第二話 前編
ホームルームが終了すると、要は一番に教室を後にした。
誰ともすれ違うことのない廊下はいつもより広く、どこまでも長い。規則を破っている訳でもないのに、どこか後ろ髪を引かれるのに似たものがあった。通り過ぎる教室からは綺麗に整列された生徒と壇上に立つ先生の姿。教室からどことなく視線を感じた気がして、目線を下へと逸らす。三つほどその光景を繰り返し、中央階段を上り、文化祭ぐらいでしか日の目を浴びない、学校の備品がしまわれた無名の教室を抜けると、そこには屋上へとつながる重苦しい鉄扉があった。
経年劣化の末、施錠の役割を果たせなくなった扉を開けると、見慣れた光景が映りこんでくる。飛び降り防止のために設置された背丈よりも一回り大きいフェンス、広い空間にぽつんと並ぶ三人掛けベンチが二つだけ。教室二つ分のスペースしかないこの狭い屋上。広くて狭い、相反する意味を兼ね備える場所。
要はベンチに腰を下ろし、読みかけの文庫本の続きを読み始める。耳に届くは風の音だけ。いつもは降水確率を振り回す鬱屈な空も、今だけは彼女の味方だ。悪戯に吹き抜ける風に時折髪を整え、いつ来るか分からない差出人を待った。
差出人を待つこの時間を読書の余暇時間として消化できるようになったのも、要が初めて告白されてからそう遠い過去ではない。要にも人を傷付けまいとする親切心は人並みに備えており、最初の差出人にはそれなりに気を遣った。しかし、噂がジンクスとなり、それが要自身の耳に届いた後、そんな気遣いをする心など微塵も残っていなかった。
要の手中で繰り広げられる物語は、殺人鬼のトリックが過去の伏線によってネタ明かしされる、いわばクライマックスシーンへと突入し、ページをめくる手が何度も往復する。時折前の章に戻っては、伏線となる会話の一言一句を指先で追っていく。子供心にはやる気持ちが抑えられらない。
そんな時、気持ちの高ぶりを真っ二つに両断する衝撃が轟いた。
金属同士がぶち当たる、そんな衝突音が静寂を押しつぶし、残響が響き渡る。ドラを耳元で直接鳴らされたのではと錯覚するほど、その音は衝撃波となって響きわたり、持っていた本を落とし掛け、慌ててて前かがみになり地面と本の隙間に手を滑り込ませて落下を阻止した。本を確認し、ブックカバーに少し折り目がついた程度で済んだことを確認すると、栞を挟んで原因の発生源に目をやる。
要は感情のままに、苛立ちの含んだ視線を向けようとしていたのだが、その毒気はすぐに全身から抜け出てしまった。
「……」
女の子が一人、倒れている。
状況から察するに扉を開けた張本人だろう。開かれた扉の方角と同じ向きにうつ伏せで倒れいる姿は、さながら豪快なヘッドスライディングを決める野球選手のように、果敢に挑んでいった挑戦者そのものだった。
起き上がるそぶりも一塁コーチが指示を出しに来る気配もない。
手をピンと前にだし、ヘッドスライディング直後の姿勢を崩さず、幾ばくかの時が過ぎた。
少しの緊張と冷静を取り戻した要はその場に文庫本を置き、駆け足程の歩みで彼女のそばに行った。見て見ぬふ振りをし、彼女の羞恥心を嗜虐しない方がよいか、などと錯綜したが、静止画像から一向に再生されない彼女が気がかりでならなかった。
「だ、大丈夫?」
一瞬、問いかけを間違えたかなと、要は逡巡する。既に答えの出ていることを質問しているようで、妙な引っかかりがあった。
疑問符が彼女に対してのもの心配なのか、自分の質問内容に対するものなのか、どちらの意味も含んでいる。
「はっ、先輩!」
意識不明の患者が電気ショックの最大出力を浴びて、跳ねるような勢いで飛び上がる。周囲を見渡し、何かを探すように首を左右に振る。戻り切っていない意識を混濁させるように、何度も、何度も。
「よかった~、まだ来てない……あれ、体中が痛い」
「それはそうでしょう」
彼女の素っ頓狂な発言に、間髪入れず自然と言葉が漏れていた。体のセーフティー機能がまったく機能していない。
「そのままじっとしてて」
ポケットからハンカチを取り出し、口もとについた鮮血を拭き取る。
「うわ、鼻血」
「今頃気づいたの?」
えへへ、と目を伏せて頭を掻いた。
彼女は顎を前に出すように、顔を拭いてもらう姿勢になる。
図々しい、と口には出さず、拭きやすくなった顔から血を拭き取っていく。
(まつ毛長い…、顔小さい…)
赤から白へと染め上げるように、その肌は純白そのものだった。それは神秘的なまでに尊く、触れる事が罪であるかのように錯覚させるほど。横への編み込みに、泡立つような柔らかい栗色の髪。くすぐったいから逃げるように顔を背け、髪が揺れる度、鼻孔をくすぐる白百合の香り。
要の鼓動は激しくなっていた。握られたハンカチが急速に湿りを帯びていく。不自然に込められる力をぶつけないよう、ゆっくり、ゆっくりとなぞるように拭っていった。
「はい、これで大丈夫」
役目を終えると立ち上がり、一歩後ろへ遠ざかる。血の付いた面を内側にして折りたたみ、ポケットに仕舞おうとした。
「あ、ハンカチ洗って返します!」
仕舞おうとするそぶりを見て、それを制止しようと彼女の手が伸びる。しかし、勢いよく起き上がろうとしたためか、その勢いを制御することができず、制止しようと伸びた手は要の腰横を通過し、顔をおなかにうずめるような体勢になってしまった。
要も咄嗟の事で回避行動がとれず、後ろに一歩後ずさるようにしに、突っ張り棒の要領で身体を倒さないように彼女を支える。結果、抱き着くような形に落ち着いた。
二人とも倒れ込まなくてよかったと安心するべきか、落ち着きのない彼女の行動に憤怒すべきか。それらを冷静に考えられない程の鼓動の早さに、どちらの感情も定着できずにいる。彼女の軽すぎる、でも確かに熱を帯びる体温。思わず両腕で抱きしめてしまいたくなる衝動を抑えた。
顔をうずめていた彼女の顔が、見上げるように要へと向けられる。
「えへへ、また助けてもらっちゃいました」
そのつぼみを膨らませ、一杯に咲き誇るようにはじけた笑顔に、視線が釘付けになる。暴力的なまでに破壊力を帯びたそのあどけない視線に、要は体裁など忘れて、視線を背けることができなかった。口が乾くのも気にならない。ただこの一瞬を放したくない、この光景を身体に刻み込んでしまいたい一心で見つめ続ける。
拠り所なく彷徨う手、繰り返される吃音。未完成な雲のパズルを何度も何度も繋ぎ合わせようとし、検討むなしく迷宮入りを果たす。
彼女は、腹部に頭突きを受けたにも関わらず微動だにしない要を不思議そうに見上げている。
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