第三話 前編

 生気の抜けた身体、ざらついた糸に縛り付けられだらしなく垂れさがる四肢。脱力しきった身体の自重によって、より一層の束縛が全身を襲う。空っぽなはずのどこに、そんな重さがあるのだろう。

 写し鏡のように精巧な人形。垂れ下がった腕に触れると痛みが走った。マリオネットが要そのものであることを認識する。

(これは、本当に私?)

 かつて、これほどまでに憔悴しきった表情を見たことがあっただろうか。洗面台の鏡の前で、一度でも顔を合わせた事があっただろうが。自分自身に邂逅するなんて、読み手なら喜んで飛びつく伏線である。だがそうはならない。それほどまでに、その邂逅は要にとっての当たり前を崩す衝撃的なものだった。

 子供の頃から感情を外に出すのが苦手だった。楽しい時は口角が上がり、悲しい時には大声で泣き、寂しい時は人肌を求め、怒るときは大声で駄々をこねる。周りの子が当たり前にできることが、要にはできなかった。真似をしたからできるものではく、感情と表情がリンクして、初めて自然な形となる喜怒哀楽。要はそのすべてにおいて不自然だった。当時、日曜朝に妖怪アニメが放送されていたのが原因で「のっぺらぼう」なんてあだ名を付けられた記憶がある。人を殴ったのも、突発的に訪れた爆発的感情も、初めての経験だった。

 このころから要は物事を達観し、自身を俯瞰することが当たり前になっていた。野性的防衛本能か、世の中を生き抜く処世術か、はたまたその両方か。少なくとも、要の生きる半径10kmの世界ではそれが必要不可欠だった。

 だからこそ、目の前にいる光景が理解できない。

 齢十六歳、一度も見たことのない黒崎要がそこにいるのだから。


 全身が重く、痛い。関節が悲鳴をあげ、些細な動きの一つ一つが声にならない激痛へと変貌し、その身を焦がす。べったりと肌に張り付く布の不快感に耐え兼ね、身を焦がす痛みに顔を歪ませつつ上体を起こす。左肘で身体を支え、右手をちゃぶ台に掛けて、無理やり勢いをつける。重い頭がてこの原理によって、そのまま毛布へと一直線に放物線を描いた。くの字のまま突っ伏す。息苦しいくも、心地いい。この具合なら、目を閉じればもうひと眠りつけそうだと、悪魔のささやきを振り払い顔を上げ、周囲を見渡す。

 物音ひとつしない空間には見慣れた漆塗のちゃぶ台と、その奥に棚付き台。上に置かれたクリアファイル程の大きさの液晶テレビが1台。そして、隙間なく並べられた大小様々な本棚の数々。赤、青、黄色、色とりどりに並べられた本の一つ一つが、要という一人の人生を彩ってきた絵の具の一部であった。だがその色も、今は灰色一色にしか映らない。

 ちゃぶ台の上に置かれた電子時計が示す時間、本当なら体力測定の続きを執り行っているその時間に、要は自宅にいた。ちゃぶ台に置かれたスポーツドリンクと、ラップに包まれた2つのおにぎり。筆跡から気品すら感じとれる書置きを目にし、ようやく自分が病欠した事実を把握する。

 今だ視力の衰えない要だが、視界はどこか曖昧で、一点を見つめてピントをそろえるまでに数拍の間がある。

「気持ち悪い……」

 ぐっしょりと濡れた衣服を脱ぐ。袖から手を抜き、襟首を持ち上げて頭を通す。張り付いた衣服に悪戦苦闘を強いられ、その一挙手一投足に悪寒と関節痛と頭痛が入り混じった、およそ考えれる苦痛を一手にマリアージュした、最悪のテイスティングとなって要をもてなした。

 傍に置かれた上下ブルーの中学のジャージに着替え、再び天井を見上げる形になる。

「酷い、夢を見た気がする……」

 あれは果たして夢だったのだろうか。

 おぼろげに、でも正確に、そのひび割れた感情の音を、聞いた。

 耳にこびりつく、嫌な音を、聞いた。

 要から見えるのは後ろ髪と、ほんの少しだけ覗ける木洩れ日。

 小さく軋む音が聞こえた。

 そのさらに向かいに立つ、顔のない人形。会話の内容は聞こえない、というより会話をしているかすら分からない。分かったのは、楽しそうに光を振りまく春の日差しの存在。

 また、小さく軋む音が聞こえた。

 その光は、誰をも明るく照らし出し、魅了するはずのモノだった、はずだった。それなのに、何故だろう。その光が要に向けられなというだけで、光は襲うように要を覆いつくす。

 ガラスが耐え切れずに砕け、夢から堕ちてしまったに違いないと、そう思うのだった。

 どれだけの時間、夢と現実を行き来していたのかわからない。それでも身体は正直に音を上げる。しっとりと水滴の付いたラップに覆われたおにぎりに手を伸ばす。幸い喉に痛みはなく、咀嚼したおにぎりの味を十分に堪能することができた。具は梅と梅。なんとも憔悴した身に沁み入りそうな具材である。百役の長とはこういうものをいうのだろう。

 たっぷりと時間を使い、口の中の米粒と梅肉を咀嚼し、飲み込んでいく。スポーツドリンクとの相性はいまいちだったが、今は塩分がとても美味しく感じる身体なのでさほど気にならなかった。

 餓死する心配がなくなり、睡眠貯蓄が過分に余っている要の脳は昨日の事を思い出そうとする。

(なんで、私はあの時……)

 感情が、揺さぶられたのだろう。

 あの時、膝から崩れ落ちるのを必死にこらえていたのだろう。

 通学路を往復するには短く、往路を歩いただけではお釣りがでそうな、わずかな時間。人生の刹那ともいえる、ほんの一瞬。人生で経験したことのない、要の人生を構成する全細胞が震撼したかのように、この世の条理からかけ離れてしまった出来事に遭遇した。

 要はもう一人の要に語りかける。

『あれはだれだったの?』

 あなたと同じ学校に通う一年生。

『彼女は何をしていたの?』

 来ることのない想い人を待ち続けていた。

『じゃあなんで、なんで接点のないただの一年生に、部活の先輩後輩でも遠い血縁でも前世からの生き別れの姉妹でも何でもない彼女に、私はこうも揺れ動かされているの?』

 ……、……、

 微かに口角が上がるだけであった。

 それが暗に正解を伝えているのか、分からないが故の誤魔化しなのか。

 行儀が悪いと思いつつも、空腹を満たした身体は再び回復に努めようと、眠気のベールが包み込んでいき、抗うことなどできるはずもなく、落ちた。

 深く、落ちませんようにと、微かな願いに縋りつつ、落ちていった。


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