第75話 選択

 掻き消えた『槍』の紋章を前に、俺はただメルトの身を抱え込んだ。

 抗する手段も、避け切るだけの足ももうない。そういう意味では、少なくとも俺は力を失ったことに対してあまり驚いていなかったのかもしれない。冷静に判断し、打てる手を打った。

 しかし、いつまで経っても痛みが来ない。

 神父ほどの腕前なら、痛みも感じさせる殺すことが可能なのかもしれない。馬鹿なこと考え、そもそも奴が俺にそんな慈悲を与える理由もないことに考えが至る。


「天罰です」


 刃のような言葉が降ってきた。

 顔をあげると、今までが嘘のように穏やかな表情を取り戻した神父が、冷ややかな目で俺を見下ろしていた。


「神の与えた特権を、自ら掴んだモノと思い上がった挙句、その慈悲につばを吐いてあのようなことを続けたのです。当然の末路でしょう」


 俺は、魔術が使えなくなった。

 実態がどのようなものであるかは分からないが、当たり前に手を触れていた何かが、遠い何処かへ行ってしまったのを感じる。あの力強くも高貴な『騎士』の力は、もう俺のものではなくなった。

 いや、それを言うなら最初からアレは借り物だった。

 ハイリアという男が掴んだ成果を、間借りしていたに過ぎない。


「貴方は、この先何一つ成せぬまま果てるでしょう」


 魔術の力量がこの世へ与えることの出来る影響力の大きさであるなら、それを失った俺はまさしく神父の言う通り。

 興味を失った、とばかりにピエール神父が切っ先を向けてくる。それは、彼なりの慈悲だったのかもしれない。

 けれど奴の手が俺の首をはねることはなかった。


「だったら、もう殺す必要もないんじゃない?」


 近衛兵団の者たちが守りに入るより早く、背後から声が掛かる。

 昏い女の声。それが誰のものかを悟った時、何故と心に強い衝動を得た。思わず身体に力が入り、そして…………気付いた。

「おや、おかえりなさい」

 柔和な表情を作った神父が呼び掛ける。

「随分と早いお帰りですね。飛び出して行った時は――」

「黙ってて」

 少女がすり抜けるように戦場へ進んでいく。誰もが硬直してそれを見送った。皆、彼女の力を知っている。故に迂闊な動きは取れない。


 フロエ=ノル=アイラは、階段の上で佇むヴィレイ=クレアラインへ呼び掛けた。


「アンタに付く。それでいいでしょ」


 声は固く、刺々しい。

 初めて会った時とはまるで違う、しかしある意味で慣れた雰囲気。


 ヴィレイは周囲を睥睨しながら、少し間を置いて問いかけた。


「ジーク=ノートンは?」

「その辺に捨ててきた」

「彼の身も確保したいと――」

「いいでしょ別に!」


 鏡を割ったような声が場を満たす。


 かろうじて聞こえていたのはそこまで。

 俺はフロエの様子を確認することも出来ずに腕を揺すった。

「……メルト?」

 傷を受けたからだろう、脂汗に張り付いた黒髪が一筋、はらりと落ちる。僅かに開いた唇からは吐息が漏れている筈で、なのに彼女は苦しげな呼吸も、それに耐える様子もまるで見せない。

「メルト……おい……」

 瞳は閉じていた。巫女の力で周囲を知覚するとき、その方が分かりやすいのだと言っていた。それを聞いたのは、たしか訓練場から戻ってきた夜中の、この大広間だった。閉じた瞼の合わさった部分からは、長いまつ毛が美しい孤を描いて伸びている。目まぐるしく変わる戦いの最中で、恐れもあっただろうに、俺を信頼しきった安らかな様子で。

 綺麗な人だった。

 思えば最初に会った時から、俺はメルトのことをそう見ていた。

 そんな彼女が真摯に自分を信じてくれることが、どれほど嬉しくて、支えになっていたか。

 喉の奥で粘着く熱さに耐え切れず、声を荒らげた。


「メルトッ!」


 叫んだ時、周囲の視線がこちらに集まるのを感じた。

 それでようやく、俺は状況を思い出す。


 近衛兵団の者たちは、状況の不利を察して密かに退路を確保しようとしていた。その為の伏兵も当然用意してある。イルベール教団は比較的そのまま。ピエール神父は俺の傍を離れ、大広間の中央へ移動していた。その過程で兵団とのにらみ合いがあったのか、結果としてそこには小さな空白が生まれている。

 ヴィレイは階段の上から、感情の読めない目で俺を見、それと話していただろうフロエが、何故か苦しそうな表情でこちらを見ていた。


 注目されたまま、どうすればいいのかも分からなくて、そのまま楔を打ち込まれたように硬直する。

 腕の中にはただ重みがあるだけだった。

 途方もなく重く、そこに何の変化も感じられない。

 完全な停止だった。


 そう。例えば、ミシェルの時のような変化も、その間際を看取ることも俺は――


「っ……っぁ…………!」

 唐突に響いてきた、頭蓋を割られるような痛みに呻きを漏らす。

 とても耐えられるような痛みではなかった。だというのに、俺は手で頭を抱えることも出来ないまま、必死に目を瞑って痛みが過ぎ去るのを待った。

 目を開けた時、何かの光が消えていくのを見た気がしたが、白濁に染まった視界では色さえも分からなかった。


 荒い呼吸が大広間に響く。

 痛みが過ぎ去って、ふと、周囲に何の変化も起きていない事に気づいた。

 まるで何かを注視し、動けずにいたかのように。


 しかし、そこで血相を変えて迫る者が居た。

 フロエだ。彼女は床を踏み鳴らして俺の前へ立ち、


「っ――!」


 頬を張られた。

 そして、


「しっかりしてっ! アンタそのままじゃ……っ」

 飛び出しかけた言葉を無理やり飲み込んだような声だった。

 そして膝を付き、こちらの目を覗きこんで、言い含めるように音を作る。


「その人を助けたい?」


 言われた意味を悟り、身体が震えた。


「それをさせる訳にはいかない……!」


 言えば、再び頬を張られた。


「気付いてないの? その子――もう死んでる」


 死ん………………………………?


「それでも助けたいなら、私がなんとかする」

「……」

「はは、抜け殻になるくらい大切なら、やってよかったって思えるかも。うん。これならきっと、私は最後まで胸を張っていられる」


 伸ばされる手を、訳もわからず掴んだ。

 歯止めになるものなどなにもなく、ただ湧き上がる言葉を叫ぶ。


「セイラムに心を奪われるぞ! お前が繋がっている先はそこだ! ただ儀式の準備を重ね、『機神』の力を使っているだけなら後戻りも出来る! だがそこまで踏み込めばっ、もう二度と引き返せなくなる! わかっているんだろう! 折角奴が決意したというのに、お前が振り払ってどうする!?」

 しかし、声を荒げる俺に対し、彼女の返答はあっさりとしたものだった。


「うん。だから、きっと助けてね」


 言葉の意味すら理解する間もなく、銀の光に呑み込まれる。

 それは、以前見た輝きよりも更に深く濃い――取り返しの付かない所へ彼女が手を伸ばしたのだと、気付いてしまった。


   ※  ※  ※


 銀の光は、まるで質量を持っているかのように俺の意識を押し流そうとしてきた。

 光の粒子一つ一つが、この世に満ちる因果の線なのだとすれば、ここはおよそ想像しうる全ての可能性を引き寄せられる。


 けれど不意に、光の密度がごっそりと抜け落ちた。


 もしフロエがただの天真爛漫な少女であったのなら、あるいは聖女と呼ばれたあの女が純粋で居られたのなら、希望に満ちた世界が造られたのかもしれない。

 人の想像する限界がそこにある。

 どんなに理想的な結末を手繰り寄せても、それが夢物語だとどこかで感じてしまえば、可能性は夢想へと堕ちる。

 嘗て存在した強固な三つの道も、今となっては遠い彼岸にある。

 信じることが出来れば、どんな幸福だって手に入るのに、押し寄せた事実はあまりにも残酷過ぎた。


 踏み出す、そのたった一事があまりにも難しい。

 最適解を知っているからといって、試験の答案用紙に書くようにはいかなかった。


 彼女は、幸福を恐れている。そう思った。

 あろうことか、苦しめられ続ける今の方がマシだとさえ思っているんだろう。束縛され続け、それに慣れてしまった人にとって、自由は暴力と変わらない。


 気付けば俺は、小高い丘の、緩やかな坂の上に立っていた。


 夜だった。

 銀の輝きはどこかへ消えてしまっていた。

 石畳に覆われた坂道、すぐ後ろにはその終着があった。


 嗚呼、と。


 覚えている。

 ここは、あの時の景色だ。

 彼女と初めて出会い、別れたあの坂道だ。


 眼下に広がるレンガ造りの町並み。

 遠い彼方には山脈があり、街の半ばを川が流れている。山の麓には、デュッセンドルフ魔術学園の敷地、数多くの訓練場が配されている。

 時頃は宵の口。人々が家に帰り、家族と共に食卓を囲み始める頃合いか。

 まだ戦場に呑み込まれる前の、穏やかで居られた場所だった。

 もしかすると、俺自身も。


 だが、足音が聞こえた。

 後ろ。坂を登り終えたすぐ先に、軽い足音がある。


「知ってるんだよね。なにもかも」


 夜空を見上げる少女が呟いた。

 俺はただ、人の生きる街を、じっと見つめていた。


「初めて会った時は分からなかったけど、なんだかおかしいなって思って、二度目で確信した。なんでなのかも分からないけど、あなたは私のことも、ジークのことも、きっと皆のことも知っている」

 知られていたのかという驚きは無かった。

 彼女はあの時無垢を気取っていたけれど、必死に俺の内側を探っていた。持ちうるすべての力を使って。

「なんでかな? 私の繋がる先が、聖女様だったから分かったのかな?」

 後ろ手に組んだ掌が、ぐっと握られる。

「初めて会った時ね、呼ばれた気がしたの。まさか、噴水に頭を突っ込んで溺れかけてる人が居るなんて思わなかったけど。あの日はヴィレイと会う予定だったのに、おかげですっぽかしちゃった」


 風が舞い上がり、彼女の髪を揺らして昇って行った。

 隙間から見える表情に、トクン――と心臓が小さく揺れる。

 吸い込まれるように見入っていたから、夜空を眺める瞳がその実、何も映していないことに気付いた。

 釣られて見上げた先には、ただ真っ暗な夜空がある。


「月は見えないよ。ずっと前から、私の月はどこかに行って、戻ってこない。もしかしたら砕けて消えちゃったのかも」


 本人に想像も出来ない可能性は、この空間では摘み取られる。

 ジーク=ノートンの説得も、想いの発露も、まだ彼女を変えるには至っていない。


「ジークが、好きだった。けど、それも本当はどうなのか分からなくなってきた。私は、霧の中に消えていく自分の居場所を見失わないように、大きな灯台みたいなジークを見つめていただけかもしれない。

 皆が言うような、好きとか嫌いとか、そんな澄んだ気持ちはもうどこにも無いよ。

 だけど、消えたくない。死にたくない。こんな何もかもが分からないようなまま終わっちゃうなんて嫌だよ。

 だから、助けてよ」


 そして気付いた。

 光の中に包まれる直前、彼女が告げた言葉は、希望でも願いでもなく、ただの慰めだったのだと。

 相手が俺だから言える。

 路傍の仏像にでも手を合わせて、願いを口にするような、心の整理に等しい呟きだったのだと。


「……ジーク=ノートンに言ってやらないのか」

 思わず掛けた言葉に、彼女の反応があった。あの日、月のあった場所から目を逸らすように俯いて。

「言わない。言いたくない」

「馬鹿な女だ。甘える相手を間違えるな。男はすぐ勘違いするからな」

「女だってすぐ勘違いするよ。私、聖女みたいに清廉じゃないし、ズルいことの方が頭に浮かぶもん。月が綺麗だ、なんて言った男を利用するくらいの打算もする」

「あれは失言だったな」

 枯れた笑いが聞こえた。

「あはは、大人しく悪女に騙されなさい」

「自分で名乗る馬鹿が居るか」

 対して俺は、苦々しく言い返すしか術を持たなかった。


 そうして、フロエは坂の下を指差した。

「好きなの? あの子」

 その先にメルトが居る。

 フロエと別れた後、俺を探して街中を走り回ってくれていたメルトと会ったんだ。あの時交わした言葉は今でも覚えている。


 もしかすると、あれは何かの分かれ目だったのかもしれない。


 このままフロエを引き止めていれば、可能性の糸は解れ、絡まり合って完全にメルトの死が固定化されてしまう。そうなれば二度と取り返しはつかない。


 けれど俺の目的は、ずっとフロエを救うことにあった筈だ。


 フロエ=ノル=アイラを、あるいはジーク=ノートンを贄に捧げることで世界は救われる。ならば、その両者を救うということは、世界を救う確実な手段を自ら捨て去ることを意味する。

 俺は最初から、二人の内どちらかが背負う苦しみを、他の者も味わえと、傲慢に押し付けるつもりでいたんだ。

 最小限の犠牲で事を終わらせる。それが正しい行いであるなら、俺はこの上ない悪行を重ねている。

 それでも助けたいと思った。

 笑顔が見たかった。あんな、作り慣れた笑顔なんかじゃなくて、心の底から幸福を感じて、笑ってほしかった。その為ならどんなことだってやってみせると、あの月の夜に誓ったんだ。


 だからこそ、どうしようもなく意識が吸い寄せられる。

 彼女と語らう時間なんて、もう二度とないかもしれない。

 けれど、ここに留まればきっとメルトは居なくなる。その事実を思うだけで身体の奥底が震えた。


「考えたことがなかった……。俺にとってメルトは、協力者であり、共犯者であり、従者であり、目標でもあった」

 ふぅん、という頷きの声。

「メイドになりたいの?」

「そんな訳あるか。俺があの服を着た姿が見たいのか」

 場違い過ぎる冗談に苛立ちすら覚えた。

 こちらが真剣に答えているのに、なぜこうもまっすぐに受け止めてもらえないのか。

「……怖いもの見たさで」

 まだ続けるつもりか。

「後悔するぞ」

「けどきっと、皆で笑える気がするよ」


 その時、ふっと、彼女が笑った気がした。


 驚いて表情を伺うと、こちらに背を向けて立つフロエの白髮が小さく揺れていた。

「…………だからと言って着たりはせんぞ」

「固いなぁ」


 小さく吐息を入れて、話を変える。

 会えば、話す義務があると考えていた。行くにせよ、残るにせよ、これだけは伝えないと。

「……言っておくことがある」

「なに」

「ミシェル=トリッティアが死んだ。三本角の仔羊亭の、店主が」

 長い沈黙の後、ため息のような返事がきた。

「うん……そっか」

「すまない。襲撃への備えが甘すぎた。予測出来た筈のことを俺は――」

「アンタは何でも出来るっていうの」

 静かな声だった。

 夜闇に爪をかけ、這いよるような怒りの気配。

 俺は言葉の意味する所に気付かないまま、怒りを受けるのも当然という構えで言葉を重ねた。

「出来ない事ばかりだ……。多くのことを知りながら、正しい答えへ続く道筋すら見極められないでいる」

「だから……!」


 彼女がこちらへ向いた。

 その目には何故か、怒り以外の何かが浮かんでいる。

 呆気に取られていると、フロエは更に表情を険しくして、叫ぶ。

 

「なんでアンタの責任になるの! いろんなことを知ってるから!? それで起きる何もかもの責任が全部アンタに行くっていうの!? ふざけないでっ!」

 そうではない、と言い返そうとした。

 俺は巻き込んだのだ。危険があることも、与えることも承知していた。そして知るからには相応の責任が伴う。それは言い訳のしようもない事実だ。何より俺はあの二人以外で唯一、因縁を知る立場にあった。そうなる可能性を知っていた。

 けれど、

「そんなの……」

 先にフロエの口から声が漏れた。

 疲れたような、重い何かを背負った掠れ声。もしかするとその声は、進む度にすりへっていく音そのものだったのかもしれない。


「まるで一人ぼっちみたいじゃない……世界に一人ぼっちで、他に誰もいないみたい……」


 返答する言葉を俺は作れなかった。

 この、同情とも、慰めとも取り切れない言葉に、それでもという思いはくる。けれど彼女の声に、その痛烈な訴えを前に心が揺れた。

 責任なんて存在しない、などと思うつもりはない。

 その上で、思考を回した。


 俺はこの世界が辿る可能性を知っている。それは明確な像を持ったもので、極めて高度な未来予測と言っていい。

 けれど、それがそのままに再現されたことが、たった一度でもあっただろうか。

 起きた予想外の事に狼狽え、思い通りにならないことを自責とし、それでも望む終着を目指して進んできた。この世界は何一つとして容易くなく、思うがままになんて動かない。

 ジークの決断を聞いた時でさえ、感じていたのは達成の喜びではなかった。当たり前の日常を過ごしていくことも出来た男に、決断させてしまったという形容しがたい息苦しさと、やがてくる一つの結末への痛み。

 自分の事でさえ操れやしない。


 なら、何も変わらないのか。

 結末を知る俺と、ただ今を生きる彼らが、等しくせめぎ合っている事実は。


 そう。

 完成された未来を知っているから、そこへ導く責任を負う、のではなく。

 創りたい未来があるから、そこへ辿り着く道行きでの責任を負う。


 似ているようで立ち位置が全く違う。

 前者は遠い先からたった一人で事物を手繰り、後者は同じ場所にて進む先はあちらだと指をさす。

 いつしか俺は、自分の考え方が変化してしまっていたことに気付いた。

 その形が誰に拠ったものであるかも、同時に。だが、今はいい。


「私は、その子を助けるよ」

 彼女は選択した。

 運命だからではなく、己自身で望んだから。

 諦めの中にあって尚、フロエ=ノル=アイラは選択を続けていた。そういうことを誰もが行っているという事実を、改めて自覚する。


「後悔しないのか……」

「する……するに決まってる。だってそうじゃない! あの人、名前も教えてくれないし、親切みたいでどこか突き放してくるし、なのに一人で居たら必ず手を引いてくれるんだよ! それで顔みたら気不味そうに目逸らすし、自信ないのかと思ったらご飯出す時だけはいつも偉そうで、私よりずっと上手だし…………だから、きっと後悔する。この子じゃなくて、あの人……ミシェル? ミシェルを助けておけばよかったって絶対思う。でもっ、アンタはどうなの!? あの子を死なせて、ミシェルを助けさせれば、なんにも後悔しないの?」

「する。あぁ……どちらを選んでも、永遠に後悔し続ける」

「私が使える奇跡は一度きり。どうするの? 見捨てるの?」


 起きた事象さえも書き換える、この条理を逸した力を使うことの意味を、フロエもよく理解しているだろう。それは、彼女自身を贄とする儀式の下準備。最早人間であることさえ許されず、神の器として引き返せない状態に至ってしまう。

 イルベール教団の主動する儀式は、カラムトラのそれとは真逆の結果を生む。

 すなわち、世界を統べる神の復活。

 何もかもを神へ委ね、人間は手繰られる運命のまま生きる。


 だが、そういう問いかけではないことを、俺もようやく分かった。


 坂の下を見る。

 その先は暗中だ。

 フロエがそうなってしまうのは、もっとずっと先の出来事だと思っていた。時期の大幅なズレがどういうことを齎すのか、本当に分からない。

 まだ、止めさせることは出来るかもしれない。

 今は指先が触れただけ。

 彼女の手を取り、引き寄せれば、最悪の事態を防げるのかもしれない。


 けれど、


 そう。


 けれど、どうしてメルトを見捨てられる。

 あの、尊敬すら出来る彼女を、ここに置いていくのか?

 助けたいと思った人が目の前に居る。なら、メルトはどうなんだ。彼女を見捨てて、俺は先へ進めるのか?


 進める、だろう。

 きっと、そうなれば目的の達成は呪いとなる。

 例えどんな間違いを犯そうと、俺は諦める道を見失う。

 そこまで考えて、そんな道もあったことに気付いた。だが、下らない。呪いでもなんでもなく、諦めるということの毒性を俺は知っている。


 ずっとずっと流されて生きてきた。

 俺の思考はきっと、起きる物事を追いかけることに慣れ切っている。

 他人にはあれほど選択を強いていながら、俺自身はなにもしていない。ゲーム中のイベントを繋ぎ合わせただけの継ぎ接ぎな策略はお粗末極まりなかった。だから呆気無く足元を払われた。

 犠牲は、死の可能性すら知らなかったミシェル、そして戦いに巻き込まれた何もかも。


 フロエの幸福を守るという願いは、既にミシェルの死によって破綻している。日常を支えていた彼女の存在が軽いものである筈がない。

 取り返しの付かないことは、既に起きてしまっている。


 それでも。


「……………………………………………………頼む」


「……うん」


「メルトを助けてくれ」


 縋らずには居られなかった。

 卑怯な、あまりにも卑怯な選択を俺は取った。


「はは」

 だというのに、フロエはあっけらかんと笑う。

 蔑むのでもなく、自嘲するのでもなく、ただ痛快なことが起きたとばかりに喉を小さく震わせた。

 そして、いつもの仮面を被って、楽しげに言う。

「どっちかが死んだら、先に死んだ方がミシェルに謝ること。思いっきり文句言われそうだし、あの人、生きてこそみたいな事よく言ってたから。まあ、私が一番乗りしそうなんだけどさ」

「助ける……必ず、どんな手を使ってでも、俺はお前を助けに行く」

 沈黙があった。

 被った仮面がぽろりと外れて、被り直そうとして失敗した、泣きそうな笑顔がそこにあった。気付いていないのか、彼女はそのまま終わりを告げる。

「…………そろそろかな」

「……そうか」


 踵を返そうとしたとき、引き止める声が掛かる。 

「ねえ、本当に助けにくるの?」

 足を止め、少しばかり痛快な気持ちで言ってやる。

「自分で頼んでおいて聞くことか」

「だって――」

 彼女は坂の下を指差して、言う。

「選んだんじゃない。なのになんで来るの。もう魔術も使えないくせに、何の力も持たないくせに…………二人でひっそりと生きていなよ。そういう結末を作れたんだって、私も少しは報われるから」

「何を言っている、フロエ=ノル=アイラ」


 手を広げた。

 颯爽と前髪も払ってやる。

 この上なく冗談みたいに格好つけて、今ここに宣言する。


「このハイリア=ロード=ウィンダーベルを前に、助けてくれなどと言ったのが運の尽きだ。お前が嫌だ止めてと泣き叫ぼうと、諦めの牢獄がどれほど心地いいものであろうと、残酷なまでに救い出す。そして言うだろう、お前は自由だ、この暴力的なまでの開放感の中で生きていけ、とな」

 今まではずっと一方通行だった。

 望まれてすらいなかった。いや、今だって本心ではその通りだから、まだまだ一方通行なのかもしれないが。

 それでも彼女から助けてと言われて、俺に頷かないなんて選択肢はない。例えここで最良の選択肢を放棄したとして、それは諦めることと同義なのだと、賢しらに言う声を断じて認めない。


「どうして」

 まだ言うか。

 ならばこちらも言うまでだ。


 何もない、真っ暗な夜空を見上げて、それでも言う。


「月が綺麗だからな」

「なにもないじゃない」

「む」

 予想以上にあっさり切り返された。

 だがいい、その対応も今、見事なまでに思いついた。

「見えるさ」

「どうして」


「君がそこに居る。フロエ」


 共に見上げる空が、なぜ醜く見えるというのか。

 傍らに立ち、空を見上げる。

 それだけでいい。それだけで夜空は満天の輝きを得る。


 ほうら、こうして眺めていると、あの辺りに星が見えてくる気がするじゃないか。


「ふふふ、それにメルトが居る」


 駄目だな、よくよく見てみると何もない。気のせいか。


「俺と彼女が望み、共に歩むのであれば、どうして不可能があろうか」

 仮にこの身が嘘偽りで塗り固めたものであろうと、この胸の衝動は本物だ。


 なあハイリア。

 俺たちは孤独なんかじゃない。お前がどれだけそうなろうとしても、追いかけて来る者はきっと大勢居る。いい加減諦めたらどうだ?

 メルトは最初から、奴隷だからと俺の指示に従っていたんじゃない。彼女自身が望んで、同じ道を歩んでくれていたんだ。


 一歩を踏み出せ。

 辿るばかりだった今までから、新しい場所へ。


 この世界の全てと向き合おう。

 誰も想像もしなかった未来を作ろう。


 中々の全能感に浸っていたら、横合いから不意打ちのように冷めた声が来た。

「不誠実」

「ぐはっ!」

「不潔。不純。色魔。貴族ってみんなそうなの」

「な……なにを言う……!」

「いや、分かってるでしょ。私と見る夜空だから月が綺麗だね、とかなんとか言った癖に」


「…………………………………………………………………………嫉妬か?」


 いきなり『機神』の爪先を突き付けられた。

 完全展開はしていないから坂上に立つフロエの姿も見えるが、なぜかその眼光が銀色に見える。


「怒る度に暴力を繰り出す女は、昨今嫌われやすい風潮がある。気を付けたまえ」

「本当に潰していいかな、この男」


 ともあれ、こうして『機神』を間近で見るなどそうある機会じゃない。

 構造は、以前見た時と変わらず機械的だ。翼膜などは最たるもので、どう考えても羽ばたくには向かない、穴だらけの歯車が連なり出来ている。鋼鉄を思わせる装甲が屋根を覆う瓦のように重なり身体を覆っているが、インビジブルの名の通り、不可視の性質を持つ装甲はこの距離でなら内部を見透かすことが出来そうだった。

 何故、『機神』がこのような姿なのか、実のところ謎が多い。

 これがゲームであるなら、ラスボスらしいからの一言で方がつく。特に意味は無いけど機械的だったり、|機械じかけの神様(デウス・エクス・マキナ)なんて言葉が流行ってからはよくよく神的な存在がこう描かれる。

 竜という存在は、十字を戴く宗教による布教の際、北欧に多かった土着神としての蛇を貶める為に生み出されたものだと言われている。そしてその蛇は、神話において人間が禁断の果実を口にする原因となった存在として描かれる。

 どちらにせよ、宗教的な意味合いが絡みやすく、見た目からして威圧感がある。

 ゲームなのだからと、これまでさして気にしてはいなかった。

 しかし、この世界は現実だ。

 少なくともその可能性が高い。

 ならば何故なのか。

 まさか機械文明を持つ宇宙人が大気圏外から俺たちの様子を観察している、なんてB級映画みたいなオチはないだろうが。


 しかし、


「ふむ」


 星、なのだ。


 この世界は、いやこの大地は、俺のよく知る球体状をしている。

 理由は二つ。まず地平線があること。平面世界であるなら世界は遮蔽物の存在しない限り果てまで見通せる。当然大気による減衰もあるだろうが、それでなくとも地平線よりは遠い。

 そして俺が破城槌を高高度に設置した際、そのままで放置していると自然消滅してしまうこと。

 つまり、自転しているんだ。

 その回転に合わせて破城槌を移動させていないと、一歩も動いていないにも関わらず勝手に範囲外へ出て消えてしまう。これを知らない者たちには決してあの技は使えない。世界が常に動いているなど、天動説と地動説とで争い合っているこの世界の人間には、まず理解の及ばないことだ。

 まあ、だからどうしたと言われても仕方のない話だが、少なくともあの破滅的な破壊を齎す攻撃の鍵を知るのは、現状で俺一人ということになる。自爆技とはいえ、教団なんかの狂信的な連中にとってはこの上ない武器になるだろうから。


「はぁ……」


 諦めるようなため息を聞いて、意識を元に戻す。

 フロエはいつの間にか『機神』を霧散させていて、石造りの塀に手を滑らせ、奥へと歩きはじめていた。


「期待してないから、適当に言い訳作って止めればいいよ」

 置き捨ての言葉に対し、もう失意はない。

 身を返し、背後へ声を放る。

「精々言っていろ。嬉しくて涙が出るほどの幸福を、いずれ味あわせてやる」


 彼女は行った。

 俺も、もう振り返りはしなかった。


 行こう――――。




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