第六話 前編

木曜日。

 ふわふわした世界にいた。

 身体が浮いている。全身を縛り付けるものがなくなり、解き放たれたような感覚。視界は狭く、中央だけが白んでいて、あたりはほの暗い。

 自分が歩いているはずなのに、頭のてっぺんから俯瞰しているようだった。それは自立し、どこかへと歩みを進める。どこに辿り着くとも分からない。しかし、確実にどこかを目指し、一歩ずつ歩みを進める。

 それは私の、春風小春の夢想だと自覚する。

 後悔か、期待か、焦りか、先に待つ未来を想ってか。どの感情に比重がかかり、今夢を見ているか分からない。

 まっすぐ、数歩離れた位置に誰かいる。

(結先輩だ……)

 後ろ姿でもわかる印象的なお団子髪。後ろに手を組み、そこに立つ。

 一歩、また一歩。

 手を伸ばせば届くのに、歩みを止めた。

(何か、ある。いる?)

 あたりを見回す。そこは何もない、闇だった。

 暗いのは視界が狭まったからではなかった。背後には、距離すら測れない闇。歩いてきた道すら闇に染まり、気付けば帰路が無くなっていた。

 戻れば堕ちる。堕ちてしまうのに。

(引っ張られる。いや、私が行こうとしてる?)

 途端、耳鳴りと共に空間に亀裂が入る。ひび割れは肥大化し、やがて小春の足場が崩れ落ちる。崩れ落ちるのは小春だけで、見上げる光と闇はとどまったまま。どちらにも触れることができず、堕ち続ける。

 この夢に、何か意味があるのだろうか。

 示唆するものがあったのだろうか。

 刹那に巡った考えの数々。そのどれも、現実には持ち帰ることができず、小春は眠りから目を覚ました。

 「……朝」

 頭上から鳴り響くポップミュージック。アラーム音に設定された音楽は最初小さく、段々大きくなるクレッシェンド方式。部屋中をかき乱す音量はピークに達していた。

 手さぐりでスマホを探し当て、乱暴に充電ケーブルを引っこ抜く。アイコンをタップしスライドすると、ピタリと音は鳴りやんだ。

 快眠からは程遠い、後を引くような不快感。もう一度布団にくるまるが、睡魔は襲ってこない。それどころか、カーテンから漏れ刺す日の光が眩しい。今にも布を焼き切ってしまうほど、その光は熱を帯びているようだった。

(……おきよ)

 小春はおぼつかない足取りで部屋を後にする。

「おはよ~」

 扉を開け、誰に向けたか分からない挨拶をする。

「今日は寝坊助さんだね、小春」

 キッチンから水の流れる音と共に聞こえてくる。視線は下に向けられたまま、母は洗い物を続けている。

「おねーちゃん! おはよう!」

 眠気覚ましにピッタリな、良質タックルをかましてくる小さな妹。ぐりぐりと頭をおなかに押し付けるように、がちっとホールドして小春を離さない。

 「こーら、お姉ちゃん起きてきたばっかだから体当たりしないの。あと、先に朝ごはんを食べなさい」

 母は流し台を指差し、早く皿を持っていけと催促する。それは、妹だけに向けられたものではないと小春にも伝わる。

「ほら、はやく食べちゃお」

「うん!」

 テーブルには白米にお味噌汁、ベーコンのしかれた目玉焼きにプチトマト。そして、中央には昨日の肉じゃがが大皿にこんもりと盛られていた。今日はまだ二日目なので、あと二、三日はこの主役が続くのだろう。

(美味しいからいいけどね)

 いただきます、と手を合わせ、いつものブツを取ろうと探す。しかし、その存在がないことに気付き冷蔵庫へと向かった。

「あったあった」

 冷蔵庫から取り出したの『名物 七味』。

 小春が取り出しそれを見て、母は怪訝そうな顔を向けてくる。

 「いつ見ても、目玉焼きと七味のマッチングは違和感しかないわね」

 「む~、このピリッとした刺激が、トロッとした半熟の黄身と合わさって美味しいのに~」

 はいはい、と袖にされてしまう。

 醤油、塩コショウ、ソースが置かれた横に、新たに七味が加えられた。

 

 教室に着くと、スクールバックを枕に突っ伏した。

(調子が悪い時って、なんであんなにペダルが重いんだろう)

 小春の生気は自転車のペダルを人回しするごとに吸われ、教室に付いたころには残りわずかとなっていた。

 それでも、挨拶をされれば反射的に顔を上げ、ちょっぴり元気を込めて挨拶を返した。半ば言葉になっていない中途半端な返事になってしまうが、見るからに脱力した様相を見ればそれを咎める者はいなかった。

 桜木桜花(さくらぎおうか)、ただ一人を除いては。

 「小春、なにその気の抜けた挨拶は。しゃっきっとしなさい」

 小春は声の鳴る方へ顔を向ける。そこにはいかにも仁王立ちが似合いそうな友達の姿。腕を組み、肩にかかるツインテールをなびかせ、目じりはやや上に吊り上がっている。威厳と威圧を纏ったような雰囲気だが、襟立ちのいいピシッとしたパーカーのおかげか、どことなくラフな印象とのマリアージュをはたしている。

「さっちゃん。おはよ~」

「だから、その気の抜けた返事やめなさいって。もしかして、また猫動画を見て夜更かししたの?」

「あはは、そんなところ」

 小春は淡々と、悟らせないよう話す。

 桜木桜花は小春の秘密を知らない。中学からの親友であり、信頼もしている相手だが、この想いを共有するには、小春に時間も勇気も足りていなかった。

「まったく、ノートは後で写させてあげるから、今のうちに少しでも寝ておきなさい」

「さっちゃん……持つべきものは親友だね」

 ぺちっと額を小突かれ、桜花は席に戻っていった。

 小春は再びバックへと沈む。

(今眠ったら、またあの夢をみるのかな)

 思い出すことはできない。だけど、漠然と残る嫌な感覚。鼓動のリズムを強制的に早くさせ、拭えない寒気が襲う。それなのに、じんわりと汗をかく。何もかもが間違っているとさえ思うほど、五感コントロールがきかなくなる感じ。

 小春は閉じる瞼を支えきれず、ゆっくりと眠りについていった。


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