第六話 後編
「うう、英語の課題を忘れてくるなんて」
小春は駆け足で廊下を走り、屋上へと向かう。
ホームルームが終わってどれくらいたっただろうか。既に体育館からは運動部の掛け声と、ボールを床に叩きつける音が入り混じり、廊下には人っ子一人いなかった。向こうから教師が来た時と『廊下は走らない!』のポスターの前でだけ緩やかに、そしてまた駆け足になった。
要への罪悪感、そして課題を待ってくれなかった教師へ若干の苛々が小春の背中を押した。
小春は自らを優秀だと思ったことは一度も無い。しかし、宿題や提出物はきっちり守るぐらいには自分を優等生と評価している。勉強はできなくとも、誠実あろうと心掛けるのは桜木桜花の影響だろう。中学の内申点が高かったのも、そういった小さな積み重ねあってこそだった。
だが、小春が積み重ねてきたものは高校で一度リセットされている。例え課題をやってきたと主張しても、それが手元にないのだから信用されないのも無理はない。それでも、必死に訴える一生徒の言葉が嘘か誠か、それを見極めるぐらいの慧眼は持ち合わせて欲しかったと、不満を募らせる。
(なんか私、朝から駄目駄目だ……)
教師に対する不平不満より、それを理不尽にぶつける自分自身に自己嫌悪する。小春自身、誰に非があるかぐらい、少し時間を置けば気づくことができた。それぐらいには、授業中の睡眠で回復していた。
(急ごう)
事前に遅れることを連絡していたとはいえ、待たせていることに変わりはない。今はただ歩みを進めた。
小春は屋上に辿り着き、扉の取っ手に手を掛ける。その時、聞きなれない声がした。
(誰かいる……)
明らかに男子のもの。少し高い声音だったが、線の太くしっかりとしたものだった。
扉越しにも伝わる、張り詰めた空気。踏み入ってはいけない、と直感した。小春は扉の取っ手から手を離し、しゃがみこんで聞き耳を立てる。
また声が聞こえる。
聞きなじみのある声だった。
扉越しだとぼやけて聞こえるが、今日ここで待ち合わせしている人物を小春は知っている。
(要先輩だ)
要の声が途切れ、やや間があってから、それは聞こえた。
「好きです! 付き合ってください!」
今度ははっきりと、その太い声が聞こえた。
小春は少しの間硬直していた。急に大きな音がしたこともそうだが、突如耳に飛び込んできた言葉の意味をすぐに解決できなかった。
(好き、好きって言った? 男の人が言ったよね? 相手は誰? 屋上には告白した男の人と、要先輩と……あれ、要先輩の他に声なんて聞こえてこなかったような……)
ポク、ポク、ポク、ポク、ポク、ポク。
頭の中に響くゆったりとした木魚の音を聞きながら、小春は思考を一つ、また一つと繋ぎ合わせて言った。
男の人、告白、相手、女性、要先輩……
(要先輩が告白されてる!?!?)
思わず発しそうになった言葉を、必死に両手で塞いだ。立ち上がりそうになった腰を制止し、ゆっくりと静かに元の位置に戻していった。
こちらに気付いた様子はなく、ホッと胸を撫でおろす。同時に、いたたまれない雰囲気に飲まれそうになる。誰かに、それも知人に告白現場を見られるなんて、例え告白を受ける側とて気分の良いものではない。もし、自分が同じ立場であれば、気まずくなってしまうと小春は思う。
(どうしようどうしようどうしよう!はやくここから離れなきゃ)
気づかれてしまえば、それまでの良い雰囲気を壊してしまう。張り詰めた線がぷっつり切れて、男子生徒の告白が上手くいかないかもしれない。それどころか、その後の関係すらもギクシャクしたものになってしまう。そんな未来が容易に想像できてしまい、身体が自由に動かない。
行為そのものを悪と自覚しているのに、それに対処することができない不自由。小春を縛る罪悪感は、冷静な思考を奪っていく。
しかし、その金縛りは扉に近づいてくる足音によって解かれた。
全身が動くことの解放感より、迫る圧迫感が押し寄せる。目に映る物すべてがスローモーションに見え、思考だけが先にいる。周囲には下へつながる階段に半分開いた掃除用具入れ。階段を降りている余裕などないし、掃除用具の詰まった用具入れに入ろうとすれば音で気付かれてしまう。
(いちか、ばちか!)
小春は意を決し、用具入れの戸を背にしゃがみこんだ。
小さく、深く、ひっそりと息を吸う。
扉が開かれる。
耳に響く金属音。
数秒の間を置き、再び扉が閉まる音がする。
カツ、カツとしっかりとした足取りで階段を降りる音。
見下ろすと、男のつむじがはっきりと見えた。上を向かないでと祈った。
祈りが届いたのか、男が立ち止まる素振りはない。
カツ、カツ、カツ……
「はぁーーーーー!」
小春は両手を床にぺったりと付け、吐き出すように息をぶつける。長い静寂に比例して、呼吸は荒く激しい。押し込んでいたバネを解き放つかのごとく、反動が襲ってきた。
小春が潜んでいた場所。隠れるというにはあまりに心細い面積しかない掃除用具の戸。開きっぱなしになっていた戸の背に隠れ、屋上扉から出てくる男子生徒との遮蔽にした。階段を下るさなか、男子生徒がこちらに振り向くか気がきではなかった。くの字階段の折り返し地点、少し頭上を上げれば小春は視認されていた。頭隠して尻隠さず、一方向にしか死角を作れないこの作戦は博打に等しかった。
弛緩する空気に安堵しつつも、思考はとめどなく回る。
男子生徒の告白から屋上を後にするまで数十秒。チラッと覗けた男子生徒の表情に、沈むような絶望も泣きはらした跡もなかった。それでも、その告白が失敗に終わったことは直感でわかった。
だからこそ、小春の靄は晴れなかった。
潔い幕切れ、呆気ない結末。
自分が近い将来行なおうとしているものは、これなのか?
これが、本当にこんなものが告白なのか?
おかしなことをいっていると思った。
人によって好きになるキッカケも、理由も、意味も、想いも、その相手に尽くす熱量だって人それぞれだ。それぐらい、小春だって理解していた。すべてが純愛で、純情で、劇的なストーリーじゃないことなんて、理解していた。理解していたのに、同じであってほしくないと渇望してしまった。
神秘的なんて美化などしない。ただ、理路整然と説明出来ない感情に流されるだけのような、経験や知識で推し量れない何かがあって然るべきだと、そんな押し付けがましい渇望だった。決して煌びやかなではない自分勝手な欲望の浅ましさに、小春は目を背けることができなかった。
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