軟になった身体を猫のようにピンと伸ばす。背中のあたりが、より一層熱くなる。天井を見上げ、意味もなく換気扇を眺め、淵に見える黒カビを見つけて俯く。
ちゃぷ、ちゃぷと水面を揺らし、一緒になって身体も歪んでいく。
全部知っている現象。だから何も不思議に思わない。
「……」
要は屋上での一件を思い出していた。
要がいつものように告白を断った後、遅れてくるようにして春風小春は現れた。あらかじめ遅れてくることは知らされていたし、こちらとしても好都合だった。しかし、明らかに何かが違った。表情や仕草といった見て解る変化じゃない違和感。理由を聞いても「課題を家に忘れて、先生に補修を受けさせられてこっぴどく絞られた」とだけ。
その日の練習は春風小春の一言ですぐに解散となった。作り笑顔を浮かべる彼女に、要はそれ以上言及することはできず、下校中はその笑顔が脳裏について離れなかった。
(何かあった、よね。きっと)
少しだけ、ほんの少しだけ、彼女の事を分かった気になっている自分がいた。
偶然知った秘密、二人だけが知る秘密、二人しか共有できない秘密。
しかし、それだけだった。喫茶店で会い、ショッピングモールで買い物をし、屋上で告白の練習をした、それだけ。
要にとってこの二週間はとても濃密で凝縮された時間だったけれど、白河結に想いを馳せた時間の一パーセントにも満たない。
ちゃぷ、ちゃぷ。
揺れる水面に映し出された要の表情は、酷くゆがんでいた。鏡のせい、とでも思えれたら幾分気も楽なのに。
「来週が本番……」
何が、できる? 何が、残せる? 彼女と過ごす時間の中で、どうにかして価値を付けてあげられることは?
彼女の幸福を願い行動する。
告白の成功を示唆する。
なら今以上にできることは何だ? 少しでも成功に近づけるためには何ができる。
「あっ」
思い浮かんだのは『ジンクス』だった。
屋上で黒崎要に告白され、振られたものには第二の告白が成功されると言われる眉唾もののジンクス。要にとって時間の空費であり、日常に食い込むほどの影響を与えたジンクス。そして、彼女の告白を成功に近づけるジンクス。
要自身、これで本当に成功するなんて思ってはいない。神社に合格祈願をしにいく程度のおまじないぐらいにしか思っていない。それでも、要にはこれが最後の一手に思えてならなかった。ましてやこれまでの空費した時間があのジンクスを形成し、この日のための布石となるために積み重ねられてきた時間にさえ思えてならない。
あの本を読むだけの時間が最後のピースになろうとは、あの時の自分は夢にも思わないだろう。
要はすぐさまお風呂からあがり、髪もそぞろに乾かして筆を取った。
春風小春との練習は明日で最後。
要は日が過ぎるギリギリまで、筆を休めることはなかった。
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