第二話 後編
「だ、大丈夫なら、離れて」
両肩を抱いて腕を目一杯に伸ばす。わずかにできた距離に比例し、心臓の鼓動が緩やかになった。
けれども、いかんせん視線の置き所に正解を見いだせない。
しかし、視界の縁に映る彼女の表情に、先ほどと打って変わった曇りが見て取れて、視線は自然と彼女に向き直った。
「ど、どうしたの?」
「……あの、」
俯いて隠れてしまったが、明らかにその表情には陰りがあると察することができた。
「怒ってます、か? ぶつかったこと」
彼女は人差し指をくるくる合わせ、落ち着きのない様子。視線はうつむきがちに、時折こちらを覗くようにして様子をうかがう。小動物が自分より大きい存在に対して怯えているような構図だ。上目遣いで見つめられることで、要の冷静という氷に再び亀裂が入る。
「べ、別に。これぐらい平気よ」
首をぐるっと横に逸らし、彼女の視線から逃げる。秋の裏側にいるはずなのに、要の表情には紅葉が散っている。
要の言葉を聞き、俯いた表情が屈託のない笑顔にへと変わった。
「ありがとうございます、先輩!」
(眩しい……)
スポットライト何て存在しない。それどころか太陽は雲に身を隠し、あたりはどんよりと重くのしかかるような空模様。にもかかわらず、彼女の周囲は弧を描くようにしてからっと晴びやか。まるで一つの季節を彼女がになっているかのようだった。
当初の目的を果たした要はこのまま席に戻るか、彼女との会話を終らせるべきか思案した。
振り返り、開かれた文庫本の下へ戻るのは簡単だが、目の前の存在に縛られ身動きが取れない。
名残惜しい、なんて初対面の人間に抱く感情ではい。だが、別の言葉でこの状態の説明が付けられない。暴れる胸中を止められず立ち尽くしていると、次幕へと導いたのは彼女の言葉だった。
「そういえば、ここに2年生の先輩が来ていませんでしたか? お団子髪をシュシュで縛っていて、身長は中くらい。あと、ふわふわ~って感で、ほんわか~って空気で、笑顔がとっても優しい人で! あとあと、料理もすっごい上手で……」
最初の特徴以外、おおむね人を特定するには必要のない情報がつらつらと並べられる。情報、というより彼女の個人的感想に近い。後半、「きっと前世はマザーテレサ!」と言い出したあたりで聞くのを止めた。
要は以前クラスメイトがアイドルグループの推しなるもののCDを布教していたのを思い出していた。そして、その熱量の前では言葉の矢じりは意味をなさず、ただただ熱が冷めるのを待つしかないことも経験していた。
彼女の数分に及んで畳みかけられた先輩聖人論を菩薩の心で聞き流し、ようやく要は口を開けた。
「少なくとも私がここに着いてから、他の生徒は来ていない。それより前のことは分からないけど、私のクラスは今日早めにホームルームが終ったから、それ以前に人が来た可能性は低いと思う」
「そうですか……」
「待ち合わせを、していたの?」
「はい。あ、いえ」
YesともNoともいえる答えが返ってくる。
「どっち?」
「私は待ち合わせているつもりというか、一方的に待っているといいますか……」
もじもじと手を所在なさげにいじる姿が愛らしく、いつまでも見ていたい気持ちを押し殺しす。
「つまり、その先輩とは約束はしていない、と。なら来なくてもおかしくないんじゃない?」
「それは……、そうですね」
彼女の顔が感情と共に下を向く。陰る笑顔に動揺する黒崎。しかし、先ほどまでの会話からいくつか気になる点があり、思考がめぐる。
先ほどまでの語りから分かる通り、彼女のマザー先輩に対する好意は伝わる。ただ、一方的に呼び出しているあたり、友達といった関係でない。そして、何より屋上という場所。要件があるのならば教室に出向けばいい。先ほどまでの彼女の一挙手一投足から上級生の教室に立ち寄るのが恥ずかしいなどと、羞恥心をもつタイプではないことも。
「もしかして、告白しようと思って呼び出した、とか?」
「!?!?」
体の伸縮、声にならない奇声、顔の紅葉。言質なんて必要のない状況証拠が揃っていた。両手で顔を覆い隠すが、手までくまなく赤いので全く証拠を隠せていない。
「どどどど、どうしてそれを!」
まさか、探偵さん?と口々にかの有名な探偵の名前を並べたてる。が、出てきた名前はシャーロックホームズ以外、漫画原作の探偵のみ。それを含めても3人しか名前が上がらないところを見るに、推理小説は嗜まないらしい。
普段の要であれば、「もう少し本を読みなさい、素晴らしい本との出会いはそれだけで人生の見え方を変えてくれるもの」と小さなお説教でもぼやいているところだが、そんな余裕は微塵もなかった。
瞳に掛けられた灰色のフィルター、体に重くのしかかる鉛。人間の形をした抜け殻にでもなってしまったかと、要は変化に追いつけず、それでも確認しなければならない事があると、鞄にしまってあった一枚の手紙を取り出した。
「あ、それ」
手にした手紙を指さす彼女。
予想通りの結果に、要の体はまた一段、落ちていった。
そこまで来ると彼女も事態の全容が見えてきたようで、「もしかして……、先輩のところに?」と確認をとる。わずかな力で首を動かし、肯定の趣を伝える。
瞬間、彼女の頬はリンゴのように真っ赤に染まる。灰がかった視界の中で、その表情だけはくっきりと色が伝わるほど、その朱は燃えているようだった。
慌てたように口をわななかせ、はちゃめちゃなジェスチャーを加えて何か言っていたようだが、要の耳に届くことはない。最後の「本当に、すみませんでした!」と、その一言だけははっきりと、鋭利な刃をとなって胸中を切り裂いた。
その後、彼女が逃げるように立ち去る姿をギリギリ目の端で捉え、どうすることもできずに立ち尽くしていた。
どれほどの時間が経過したか、分からない。
体の熱が、段々と失われていくのを感じながら、それが自身の感情が引き起こしたものなのか、降りしきる雨に奪われたものなのか、要にはわからない。だらしなく垂れさがった腕は、鞄を持つことさえ億劫に感じさせる。指先の関節にひっかけるように、少しでも別の衝撃が加わればすり抜けてしまいそうな状態で、何とか持ち上げる。
その日の帰り道の記憶は朧気で、曖昧で、不確かなものだった。一年間通った通学路の感覚だけを頼りに、歩みを進める。
雨に濡れて黒く染まったコンクリートも、砂と混じった桜の花びらも、今は等しく灰色に染まり、ただ流されている以外、分からなかった。雫の一粒一粒が鞭打つように、全身を襲う。ふと立ち止まり、空を見上げて立ち尽くすと、胸中を悟ったかのように、そらは暗く、灰色に染めあげられていた。
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