第三話 中編
要が再び目を覚ましたのは悪夢ではなく、一音の鐘だった。
ゆったりと間延びした音。先刻より幾分軽くなった身を起こし、おぼつかない足取りで玄関の前へ立つ。小さなのぞき穴をのぞくと、そこには全国の女子高生の模範、岸本火花(きしもとひばな)の姿があった。まつ毛の角度に余念がないことが、悪い視界でもよくわかる。
シリンダー錠のロックを開け、扉をゆっくりと押す。
「よっ、思ったより元気そうじゃん」
朝の挨拶でもするかのように、軽い調子で手を顔の前にあげる。「ほい、お土産」とコンビニの袋を手渡され、中にはスポーツドリンクと胃に優しいそうな乳製品、懐かしの駄菓子、そしてレシートが一枚。
「こういう時、値段の書かれたものは隠しておくべきだと思うのだけど」
要は水滴を吸ってふやけたレシートを手に取り、値段の書かれた面を火花に見せつける。
「逆だよ逆、あえて安いものを買ってきましたと伝えることで、相手に気を使わせない私なりの気遣い」
「あと」、と付け加えて
「それだけはっきり返せるなら、本当にダイジョブそうだね、の確認」
本当に、の部分は若干引っかかるところだが、火花の献身的な態度に裏がないことがわかると、要は素直に感謝の言葉を伝える。義理堅い彼女の事だ、風邪を引いたクラスメイトのためにわざわざ来てくれたのだろう。
このまま立ち話をつつけるのも何なので、要は火花を家に招き入れることにした。風邪をうつしてもいけないかと悩んだが、その胸中を察してか「病人は他人の心配なんてしなくていいの」と一蹴されたので、そのまま招き入れることにしたのだった。
過去に何度か遊びに来たことのある火花は一直線に冷蔵庫へと向かい、買ってきた見舞いの品を隙間なく詰めていく。半ば強引に身の回りの整理を始める火花に、無理に気を使わなくて良いと強く止めることは躊躇われた。これではどちらが来賓なのか分からない。
「ほい、これでもどうぞ」
両手にはプリンとお皿が二枚重ねて握られていた。三個で一セット、リーズナブルかつカラメルが上に乗った状態で簡単に取り出せる機能性を兼ね備えたそのプリン。子供の頃に一度はプッチンしたことがあるだろうそのプリン。ちゃぶ台の上に置くと、さっそくと言わんばかりに容器から蓋をはがし、かぶせるようにお皿の上にプリンをセッティング。そして導線となるプラスチックの突起を「プッチン」と綺麗な音を立てて倒す。ストン、とまるで音を立てて落ちたかと思うほど綺麗に滑り落ち、皿の上に収まる
「気持ちいい~、やっぱ綺麗にプッチンできると快、感」
火花の所作には洗礼された所作めいたものがあり、茶道で抹茶を立てるそれに見えなくもないな、とおかしくて要は苦笑した。
「火花、そういうのホント好きだよね」
「ん?ほうひうのっへ?」
「子供の頃のお菓子とか、よく買ってるじゃない。ほら、シールのオマケが付いた筒状のお菓子とか、音の鳴るラムネとか」
まだ互いの身長に大きく差がなかった頃、近所の駄菓子屋に並べられていたお菓子を、下校途中に買ってはシェアして食べていた。子供の手で握れるお金の額などたかが知れており、一個買うだけですぐに一文無し。それを、二人が半分にして分け合うことで、同じ値段なのに二倍、いやそれ以上の幸福感で満たされ、自然と「小さくて、沢山入っているもの」を選ぶようになっていた。
駄菓子屋がなくなってから、要は進んで駄菓子を買わなくなった。別に嫌いになった訳ではなく、ただ目に映らなくなったというだけ。それだけ要の身長は上に伸びたという事なのだろう。あの頃の思い出は、五十センチの身長とともに置いてきてしまったのだと。そんな胸中を知る由もなく、追懐する要を置いてプリンを完食していた。
「それで、何があったの要」
完食の余韻そのままに、甘ったるい調子で語りかけてくる。要は容器のに残ったカラメルを掬い取り、口に運ぶ。
苦い記憶。
やはり、というかやっぱりというべきか、この質問が来ることを要は予測していた。
小学生時代、今ほど声に間延びがなく、はっきりとお腹から声を出していたころ、クラス内でおふざけという布をかぶせた苛めが横行していた。女子界隈の苛めというものは執拗に陰湿で、これまで読んできたどの物語よりフィクションであった。対象は誰でもいい。自称上流階級のお姫様達の娯楽となり、嗜虐心を養い、学校生活における勉強と退屈を塗りつぶす暇つぶしになれば良いのだ。
神様の言う通り。唱えた先に要はいた。
その日から、突如ものがなくなり、書いた覚えのない罵詈雑言が並べられ、薄ら笑いが聞こえるようになった。
神様の言う通りであれば、いささかあきらめもついただろう理不尽。先に限界を迎えたのは岸本火花だった。
「何があったの」と、はっきりとした怒気を含ませた問いかけに、一瞬たじろいだのをよく覚えている。要はすぐに「何でもない」と返したが聞き入れられる訳もなく、次の週には苛めがピタリとやみ、その後何をしたか聞いても「何でもない」と返されるだけ。そして、後にも先にも岸本火花の顔に傷が付いたのも、それっきりだった。
声には現れないが、その裏に隠された真意にひやりとする。誤魔化せないと知りつつも、無謀な投石を試みた。
「何って、何」
「要、私が何年要を見てきたと思ってる?それぐらい、目と口と鼻と耳を見ればわかる」
「そんなに見ないと分からないんだ……」
「基本的に表情筋が括約していないから、他の部分を総合的に判断するしかないんだよ。逆に目と口と鼻と耳を見るだけで読み取れる私の洞察力を褒めてほしいね」
腕を組み、わざとらしく鼻を鳴らし、悪戯な笑みをこぼす。この光景も見慣れたもので、優しく、それでいて懐かしい空間を作り出す。本人は気付いていないだろうが、火花が誰かを慮る時、彼女はおどける。わざとらしく、おどけてみせる。はじめはぎこちなかった。顔を真っ赤にして、五秒と道化を演じていられず、両手で顔を隠し俯いた。はじめは理解できず、小首をかしげることしかできなかった要にもわかる。これは、火花なりの話のとっかかりを作り出す行為、いや好意なのだと。
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