第四話 後編
「……」
言葉を尽くすと、段々と思考世界から現実世界にフォーカスが切り替わる。
語り切った充足感よりも、自分語りをしてしまった後悔が残った。彼女が抱ている自責の一部を取り除ければと思い、頭よりも先に身体が動いてしまった結果、自分の恋愛遍歴を語るという奇行を侵してしまう。要は語り終えた直後、逃げ場でも探すようにあたりを見回し、諦めて俯き目を伏せた。
それでも、彼女が納得し、これ以上ありもしない重荷を背負うことが亡くなれば救われるというもの。
要は彼女の反応を待った。
けれど答えも反応もない。あまりの静けさに、不安が違和感へと変わる。
ゆっくりと面を上げ、恐る恐る瞼を押し上げていく。
「……」
要は目を見開いた。
彼女の頬を薄っすらと駆け落ちる雫。瞳に溜まった涙の反射が宝石のように輝き、同時に脆く砕けそうな結晶にも見えた。
その輝きにあてられたせいか、要の思考は未だかつてないほどの困惑で埋め尽くされていた。いっそ彼女が涙を武器に使う悪女であれば、これほど戸惑うこともないはずなのに。流れる涙には一切の濁りを感じない。それがゆえに、要は困惑を取り除けない。
要の慌てふためく姿を見てか、自身の涙に溺れてか、彼女は「す、すみません」と袖口を濡らした。
「あれ、ごめんなさい。気が抜けてちゃって。おかしいな、あははっ」
屋上で見せたあどけない表情に似つかわしくない、一滴の不純物。
「っつ」
気づけば立ち上がり、彼女の頬に手を当てていた。じんわり伝わる熱と、人差し指を流れる一滴の涙。流れ落ちるその一滴を落とすまいと、親指で拭った。目じりにかけて、ゆっくり、丁寧に、崩れないように。
「先、輩。あの、もう大丈夫ですから」
わたわたと手を振り、やんわりと距離を取ろうとする。先ほど見た、メニューを決めかねた状況に近い視線の動きをしていた。手の平から、今なお上がり続ける熱を感じ、要も事態を察っした。
要は慌てて席に座り、またも衝動に駆られてしまった自身の軽率さを呪った。周囲の視線が一段と刺さる気がしてならない。
彼女もそれが気になってか、ちらほらと周囲を覗く。要に気付くと、照れた表情を誤魔化すように微笑んで見せた。要もぎこちなく、笑みを浮かべた。
「なんか、最初から最後まで迷惑かけっぱなしですね、私」
そういって頬を掻く彼女に、先ほどのようなくもりはなかった。店内で見た影は一切なく、出会った当時の彼女のまま。
「屋上でのことは本当に気にしていないから。だから」
だから、これで。
要の言葉は後に続かない。数手先に続く言葉の意味を、理解した。彼女が会う理由。それは要への謝罪であり、罪の清算。それが要によって許された今、これ以上の会話に意味はない。同じ学校に通う、上級生と下級生に戻る。彼女のことだ、要を見かけたら挨拶を交わし、他愛のない話を繰り広げてくれるに違いない。
胸が、詰まる。言葉が、出ない。
それでも、要には許すことしかできない。ありもしない選択肢を手繰るように、思考は模索してやまない。
「私、これが初めての告白だったんです」
焦れる思考を断ち切ったのは、彼女の一言だった。
あまりに突然で脈絡のないその言葉に、要は見つめ返すことしかできない。
「二年一組の白河結(しらかわゆい)先輩。私の、告白相手の名前です」
同じクラスである衝撃。その人物の名前を口にした彼女は、夢心地に言葉を続ける。
「初めて出会ったのは学校説明会の時でした。そこでは毎年、部活動説明会を実施していて、私もそれに参加する予定でした。でも私、方向音痴で。吹奏楽部の部室が分からなくて、彷徨っていたんです」
部活動説明会の存在は要も知っていた。主に体育会系の部活が未来の新入生の募り、有望そうな人材には声掛けをすると聞いた事がある。要も文化系の部活動には目を通した。茶道、書道、演劇、美術、吹奏楽。メジャーな部活動は一通り揃っていたが、文芸部だけ虫食いの用に抜けていた。もし、文芸部があれば、あの時に出会えていたかもしれない。そんな妄想は端に寄せた。
「両親ともはぐれて、その時はスマホを持ってなくて連絡も取れない。誰かに聞こうにも、既に各部活が説明会を始めていて、割り込める状況じゃない。授業の始まった教室の外で、途中から教室に入るのがどこか罪悪感というか、なんというか」
要も、その気持ちには共感できた。いつもの日常で遅刻することなどほとんどないが、小説の新刊発売日の次の日は、寝不足で遅刻した経験もある。
「取り残されて、頭も真っ白になっちゃって、立ち尽くしてたんです。そんな時、どこからかほんのりと甘い香りがしたんです。既に説明化は始まっていて、教室は扉が締められている中、その教室だけ空いてたんです。すぐにそこが香りの場所だと分かりました」
甘い香りに誘われるなんて、ミツバチみたいですね。そんな彼女の茶目っ気にも、要は反応できない。
「扉を覗くと、楽しそうに鼻歌を鳴らしながら料理する結先輩がいました。広い、広い家庭科室の片隅で、思わず身体が動き出しそうなぐらい楽しそうで」
聞くと、料理部も部活動説明会に参加しているらしく、説明は別教室で行われていたらしい。他の部員は皆教室に向かい、白河結だけがここに残って料理をしていたという。
「結先輩は私を見つけると、一緒に料理をしないかって誘ってくれたんです。あの時のマカロンの味は、今でも忘れられません」
甘い香り、その思い出を懐かしむように、頬だ一段緩む。
「それから沢山お話をしました。私の通う学校の事、部活の事、そして会場が分からず途方に暮れていたこと。結先輩はどれも楽しそうに聞いてくれました。私もついついお話をしてしまい、気づいたのは吹奏楽部の演奏が聞こえてきた頃でした」
クスっと、ほころんだ彼女はいう。
「そしたら結先輩、『お菓子を食べながら演奏も聞けるなんて、今日はラッキーだね』って。その瞬間、さっきまで沈んでのが嘘みたいにポカポカしてたんです。そしたら、見学会とかどうてもよくなっちゃって、演奏が終わった後も、見学会が終わる時間いっぱいまで一緒にいました。多分、その時から、だったんだと思います」
語り終えた彼女の表情は恍惚としていた。流れる時の軌跡を手繰るように内容は鮮明で、記憶の齟齬など感じられない程。要には、家庭科室で繰り広げられる一場面が、簡単に想起できた。故に、要を抱える腕に、力がこもる。
「あの時からずっと、結先輩と同じ高校に通うため、必死で勉強しました。何度も誘惑に負けそうになって、挫折もしかけました。先生と親からも、『レベルにあった高校を探したらどうか』って何度も言われました」
よどみの消えた表情で、はっきりと要を捉える。
「それでも、結先輩と一緒に高校生活を送りたかった。あの一時を一回限りの思い出にしたくない。なのに、いざ結先輩を見かけたら直接話しかける勇気もなくて、手紙も間違えて下駄箱に入れて、先輩から逃げて。あのまま、全部全部駄目になって、終わっちゃうんじゃないかって」
張り付くような空気が消えた。
「だから、ってわけじゃないですけど」
要を見据えるため、顔を上げる。
「手紙を見られたのが、先輩でよかった。胸の内を知っても、自然体で接してくれる、そんな人で」
純粋で、穢れを知らない無垢な少女の、一点の曇りなき笑み。要が受容するには、あまりにキャパを超えたそのエネルギーに、ただただ呆然とすることしかできなかった。
思考のぼやける中、ただ一つ考え続けたことは『つなぎとめる言葉』の一言。
(私に何ができる?この縁を途切れさせないために、何が残されている?)
焼ききれる脳回路をわずかなリソースから、必死にその答えを導き出す。カチリ、カチリと、手持ちのピースを彼女にあてがう。一つ、また一つと揃わないピースが捨てられていくたび、積み重なるそれらが焦燥となって要を急き立てる。細く、微かな灯にを見失わないように。
「わ、私にっ」
続く言葉は決まっておらず、あとに続かない。少し、ほんの少しでも、脳に時間を与える苦し紛れの苦肉の策。
「私に、告白を、手伝わせて、欲しい」
「……え?」
素直な疑問をはぎだす彼女。要は自らの言葉の正当性を、価値を説明するため、思考はなおも稼働し続ける。
「ぐ、偶然とはいえ、あなたの告白を知ってしまった以上、私にも関わる権利があると思うの。いや、違う、権利じゃなくて。支援、援助、後押し?。違う、そうじゃなくて。応援、そう応援!」
会話の中で自問自答、自己解決を繰り広げる。一言、また一言と選び間違える度、足を踏み外しそうにしながら綱渡りをしているかのよう。
「あなたの想いを聞いて、手伝いたいと思った。そして、私にはそれにかかわる理由があるし、あなたは告白のやり直しをスムーズに進められる。悪い話じゃないはずよ」
「は、はい」
強引に話を押し進めたせいか、彼女の言葉はやや上擦る。要の言葉を承諾していないことは見て取れた。
「ご、ごめんなさい、熱くなり過ぎた。つまり、あなたの白河結に対する想いに共感して、その顛末を見届けさせてほしいと思った。願わくば、それがあなたの望まれる結果としての顛末として。だから、どうかしら?」
その言葉に焦りはなく、言いよどむことなかった。落ち着きのある言葉で、丁寧に気持ちを伝える。
「……」
承諾とも拒絶ともとれない沈黙。彼女の視線は真っすぐと要を見据え、要は思わず息を飲んだ。
「…で…かった」
「え?」
聞き取れずに、思わず聞き返してしまう。
「私、手紙を渡したのが先輩でよかったです」
彼女は「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をした。
『私、手紙を渡したのが先輩でよかったです。』
先ほどの返答が、要の提案に対する承諾の意であることはあきらかなはず。そのはずなのに、要の心臓は絶えず殴りつけるように脈動を促す。
そのあとの会話はほとんど耳に入らなった。熱の抜けたエスプレッソを何度も、何度も口に運ぶ。苦みとえぐみが強調され、眠気覚ましにしかならない水と化していた。それでも、麻痺した脳はそれを求めるように、後を引く。店を後にする寸前、最後の一滴を下に乗せる。やはり、後を引く味だった。
蛍光灯で眩しく照らされえた店内に対し、外は夕暮れ時の薄暗い黒に染まっていた。周囲を見渡すには心もとない街灯に、近くには降ろされたシャッターが並ぶばかり。存在するか分からない視線に、自然と気が立ってしまう。
自転車で来たという彼女と共に駐輪場へ向かう。普段から主張の激しい看板だが、今は薄暗く装飾され、赤字の注意書から畏怖の念を感じさせる様相だった。薄汚れた赤字が演出を際立たせ、血の涙でもながしているかのよう。
彼女は自分の自転車が停められている番号札を確認する。ちょこちょこと小走りで戻ってくると、精算機を操作し始めた。
「0、1、2っと」
小さく復唱していた番号を入力し終えると、「あっ」っと小さく声をあげた。
画面を覗くと『お金を入れてください。合計金額:100円』の文字。彼女はスマートフォンを片手に視線を彷徨わせる。
要はレシートに包まれた100円玉を一枚、彼女へと渡す。
「これ、使って」
「いやいやいや、悪いですよ!。さっきもコーヒーのお金出してもらったのに」
ぶんぶんと手を振り、受け取りを拒否する。
「気にしなくていいから。コーヒーだって、元はと言えば私が勝手に頼んだんだから」
実際、コーヒーの代金を支払ったのは年上だから、と気を遣ったのが理由ではない。
店内での一幕。要はメニューを決めかね慌てる彼女に助け舟を出すつもりで、自分と同じものを注文した。しかし、一向に飲む気配すらなく、気が付けば頃合いになっていた。要は水を煽り、残ったエスプレッソの余韻を消すようにしてその光景を観察していた。
要はこの時既に、『飲まない』のではなく、『飲めない』のだと何となく察知していた。注文させてしまった挙句、残すという行為に抵抗があるのかもしれないと思い、要は再び助け舟を出そうと声を掛けようとした。瞬間、彼女はカップを掴むと、その中身を一気に流し込んでしまった。
カチン、とソーサーとの間に音を立てる。身の毛がよだつ、そんな震える身体を堪えつつも「ご、ごちそうさまでした……」と最大限の取り繕った表情で答えた。不覚にも、愛らしいとさえ思える行動に胸打たれつつも、後ろめたさを感じて会計を一緒に済ませたのだった。
(とはいえ、どうしよう。)
差し出した硬貨を受け取る素振りはない。このまま精算機に入れてしまうことも考えたが、彼女が後を引いてしまっても意味がない。
彼女に負い目を感じさせず、素直に受け取ってもらう。部活に所属せず、これまで年下と密にコミュニケーションを取ったことのない要には、入試問題を解くよりハードルが高い。
「な、名前!」
言葉は思いのほか、強い口調になってしまい、要の言葉に彼女はビクッと身体を揺らした。
「名前、教えて。それで、100円……。駄目、かしら?」
要が思いついたのは等価交換。こちらの提示した要求を満たすならば、対価として硬貨を報酬として渡す。契約上の取り決めとしてなら、互いに損なく憂いを残すことはない。
要と手のひらの硬貨を見渡して、彼女はクスリと笑った。
「それって私の名前が100円の価値しかないって言ってません?」
完璧だと思われた作戦は瓦解した。土台となる前提がそもそも成り立っていない。指摘されるまで、完璧と思っていたことが羞恥に変わる。
「い、いや、そんなことは思ってなくて、ただ」
「冗談です。何となく伝わりましたから。少し、意地悪したくなっただけです」
夕暮れの茜色が闇夜に変わり、残された街灯だけが導となる。要を指す逆光が、彼女の悪戯な笑顔を照らし、二人だけの舞台を演出する脚光へと化す。要の手のひらに、彼女の手が重なる。それは硬貨を取るだけの動作なはずなのに、まるで指輪を手に取るようにさえ思えた。要の積み重なる本がそうさせるのか、夕暮れの時間がそうさせるのか。舞台を飾る道具すべてが演出となり、要の視界をお伽へと導いた。
「春風小春(はるかぜこはる)。春で始まり、春で終わる。それが私の名前です」
「……黒崎要。よろしく」
小春の名乗り文句に対し、ぎこちなく名前だけを告げる要。
二人は互いの名前を今更知った事実に苦笑した。この時、名前を対価に求めたはずが、互いに名乗ってしまったため条件が成立しない事など気づくことなく、ただただ舞台の幕が落ちるのを、ゆっくりと眺めていた。
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