第三話 後編
要は昨日の事を説明した。
ホームルームが終わってすぐに屋上へと向かったこと。そこで出会った一人の女の子のこと。事情を知って動けずに立ち尽くしたこと。そして、気づいたら家にいて、眠りに落ちていたこと。
説明する言葉に熱はなく、ただ時系列に沿って、淡々と言葉を羅列する。それは自分の事を話す第三者、取り調べに応じる聴衆のよう。要自身、屋上での一件に結論を出せずにいた。濁流に流されるまま、櫂をコントロールをする余裕もなく、岩壁に砕けた感情をいったいどう説明すればよいのか。
何度も思案し、ゆっくりと言葉を模索するが、選択される言葉は無機質な場面を連想させる状況名詞ばかり。
要は火花の意図する回答と、自身の回答にズレがあるのを自覚していた。それ故に、時間が経つにつれ湧き出るのは濁った居心地の悪さのみ。
要は手持ち無沙汰に摩った手から視線を外すことなく、気付けば言葉の残弾は底を尽いていた。火花は相槌すらいれず、ただただ耳を傾けていたのだろうか。もしかしたら、あまりに趣旨から逸れた話を繰り広げてしまい、呆れて物も言えないだけかもしれない。そう思った瞬間、まるで自分だけが高負荷の重力惑星に取り残されているかの気分になった。重い頭を軽く振り、視線のみを火花に向け、機嫌を確認する。
「……火花?」
要は他人の感情を読み取るのが得意な方ではない。目を吊り上げる、声を荒げる、涙するといった大きな導線でもあれば判断ができるのだが、空気感や機微といったものから察するのはめっぽう苦手だ。
ただ、今回はそのどちらにも当てはまなかった。
目に映るのは正座姿で背筋を伸ばし、手で顔を覆う岸本火花。思わず要は小首を傾げた。互いに何も言葉を発することなく、空白の間が永遠にも感じられるほど、静けさが空間を支配していた。
手で顔を覆うといった動作には大きく二つの意味があるとされている。一つ目は他人に顔を見られたくない時、二つ目は泣きたくなるほどの悲しい出来事に遭遇した時の二つに大別される。後者は論外だろう、呆れられることはあれど、悲しみにいたる程酷い説明はしていないはず。考えられるとすれば前者だが、何故このタイミングで見せたくない表情になったのか。笑いを堪えるのに顔を隠した、とは考えたくない。しかし、現状の選択肢としては一番可能性が高い。
「ひばっ」
「はぁぁぁ……」
「うわっ」
要の呼びかけに被さるようにして、火花は盛大なため息をついて見せた。クの字に折れ曲がるように倒れ込み、要の布団の上に頭を乗せる。猫を連想されるような予測不能な行動に、要は動揺を隠せず困惑の色を浮かべる。完全に声を掛けるタイミングを失い、空中に手をさまよわせていると、両手と布団に覆われた口からくぐもった声が聞こえてくる。
「どうしたい?」
問いの意味が分からず答えに詰まっていると、今度ははっきりとした口調で「要は、その子とどうなりたい?」と問うた。布に吸われてしまったのか、その言葉から感情を読み取ることができない。
火花の問いに、困惑と疑問を浮かべる要。そもそも「どうなりたい」という質問の意味が分からなかった。要が屋上で出会った女の子は知らない人で、勘違いで手紙を入れた相手で、他に好きな人がいて、何の関係性もないただの一生徒。間違って手紙を入れられたことも、屋上で時間を空費させられたことも、要にとっては慣れきった日常の一部だった。そこに怒りや憎しみといった感情はなく、いつもの日常の一ピース。今回はたまたま女の子が勘違いして告白に来ただけ。
ただ、それだけなのに……
(どうなりたいって、どういう意味なんだろう……)
熱に侵されていた身体は、いつしか記憶を漂う一人の女の子によって埋め尽くされていた。どれだけ思考をめぐらせ、物語の登場人物に自分を重ね合わせても、結論には辿り着かない。無数のサイコロが盤上に転がり、止まることなく転がり続ける。いつしか白とも黒ともつかない、仰々しん数のサイコロが思考を埋め尽くし、要を灰色に染める。
部屋一帯に湿った空気が充満する。知由熱と体温が入り混じった蒸気は雲を造形し、いつしか霧のように全てを包み隠してしまうのでは、と錯覚させるほど、今の要は冷静と程遠い状態にいた。
朦朧とする視界。力は少しずつ抜けていき、上半身は支えを失い振り子状態。重い頭が遠心力によって段々と速度を増していく。このまま身を任せたら横たわってしまう。そんな時だった。
布団からのぞき込むようにこちらを覗いていた火花が、要の肩を両手でそっと引き寄せた。ふんわりと香るオレンジに包み込まれ、心地のよいシルクに覆われる感覚のまま、枕元に誘導されていた。要のヒートアップした姿を見かねての行動であったのだろう。
「……」
要を抱いた両手には、確かな温かさがあった。体に障らないよう、ゆりかごにでも寝かしつけるように優しい温もり。毛布を胸元にかぶせ、軽く払ってしわを伸ばす。流れるように自然な看病に、一瞬言葉を失う。要はすぐにでも感謝を言葉にしたかった。
だというのに、要は言葉が出ず硬直していた。
熱により、脳回路がショートしたからではない。先ほどまで両手に隠されていた火花の顔が、要を支えるためにその手から離れ、表情があらわになっていた。
瞳の奥底にあるのは嫌悪ではなく、情愛とも呼べる何か。それでいて、触れること許さない。今にも憂いに沈んでしまいそうで、いくつもの感情が数珠繋ぎとなり、何かの拍子に弾けてしまう。そんな危うさを孕んでいた。
要の焼け切った脳にはそれを対処する気力も頭脳も残っておらず、ただただ見つめ返すことしかできなかった。
「ごめん、要」
かすれたような言葉で、ふり絞るように吐き出したのは謝罪だった。
要の混沌した脳は一層の深みへとはまっていく。
「要の分からないを、私は知ってる。でも、それについて私から答えることはない。要がどうこうとかじゃない、私自身が答えたくないだけなの。だから、ごめん」
要はいつになく真剣な表情の火花を目にし、その言葉に嘘偽りがないと知る。ただ、あまりにも真っすぐ過ぎるその言葉の真意が、謝罪ではなく別のところにあるでは?と、そんな気がしてならかった。
その後、言葉という言葉を交わすことなく、火花はその場から離れるように立ち上がり、どこかへ行ってしまった。くしゃくしゃと泡を立てる音からが聞こえ、テーブルの上を確認すると、先ほどまで並べれられた食器類が綺麗に無くなっていた。
要は呼び止めようと考えたが、先ほどの会話が脳裏を過る。喉元まで出かかっていた言葉は、そのまま飲み込まれてしまった。
(火花のあんな表情、初めて見た。)
水の流れる音が、熱を帯びた頭を冷ますように、次第に要は落ち着きを取り戻していった。
丸い蛍光灯をぐるぐると意味もなく、なぞる。何度周回しても答えなど出るわけもなく、それどころか、屋上の女の子のことと火花の事、悩みの種は増えるばかり。いっそのこと、種に根が生え、成長し、互いの悩みが交じり合って解けなくなってしまったなら、これ以上考える必要もなくなるではないだろうか。時のまにまに、そんな事ばかり考えてしまう。
気が付けば皿を重ねる音も、水の流れる音も聞こえなくなっていた。戻ってきた火花はハンカチをスカートのポケットに閉まっている途中で、「じゃあ、もう帰るね」と帰り支度を整えはじめる。もともと荷物という荷物もなかったため、支度をすぐにすませ、足早に立ち去ろうとする。
お見送りだけでもと思い、要は玄関口まで駆け寄ろうとするが、咄嗟に起き上がろうとしたために、毛布が足にもつれて倒れ込んでしまう。
(今日の私、本当に……)
すべてが上手くいかない。今この瞬間、この世の不幸を一手に背負っているのではないか、そんな気分に陥る。張り付いた手の平に、力がこもる。この場に火花がいなければ、力に任せて拳を床に打ち付けていただろう。
「大丈夫? ほら、手掴んで」
ギリギリの思い出で理性を繋いだ要に、そっと手を差し伸べる火花。姿勢を低くし、右手を差し出す。握り込まれた拳が次第に、ゆっくり開いていく。
要はその手を握ったが、予想より遥かに力強く引っ張りあげられ、今度は前かがみに倒れ込む。正面に立つ火花に、抱きかかえられるような姿勢になった。急いで肩を掴み離れようとするが、回された左腕によって阻まれる。頬に当たる髪がくすぐったい。
「今度、ちゃんと聞かせてね」
何を、という要の問いかけには答えず、続けざまに「その時、私も話すから」と。
次の瞬間、火花は身を翻し、要を残して去っていった。
「……」
決して大きな音とは言えない扉の閉音が残響となって鳴りやまない。
要は鍵を閉めることも、布団に戻ろうともなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
身体を支えられ、耳元を通り抜けるあの言葉、すぐさま身を翻し立ち去るその刹那。それが本当だったかどうか、朦朧とした意識が見せた虚像だったのか、確証はない。
しかし、確かにそこにあった。
あの崩れそうな笑みが、そこから消えようとせず居残り、要を引き留めて離そうとしなかった。
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