第四話 前編
要の通う学校には大きく分けて正門と裏門の二通りの帰路がある。正門前にはスクールバスが一台。登校時に二本、下校時に三本のダイヤで回っている。生徒を下道にある最寄りの駅へと送迎するバスで、運賃はかからない。
要は通いなれた通学路から外れ、駅前の横断歩道を一つ渡った先にある本屋に寄るため、スクールバスへと乗車していた。向かって最後尾にある座席の左端、タイヤ一つ分の凹凸がある席へと腰掛ける。要が席に座ってから数分、人の流れはまばらで、空席に置かれた荷物が閑散度合いを物語っていた。小さく開けられた窓からは、キュッキュと甲高い音が体育館から流れ込んでくる。青春を謳歌する音だ。
(大きな音……)
扉の閉まる警笛音が流れ、バスはゆっくりと走り出す。正門を通りすぎた頃には外から聞こえる音はなくなり、窓際の景色が色づくようになった。肘をつき、手のひらに顎をのせる。一回りも大きくなった視界から見える雲は、いつもより近く感じた。黄昏が近いからだろうか、疲労した脳は段々と澄み渡り、感傷的になっていく。
岸本火花との一件があった次の日、要は若干の憂鬱と不安に苛まれながら登校した。登校前、母親から手渡された体温計を脇に、「高熱であれ」と願ったのは容易に想像できよう。願いはむなしくも「36.0」の電子文字によって打ち砕かれ、決して軽快とはいえぬ足取りのまま学校に赴いた。
幾度と縁石に足をぶつけ、段差につまずき、危うく電柱に頭をぶつけかけること数回。手押し車を押す年配の方に声を掛けられ、常用している漢方薬を飲まされたのは苦い経験となった。注意力を家に置き忘れてきたのかもしれないと、誰に言うでもない屁理屈をこねる。それぐらい、余裕が底を付いていた。
つい数日前は、自らの変わらぬ日常と景色に辟易としていたのが嘘のよう。要は自身の願いが曲解解釈されて、悪戯な神にでも聞き届けられたのかと、浅はかにも考えてしまった。自身の裁量が及ばない事を「神の悪戯」なんて、ばかばかしい。すべては自らの選択が招く結果でしかないというのに。要は振り払うように頭を振り、思考のベクトルを捻じ曲げる。
そうこうしているうちに、2-1のネームプレートが掛かった扉の前まで来てしまった。引き戸に掛ける手はひどく重いのに対し、扉は軽々と開いてしまう。
恐る恐る教室を見回し、クシャっと泡立つようなボリューム髪の女子生徒を探す。教室の中はいくつかのグループの会話と、それを子守歌に眠るサナギがちらほら。グループのどれにも属さず、火花の席に誰もいないことを確認する。ホッと一息、胸に手を添えた。
「なーにしてんの?」
「”ひゃい!”」
突如、背後から耳元に向けて放たれた声に、要は言葉にならない悲鳴を上げた。振り返った先にいたのは目的の人物、岸本火花であった。思いのほか大きなリアクションの要に驚いたのか、火花は人差し指を向けたまま、目を白黒させて固まっていた。
「びっくりした……。え、何?どうしたの?」
「え、あ、いや」
どうした、はこちらのセリフである。一息ついた瞬間に驚かされ、緩急がついた分、悲鳴に拍車がかかってしまった。要は内心深く追求したい言葉を飲み込み、深呼吸をする。
正面の火花をジッと見やる。
あまりにも普通、というより、いつも見ている火花となんら変わりないようにさえ思えた。要は昨日の一件があってから、火花との接し方を採算シミュレーションし、「朝の第一声の言葉は"おはよう、昨日のテレビ見た?"」でいくことを決め、普段見ない深夜のバラエティ番組をチャックし、自然な流れで会話の流れを逸らす作戦が水の泡である。
「もしかして、双子の妹さん?」
「……私、一人っ子なの知ってるでしょ」
要自身、本気でそんな質問をしたわけではないが、ちょっぴり虫の居所が悪かった。目の下のクマが威嚇でもしているのかもしれない。
その後の火花は拍子抜けするほど普段通りだった。休憩時間は眠りこけ、お昼は互いに当たり障りのない話題で間を繋ぎ、そんな日常を繰り返しているうちに、とうとう下校時間が訪れ今に至る。ちなみに、テレビの話題は火花が見ていなかったため、十秒と繋がらなかった。
(眠い……)
プシューというスプリング音と上下に揺れる車体によって、要は物理的に現実へと引き戻される。手の平に乗せた顎は、磁力でも失ったように滑り落ち、途端に羞恥心が込みあがる。幸い、後部座席には誰もおらず、醜態の目撃者はいなった。
身体を揺られながら下校生徒を見下ろしす。膝に乗せたくの字の文庫本、両翼から十分な力を加えられず、栞は落ちたまま。窓に身体を預けたまま、思い浮かぶのは教室での一幕。
(あの時、昨日のことを聞いていたら、どんな表情をしていたんだろう。)
走行するにつれ、車内に漂っていく睡魔の影。鉄のゆりかごは穏やかつ、確かな速度を保ったまま、眠りに近ずく赤子を目的地へと誘うのであった。
きっと今日は厄日だ、そうに違いない。
ポツリポツリと、要は書店へ足を進めていた。緩やかに流れ聞こえる鉄の三拍子を背に、つぶやいた言葉は紅の空へとかき消される。無機質な音のみが世界に響く、要はこの瞬間が嫌いじゃない。ただ、降ろされたシャッターを一つ、二つと通り抜ける度、同時にもの悲しい気持ちにもなる。
身体を伸ばし、先ほどまでバスに揺られていた身体をほぐすと、凝り固まった身体から鈍い骨の音が鳴る。睡魔のゆりかご、彼は非常に凶悪かつ巧妙であった。駅前についたことを知らせる警笛音を、耳をそっと塞いで遮音してしまい、おかげで「お嬢さん」なんて洒落た呼び方で、白髭の似合う運転手さんに現実までエスコートしてもらう始末。何度か声を掛けられ、肩を数度揺すられて、ようやく目を覚まし、今に至る。
「本当、恥ずかしい……」
思い返し、恥ずかしさで顔を紅色に染める。運転手さんの声は、男性特有の低く落ち着きのある美声、航空機船内で流れるラジオ番組に、ナレーションにとして流れていてもおかしくない。内心で高評価ボタンを押しつつも、原因の一旦を運転手に負わせた。
自責の念に背中を押されつつ、ほどなくして目的地の看板が見えてくる。白地の看板には黒字で料金が記されており、「入庫後、1時間無料」の文字だけが赤く強調されていた。本屋の真向かいに位置するその駐輪場は、その規模よりも主張の激しい看板が目立っており、目印としては最適。本屋の入り口にある立て看板と比べれると、親子にさえ感じられるほど、その大きさは歴然であった。
本屋の立て看板に記された「営業時間:9:00~21:00」の文字がクッキリと視認できる距離まで来たところで、駐輪場の方角から三人の女子生徒が歩いてきた。要とは異なる、左胸に小さなエンブレムが刺繍された制服を纏った女子生徒達。耳にピアスを付け、爪はネイルで色付けされており、他の生徒よりも一段と濃い武装を施していた。かと思えばネクタイは見当たらず、ボタンの外れた制服から見えるワイシャツは、首元をさらすように広がっている。
見た目で人を判断してはいけない、と要も頭では理解しているが、「この人たちは本を読まない」と内心結論付けていた。案の定、店内に入った直後、彼女達は入口の傍に飾られたポップを一瞥することなく、脇にあるエスカレーターへと向かった。どうやら答え合わせの結果は「正解」だったようだ。
本屋の二階は喫茶店となっており、コーヒーよりもスイーツのバリエーションに定評がある。学生のたまり場としては勿論、甘いもの付きの女子高生にも大変人気がある、と以前火花が言っていた。要も購入した本の内容が気になり、待ちきれなくなった時に利用する。ただ、コーヒー二杯分の値段で文庫本が一冊買えてしまうという事実が、要の来店頻度を減らしていた。
(この匂い……、やっぱりいつ来てもたまらない。)
先ほどまで答え合わせに興じた脳は、広がる大小色とりどりの本の海に支配されていた。今月の新刊がまとめられたコーナーから順に、雑誌、自己啓発、エッセイと棚は並び、要はその宝の山を隅々まで見渡した。入口から店内をほぼ全て一望できるこのお店は、決して品揃えが豊富とは言えない。だからこそ、限られた本棚のスペースには書店員から選び抜かれ、厳選された本達が並ばれる。幾度となく訪れたであろう本屋のラインナップなど、ほぼ全て覚えてしまっているはずなのに、「新しい本に出会えるのでは」という好奇心が胸を叩く。
冒険にでも出かけるような膨らむ期待に突き動かされ、店内を練り歩く。
(あ、○○先生の新作が出てる。こっちは▲▲先生の続編だ。)
要はまだ知らぬ作者の新刊、愛読している作品の続編、続編が期待されたのに突如行方をくらました流浪作家の本にひとしきりリアクションを返した。思わず声に出してしまいそうな興奮を抑え、それでもにじみ出てしまう百面相を手で覆い隠す。一つ棚を抜けるごとに、名残惜しく足踏みする気持ちを押し殺し、やや狭まった歩幅で歩みを進める。
店内を一周した頃には興奮もひと段落。今度は冷静に、選書の審美眼を開眼させる。毎月のお小遣いから、要の一月に購入できる本は、どれだけ切り詰めても五冊が限度。文庫本等の比較的安い品を購入しても六冊が限界。その中で選ぶ一冊は、この月のモチベーションを左右するといっても過言ではなかった。
真っ先に最新刊の特集コーナーに立ち止まり、今月の代一冊目の選書にうつる。だがしかし、目の端に捉えたモノは、推理でも、SFでも、青春でも恋愛でもない。
『世の中の全ては筋トレが解決してくれる。全てを叶える科学的メソッド』
筋トレ、ではなく、限りなく筋トレ本に近い自己啓発本だった。
他の本が霞むほど、主張の激しい大胸筋がでかでかとイラストされている。かつてこれほどまでに、自己啓発本が自己啓発していることがあっただろうかと、要の思考は照りつく大胸筋に侵されていた。
だが、問題は主張が激しいことでも筋肉が小麦色に焼けていることでもない。ましてや、これまで一度も運動部に所属してこなかった要が筋トレに興味があるわけもない。
問題は『全てを叶える』の一言。そう、この一文に引き寄せられてしまったのだ。
タイトルの誇張表現、拡大解釈は今に始まったことではない。近年の主流を考えれば、この本のタイトルはテンプレートに分類されるであろう。いつもの要なら素通りし、数ある本の一つぐらいにしか扱わない。それなのに、一度気になりだすと止まらなかった。まるで要の心情を知り、甘言を駆使して弄ぶように。本を選びに来たはずが、こちらが選ばされているようにさえ思う。
「……」
推理、ライトノベル、大胸筋。SF、恋愛、大胸筋。右往左往と揺れる視界の間を縫って、あの大胸筋が要を見つめ、今にも動き出しそうな圧力を放つ。子供の頃は絵本に登場する妖精と会いたくて、何度もめくるページに思いを馳せたていた要も、『面会拒絶』の張り紙を握りしめていた。
とはいえ、内容が気になるのは事実。一読書家として、内容を見もせず毛嫌いするのは要の理念に反する。鍛えることそのものに興味はなくとも、筋トレに紐づけられた科学的メソッドの内容には多少興味があった。
手に取れば後戻りはできない。実態のない大胸筋が、要に訴えかける。「私を手に取れ」と。
脳に語り掛ける声を振り払い、「目次だけ……、いや最初の章だけ……」と、深夜のお菓子でも手に取るように、棚に置かれた本を取り、ゆっくりと開いた。
最初の数ページしかめくっていないのに、目次に並ぶパワーワードの数々。これほどまでに力強い目次もないだろう。それゆえに、著者の筋トレに対する信頼、いや崇拝といえるレベルの絶対的存在なのだと伝わってくる。思わず喉をならし、手に取るページに緊張が伝わる。
「あれ、先輩?」
要の思考はそこで停止する。そして、フラッシュバックされるあの時の声。振り向くまでの刹那、要の脳内は「先輩」がいっぱいにこだまする。元気よく呼びかけられた時とは違い、疑問符をのせ、語尾がやや高い音で飾られた「先輩」。はじき出された予想とほぼ同時に答え合わせが行われる。
スルリと手から滑り落ちる本。鈍い音が店内に響き渡り、若干のざわめきと奇異の目を背にしても、要は振り向きもしない。後ろには何もない。世界が視線の先にある。いや、世界のすべてが一点に集約しているといわんばかりに。真っ白な時空の境界線で、彼女だけが色を持って、顕現する。夢か、妄想か、幻想か。要の視線は不確かな存在を確実にするため、ただただ彼女だけを見つめ続けた。
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