第80話 懸ける
クレア=ウィンホールド
今でも、あの日のことを思い出す。
寒くて、凍えそうで、自分が今そこに居るという自覚さえ持てなかった。絡まり切った操り人形の糸を手繰るように何もかもが上手くいかなくて、世界から色が消え失せていた。
学園へ行けば引き千切られたような声が私を責めた。
けれどそれは間違っていなかった。
私は人殺しで、追い詰められて弱り切っていた人間へ救いの手を差し伸べるどころか、冷たい切っ先で命を断ったのだから。
自分が最も憎んでいた者たちと同じことを、私はした。
いや、そう思えていたのは最初だけだった。
私は怖くなったんだ。
人から責めを受けること、間違いを犯した私を見られること、起きて、食べて、眠って、当たり前の日常を生きていく何もかもが怖くてたまらなかった。死んでいく人間を見たから、私が殺したから、自分が死ぬのも怖くて、裁きから逃げるのも許せなかったからなんて言い訳をして生きていた。
あの日も私は、日の出もまだな時間に寮を出て、学園へ向かった。
誰も居ない薄暗な学園の門。人目を避けて出入りしていたそこで、とうとう私は立ち止まってしまった。
たった一歩の向こうに行くことがどうしても出来なくなったんだ。
入ればまたあの暴風に晒される。
怖くて、でも怖がる自分が情けなくて、流れ出る涙が嫌で嫌で堪らなくて、目元が赤くなるくらいにこすり続けていた。
すると、門の影からハイリア様が現れたんだ。
そうして彼は言った。自分の名を。
「……………………は?」
「ウィンダーベル。それが私の家名だ」
それとなく妙とは思っていた。
一般学生にしては振る舞いが堂々としていたし、品があった。私に対して極端に緊張する様子もない。けれど、彼が手助けしてくれたことで安心出来たから、そこで私の思考は止まっていた。
ウィンダーベル家の嫡男が学園に通っているという話は父から聞いて知っていたが、人と関わるのを避けていると聞いて私は興味を失っていた。何もしない貴族の辿る道など知れている、そう思っていたから。
「越えてはこれないか、その門を」
言われて分かった。
今日まで彼はずっと私がやってくるのを見ていてくれた。そして今日、自分だけの力では進めなくなったから、顔を見せたのだと。
「…………クレア――」
ハイリア様は何かを言いかけて、けれど一度目と口を閉じた。
沈黙は、ただ恐ろしかった。彼にまで批難の言葉を浴びせられたら、きっと私は正気を保てなかったに違いない。
やがて目が開いた時、そこには私が今まで見たこともない鋭さと、強い輝きを帯びているように思えた。
ハイリア=ロード=ウィンダーベルは、あの時こう言った。
「それが最後の一歩となっても構わない。自分の足で前へ進め。無様でもいい、倒れてしまってもいい。だから進め、この門を越えてきたなら――必ず俺がその手を掴んでみせる」
手は震えていた。
足は鉛みたいに重くて、体の芯がへし折れていた。
背中がみっともなく丸まっているのが自分でも分かって、なのに顔を上げられずにいる。お腹の中がキリキリと締め上げられて、今にも吐き出しそうだった。
なのに心は、どうしようもなく吸い寄せられた。
家名なんて関係なく、今までの何もかもを置き去りに、彼の声に呼び込まれたんだ。
そうして気付いた。
私は、この人の事を――。
足が動いた。
身体が前へ傾ぐ。
まだ倒れるなと必死に自分を支えた。
彼が見ている。じっと、進んでくるのを待っている。
居るんだ……。
たった一人だと思っていた道の先に、彼が居るんだ。
だから、行こう。
そうして、力も無く、何も知らず、何も見えていなかったあの日の私は、最後の一歩を踏んだ。
そこが限界だった。
私は立っていることも出来ずに倒れ、急激に意識を落としていった。最後に聞いた言葉は曖昧で、私の聞き間違いなのかと今でも思う。
ただ、薄暗かった町に光が差し、私はハイリア様に抱かれてようやくの安堵を得たんだ。
まどろみの中、聞いた言葉は……。
※ ※ ※
切り株の上に腰掛けて、熱いため息を地面へ落とした。
草花の間から見える土はまだ湿り気があり、踏めば不意に足が滑ることもある。
「そんなことがあったんですね」
傍らからまあるい声が来た。
栗色髪のくりくりした癖っ毛の少女は、名をクリスティーナと言う。だがハイリア様をはじめ多くの者がくり子くり子と呼んでいて、私はいつからかクリスと愛称で呼ぶようになった。
思えば最初の一年は新設というのもあってあまり上下関係を意識しなかった。している余裕もなかったが、今思えば身分の高い私だからそうしていられたのであって、他の者は別なのかも知れない。
ただ、私にとっては初めての後輩で、最も親しくしているのが彼女なのだろう。
だから、つい弱音を漏らした。
既に指揮官は行方不明。状況を考えれば生きているかどうかさえ……。
先の大攻勢では多くの物資を喪失し、南の港町までの見通しが完全に立たなくなっている。
まだ部隊には有能な人材が多く居る。
けれど武官や文官として有能であることと、多くを指揮できるというのは別の能力だ。大攻勢を凌いだとはいえ、決まりきらない目的地の選出と今後の方針に未だ足を止めている。あの青年の元では調和の取れていた軍議も、先だっては恐ろしく荒れてしまった。
不和も広がりつつある。
投降するという、それまで決して出てこなかった選択肢を口にする者も居た。
徒労に終わった軍議の後、ふらふらと戻ってきた所にクリスを見付け、彼女に誘われるままこうして切り株に座り、ふと漏らした一言から過去を話した。
最後の言葉だけは、自分の記憶も曖昧だったから伏せてあるが。
今、改めて浮かぶ顔がある。
メルトーリカ=イル=トーケンシエル。
ハイリア様が今年になって連れ歩くようになったフーリア人の女性とは、私も多少は関わりを持った。ただ、立場の違いから互いに深入り出来ず、何故彼女がハイリア様の奴隷となったのかという経緯も知らないままだ。
奴隷というものを、彼は遠ざけていると思っていたのに。
新学期当初は、フーリア人奴隷を使い始めたという噂から多くの貴族らがハイリア様に接近した。高い壁を感じていた中、共通点を見つけたと飛び付いたのだろう。
けれど実際には奴隷扱いとは程遠く、まるで彼女の魅力を魅せつけるかのような扱いを彼はしていた。
大貴族としての品格があると言われればそうだろうが、それにしても異様だった。
答えを察したのは、夏季長期休暇での戦いでだ。
フーリア人の為に立ち上がることを決めたその先に何があるか、分かったからこそ私は実家へ戻ることに納得できた。
私たちが犯してきた愚かさを正す為の、最初の一歩を彼は踏みだそうとしている。
この反乱を私たちに託してどこかへ向かったハイリア様の行動を、一部では責める声もある。
けれど、そう……きっとあの人は今も進んでいる。
向かった先に自分を支えてくれる人など誰も居なかったとしても、自分の足で歩いていくのだろう。
だから、このままではいけないんだ。
分かっているのに。
「あれから必死になって腕を磨いた。ハイリア様は、乗り気ではなかったビジットを引っ張り込み、その他にも多くの者を引き込んで新たに小隊を結成し、瞬く間に学園の頂点へ駆け上がったんだ。唖然とする暇もなかった。ビジットの『王冠』さえ一度見せたきりで、残る戦いは殆どハイリア様が単身で決着を付けていたよ。
誰もあの人に追い付けなかった。誰よりも先へ、どんな障害も打ち砕いて進む『騎士』の後ろを、均された道を私たちは進んだ」
追いつきたいと、望む心はある。
それでも怖い。
人を殺めることの恐ろしさが心の奥に刻み込まれている。
誰かの望みを断ち、願いを断ち、希望を踏みにじる行為の重さは、犯した後になってのしかかってくるのだから。
昔は考えもしなかった。
人を殺すという行為についてさえ、駆け抜けた結果として果てるのであれば構わないだろうと安直に考えていた。
それでいいのだろうか。
戦いのある時代に生きている、戦争だからというだけで果たして、殺人という行為は正当化されるべきなんだろうか。
※ ※ ※
ヨハン=クロスハイト
「結局、どんな理由があったって人殺しは人殺しだ。後は周りが納得して、本人が納得するかしかねえ。死んだ人間は何も言わねえ。死んでるんだ。終わっちまった奴がどう思うかなんて想像は自己満足の自慰行為と大差ねえよ。だから見るんだ、自分と、相手と、残された連中を」
真面目過ぎる奴はあーだこーだ考えを回したがるが、最後には同じ所に落ち着くもんだ。
納得出来るか、出来ないか。
させるか、させられないか。
隊長どのは、クレアの殺しに対する批難を自分の活躍で覆い隠した。異様なほどに華々しく、悪意を押しつぶすほどに輝かしく、圧倒的な力を見せつけて周囲を黙らせたんだ。
どの道悪口なんざ言ってて飽きる。
沈黙したクレアより、今も話題を提供し続ける隊長どのの方が自然と口に登りやすくなるのは誰でもわかるこった。まあ、彼女が小隊に参加していることへの陰口はそれなりに続いたがな。
俺が適当に言いたいことを垂れ流していくと、妹さんはあくまで上から目線を崩さないまま人差し指を立ててこちらへ向けた。
自分が喋るから一度黙れということらしい。
ん?となって、なんだなんだと思い、じれて気持ちが十分に妹さんへ集中した頃、ようやく彼女は口を開いだ。
「アナタの物言いは乱暴だけど、それなりに納得出来るわ」
それなりか。
「私風に言うのであれば、決めること、決定すること。それはすなわち信じることへ繋がる」
「信じる? 運命とか、そういうのへの信仰か?」
「なにもかもを含めてよ。決めた自分を信じて、協力者が居るなら信じて託す。信じるというのは都合のいい成功だけを見据えたものじゃない。失敗することさえ含めて信じる。だったら、上手くいかなかった理由を自分じゃない誰かに探すなんて間抜けなことは出来ないでしょう?」
ふぅん。
「なにかしら。思う所があるなら言いなさい」
「やっぱり兄妹なんだなって思ったんだよ」
「あら」
「悪い意味でな」
言うと、あからさまに妹さんが不機嫌になった。
こういう感情を隠さない辺りは、いつも上の立場で居続けた貴族サマらしいもんだ。
「あんたらは貴族だ。そりゃ、俺なんかとは違ってその内でっかい領地でも持って、何万何十万って人間をアゴで使って国やら領地やらを動かすんだろ。妹さんがそうなるかは知らねえがよ」
「それで?」
怖い顔すんなよ。
「妹さんの考えは、下手すっと周りの成否にさえ興味がねえってことに繋がるんだよ。最後は自分が、何もかもを背負ってカタをつける。そんな考えじゃねえのか」
「それは……アナタだって似たようなことを」
「俺は周囲も納得させるって言ったろ。自分勝手ではあるが、成功すりゃ喜ぶし失敗すりゃ怒りもする。その上での納得を探すし、出来なきゃ偶然出来るまで放っておくか、距離を取りゃいい。そうでもなきゃ、ムカつきながら付き合いを続けるさ。続けてれば不意に納得出来ることもある。今回、それとなく関わりを避けてた妹さんと話せたみてえによ」
最後の一言はよほど意外だったらしく、珍しく呆けた顔の妹さんを鑑賞できた。ま、確かに可愛い顔してやがる。生憎年下にゃあ興味ねえけどよ。
少しして、大きくため息をついた妹さんが半眼でこっちを睨んでくる。
「評価を改めるわ。アナタって、乱暴で粗暴で適当で品がないけど、バカがつくほど理想主義者みたいね」
「でもなけりゃ娼婦の息子の分際で、国内外から色んな貴族サマの集まってくる学園に通って、おたくのお兄様についてきたりはしてねえよ」
言っていて思わず笑っちまった。
俺が理想主義者か。正直考えたこともなかったが、もしかしたらそうなのかもしれねえ。だって妹さんが言うんだしな。
「楽しそうに生きてるわね」
「あぁ、実際今だって楽しいね」
「……決めたわ。私だけで行くつもりだったけど、折角だからアナタも――」
「なにせ目の前の美少女が今水色パンツはいてるって思い出し」
そこで俺の意識は途絶えた。
※ ※ ※
クレア=ウィンホールド
私は、人を殺すのが怖い。
戦うだけならいい。死に物狂いで実力を身に付けてからは、試合での経験もあって徐々に自信を付けていけた。
けれど命の取り合いとなったら、きっと私は引いてしまう。
必死になればなるほど、死線を渡るようなギリギリの戦いになればなるほど、踏み込む足は竦んでしまう。
思えば、今年度の頭に行ったジーク=ノートンの率いる小隊との試合でもそうだった。
戦いの中で笑顔を見せるリースを相手に、私は最後の最後で攻めきれなかった。
勝てたかどうかは分からないが、それでも全てを懸けて費やせない自分の未熟さを改めて思い知らされた。
リース=アトラなら、彼女なら死線の先へ笑いながら進んでいけるのだろう。
陶酔するのではなく、忘却するのでもなく、真っ直ぐに死の可能性を見据えた上で、自分の目的と理想を胸に笑える人間だ、彼女は。
真面目で、常識を弁えているように思える彼女がああなっているのには、何かしら理由もあるのだろう。アトラと言えば、あのピエール神父の起こした虐殺に関わったことで没落したと言われる元騎士階級の名だ。
苦労も多かったのだろうと思う。
いや、それを言えば今も隣に居るクリスでさえ、戦争で故郷を追われ、こんな所にまで逃げ延びてきている。
違う。
違う。
そうじゃない。
こんな思考の迷路を続けていて、決断なんて出来るはずがない。
ハイリア様は、私に隊を預けると言った。
だからやるのかという否定を、今は忘れる。
問いかけるべきは己自身。
クリスは、考えこむ私をじっと見つめている。
待っていてくれる。
彼女だけじゃない。他にも多くの仲間が、あるいは先達が、私に時間を与えてくれている。
父は何も言ってこない。
他貴族たちは驚くほど静かだ。
行軍の指示にも従順で、打てば響くように応じてくれる。
この内乱のはじめ、ラインコット男爵は私たちの集まりを見て言った。
たった一人の少年が作った流れに群がる虫たち、と。
そして今や生死不明となった、あの灰色髪の青年は言っていた。
貴族とは、やがて誰もが大なり小なりの指導者となる。その成長には時に、万の血を捧げるに値する、と。
ハイリア様は言っていた。
そしていつか、君がもう一つの旗印となってくれることを、俺は夢見ている、と。
幾つもの言葉が頭の中を駆け巡る。
幾つもの日々が今の私の身を支え、形作っている。
期待は怖くない。
その先にある、殺人という一事が恐ろしい。
戦わずに何もかもが解決出来るのならそれが一番だろう。
だが武器を手に襲い来る者が居て、それが自分とは決して相容れないとすれば、一体どうして抗う手段を捨てられる。
私は死ぬ訳にはいかない。
負ける訳にはいかない。
私は期待を背負っている。
私は命を背負っている。
私の敗北はそれらの喪失を意味する。
たとえこの身が間違いだらけだとしても、背後にある何もかもを敵の矛先に晒す訳にはいかないのだから。
不意に、強い風が背中を打った。
頭に浮かぶ顔を思い、後輩に見られていることを思い出して顔を右手で覆った。
トン、と背中に何かの感触がきた。
「あ、すみませんっ」
少女の声。
リース=アトラのものだった。
手探りで背中のものを手に取ると、見覚えのあるカウボーイハットだった。近くで見るのは初めてだったが、中々に年季が入っている。
「風に持っていかれてしまって……」
「いや、いい」
カウボーイハットを手に立ち上がり、リース=アトラへ差し出す。彼女の手が反対側に触れる。
「そちらの小隊長のものだったな、これは」
「はい。預かり物です。アリエス様の警護をしていたのですが、追い払われてしまって、ほつれを直していた所です」
当然の如くリースは帽子を受け取ろうと摘んだ手を引き、しかし、
「そうか」
渡さない。
え?という呆けた顔。
自分でも少し驚いている。
けれど、これは風の運んできた機会だ。そう思うことにする。
まさか私がこんなことをするとは考えてもいなかったらしいリースの手から、改めて帽子を奪い取る。
一歩の距離を取って、笑い、言う。
「一騎打ちの勝負をしよう、リース=アトラ」
「クレアさん?」
「私が勝てば君たちジーク=ノートンの小隊員は我々の下についてもらう。お前が勝てば、この帽子を返す」
不足ならもっと条件を付け足そう、そう言うつもりだったが、彼女に異論はないらしい。
由来も何も知らないが、この帽子には小隊員の生命にすら匹敵する価値があると彼女は考えている。なにせ今の状況で私たちの下につくとなれば、囮や撒き餌として使われる危険さえあるのだから。
なら、相応に扱わせてもらおう。
「クリス、預かっていてくれ」
「はいっ」
周囲を見渡す。
木々の間は広く、所々に切り株がある。
隙間から差し込む日差しを受けて草花が生い茂り、戦うとなれば思った以上に死角が多いだろう。
木はどれもこれも似たような見た目で見分けがつきにくい。
ここはまだ人も多いが、奥へ進めばそれなりの空間が確保出来るだろう。
魔術の使用は敵に補足される危険もあるが、今は考えない。
必要なんだと仮定する。
この仮定は、私が戦いの先へ進めるかどうかで意味を変える。
どちらにせよ愚かな選択だ。
それでも。
「私と戦ってくれ。訓練ではなく、命を懸けて」
あの日、私が殺めた者も、彼女のように笑って突き進んでくる男だった。
苦しみの果てに狂気を孕んで、戦いを好むように笑っていた。
だから、
「分かりました。その戦い、お受けします」
行こう――!
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