第四話 中編


 滑らかに店内を流れるジャズミュージック。ピアノが主旋律を踊り、誘導するように小さくシンバルがその手を引く。表情豊かな木目のウッドテーブルに、壁に飾られた観葉植物が、まるでオーディエンスのように呼応する。店内は客層に対して大人な雰囲気を醸し出していた。

 駐輪場の看板が見える窓際の席に案内される。互いに言葉を発することなく、前を歩く要が奥の席へと座り、彼女は誘導されるように向かい側へと座った。椅子を前に引くと、足元に小さな違和感を感じ、身体を引いて下を覗く。そこには要に足に小突かれ、持ち場から離れてしまった荷物籠があった。要は荷物籠をテーブルの真横に戻し、バックを隅へと寄せる。

「一緒に置く?」

「えっと、いや、大丈夫です」

 そういった彼女は膝上にバックを乗せたまま、視線はそれを追うよに下へと向く。

 二人が着席してから程なくして店員がお水を運び、こちらにオーダーの催促をした。

「エスプレッソのSサイズを一つ」

 要が注文を終えると、店員の視線は彼女へと向く。「次はあなたの番」とでもいうように、開かれた端末に指を添えている。

 彼女は慌ててメニュー表を手にするが、明らかに視線は定まっておらず、右往左往と目を回す。メニュー表が逆さになっていることにすら気づかないくらい、彼女の視界は狭まっていた。

「私と同じ奴でもいい?」

 顔を上げた彼女はこちらを一瞥し、小さく頷いた。恥ずかしさからなのか、メニュー表の隙間から覗くようにこちらを見つめる。隠れるような姿勢で上目遣いの視線を向けられ、不意に言葉が漏れるのを堪えた。平静を装う一瞬の間が流れる。

「すみません、エスプレッソを二つでお願いします」

「かしこまりました」

 店員はそのやり取りを気にする素振りもなく、パタっと端末を閉じそのまま奥のキッチンへ向かった。

 要はグラスに注がれた水を一口、二口と飲み、先ほどまでの緊張から解放されたためか、水が体の中をゆっくり駆け巡る。まるで深呼吸でもしたかのような、そんな清涼感があった。

 少しの平静と、状況を俯瞰できる視野を取り戻した要は、本屋での一件を思い返していた。

(どうして私、ここにいるんだっけ。)


 屋上で出会った同じ学校の、名前も知らない後輩。そんな彼女との突然の遭遇に、要は立ち尽くす事しかできなかった。

 要は周囲から奇異の目にさらされながらも、彼女を視界から捉えて離さない。彼女は声をかけた相手が微動だにせず、本を落としたのに拾おうとしない事を不思議に思ったのか首を傾げていた。

「本、落としましたよ」

 手渡された本を、半ば反射的に受け取り、そこでようやく要の意識は現実へと戻される。

 手を伸ばせば届く彼女との距離、途端気づく周囲の視線、そして変に折り目のついてしまった本。複合的に合わさった要因が、『一刻も早く、ここから立ち去りたい』と要を駆り立てた。

 なんで、今日に限って、こんな……

 踵を返し、その場から逃げるようにレジへと向かう。周囲の視線から避けるように、彼女から避けるように。抱きかかえるようにして本を手にし、視線を床に落とした。

「ま、まってください!」

 力強い言葉と共に、裾を引っ張られた。

「なに?」と、少しぶっきらぼうな口調になりつつも、逃げだしたい思いをとどめて言葉を返す。

「このあと、時間ありますか?」


 結局、そのまま流されるように約束を交わし、傷つけた本を棚に戻すわけにもいかず、今に至る。  

 沈黙は続き、その間にテーブルには二つのエスプレッソが置かれた。コーヒーの香りと重苦しい空気が立ち込める。

「それで、私に用があったんじゃないの?」

 助け舟、なんて呼べるほど気の利いた言葉は出なかったが、このまま俯く彼女を見ていることもできない。

 彼女の視線はようやく要を捉えた。

 姿勢を伸ばし、胸に手を当て一息つき、まっすぐにこちらを見つめる。

「あの時は、本当にすみませんでした!」

 彼女は深々と頭を下げ、前のめりになったせいか肩ひじのあたりをテーブルにぶつけてしまう。ゆったり流れるジャズミュージックと交わり、それは不協和音となって周囲の人間へ伝播した。先程、書店での一件があったせいか、視線に敏感な要はいち早く事態の収束を図ろうとした。

 謝罪の理由は皆目見当もつかないが、この構図は傍から見ても邪推されかねない。見ず知らずの井戸端会議に話題提供をするほど、要の心は肝要になれなかった。

「か、顔をあげて。謝罪される理由はないし、心当たりもない」

「いえ、私にはあるんです」

 深々とした姿勢のまま、言葉は続けられる

「屋上での一件、先輩の下駄箱に間違えて手紙を入れました」

「ああ、そのこと。それなら気にしなくても」

「よくありません!」

 顔を上げた彼女と視線が交わう。力ずよく、それでいてはっきりと視線を向ける。要の意識は完全に彼女に吸い寄せられていた。

 ドク、ドク、ドク、と、脈打つ鼓動の音だけが全身を支配する。

「あの時、間違えて手紙を入れて呼びつけたのに、頭がぐちゃぐちゃになって逃げました。自分の好きな人が、他の人とは違うと知られてしまって、どうしようってなって……」

 言葉は次第に力を失い、テーブルに注がれるようになった。ウッドテーブルは、その言葉を要に伝えることはない。優しく、柔らかく吸収していく。

 「でも、でも! 家に帰って、頭が冷えて、冷静になって考えてみたら先輩は無理やり、しかも勘違いで呼び出されて、私なんかの恋愛話を永遠聞かされて、傍迷惑もいいところですよね……」

 またしても、言葉は次第に力を失う。気持ちが先走り、何度も言葉を紡ごうとして、紡いだ先から罪悪感に押しつぶされて、かき消されている。

 愚直なまでの、清々しい感情の発露が、要の脈動を刺激してやまない。

 何故、ここまで彼女に感情揺さぶられるのか。

 なぐさめか、気休めか。少しでも彼女の想いに寄り添いたいと、気づけば、口を開いていた。

「私は、これまでに数多くの人から告白を受けてきた」

 彼女は困惑の表情を浮かべるが、言葉を続ける。

「最初は本気だったかもしれない。でも、私には届かなかった。そのまま屋上の風と一緒に吹き抜けるだけ。そして、いつしか瞳に私を映さなくなった。私の先にある、他の誰かを見て、その言葉を宛てている」

 感情を言葉におこす。深く、語るに沈んでいく何かを感じつつも、止めることはできなかった。しっとりと流れる曲調に、ただ流されるまま口を開く。

「だから、あなたを見つけるまでは『またか』って、そう思っていたの」

 数分後、いつもの日常が戻に戻る。家に帰り、読みかけの小説を開き、スタンドライトと紙のめくれる音だけの寝室で、気が付けば夜を置き去りにして、朝を迎える日常。

 でも、違った。

 めくったページの先に待つのは真っ白な光景。不確かで未確認なものとの遭遇に、濡れた体は熱を帯びたまま。夢にまで侵入してきた彼女に、回答の見えない感情の火照り。要の膨大な歴史のページの、どの節を切り取っても、それは見いだせなかった。

 少なくとも、今めくろうとするページの意味を理解できないまま、この先を読み進めるなんて、できるわけがない。

 日常が、非日常へと変化した瞬間。

 火花は言った、『要はどうしたい、どうなりたい』と。

 そうか、私は……

「きっと、あなたの熱にあてられたのね」

 だから、こんなにも揺れ動いた。動かされた。

 好きを語った彼女の声に、想い人を悟られて赤面する彼女の表情に、その場にいられず逃げ去った彼女の背中に。

 嘘で固められた壁を、ふっと吹き溶かしてしまうかのように、自然なまでの浄化だった。


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