第72話 背を向ける

 重い扉が風に吹かれるまま閉じていく。

 完成してからまだ半年と経過していないウィンダーベル家の邸宅。短いと言えば短かったが、重ねた思い出は数多い。


 アリエスは訓練場か、あるいは書斎に篭りがちな俺を外へ引っ張りだそうと、休日にはあれやこれやとわがままを言ってきた。しかし、ひたすら俺にくっついていたかと思えば、自小隊の者達を招いて訓練を積んでいたり、俺を先達としながらも彼女なりによく考えて行動していたのが分かった。昔から知っているだけに、彼女の変化はとても見応えがあったと思う。

 夜遅くまで起きている俺に合わせて、メルトは更に遅くまで起き続けてくれて、多くの世話を掛けた。遅くなるからと使用人の皆に言いつけて休ませた後も、彼女だけは命令を無視して残っていた。いてくれた。そんな行為を、嬉しいと感じていたのも確かだ。きっと、アリエス以上にこの屋敷で一緒に過ごしたのが彼女だろう。

 くり子に部下となれと言ったのも屋敷でのことだ。頭が回るくせに抜けた所のある彼女は、素直な反応が面白くて、やってくるとつい歓迎したくなるし、おちょくりたくもなる。貴族の浪費主義と言われても仕方ないが、驚かせたいとそれだけの理由で遠方から稀少品を取り寄せたこともあった。

 くり子と半ば組む形で、エリックや彼の姉にも用事を頼む事が増えた。初めて会ったあの日から数多くの面倒な仕事を任せ、彼の父親が持つ人脈にも手を付けた。国内以上に、外への影響力を持つのがウィンダーベル家だが、政治的制約を受けない書店の人脈というのは非常に有効活用させてもらった。

 ビジットが屋敷へやってくるのは稀だったが、そういえば一度、小隊の皆を招いてのホームパーティを開いたこともあった。切っ掛けは奴が口説いていた女の機嫌を損ねたことだったが、結果的により多くの小隊員と話す時間が取れた。

 小隊の初期メンバーであるヨハンや四人娘なんかは、個人的に思い入れも深い。他にもクレア嬢を始め、大手小隊からあぶれていた訳アリな連中が俺の小隊には意外なほど多かった。物語では語られることの無かったハイリアのそんな部分に、俺は不器用さと彼の持っていた孤独、そして思いやりを知ったと思う。

 周囲に居る者たちの抱える苦難や苦悩の、全てを解決することは出来ない。けれど共に居る。多くの時間を積み重ねてきた。


 小隊の訓練もよくこちらで行っていた。特に周囲へ秘匿したい内容では。

 俺の提示する訓練内容は、正直言って現代の知識、というより基礎概念が無ければ理解するのも難しかったと思う。筋力の破壊と再生の周期なんかもそうだが、摂取する食べ物には栄養素と呼ばれるものがある、なんて話を理解してもらうのは骨が折れた。肉体もただ鍛え上げれば良い訳ではなく、重要なのはバランスだというのも、やる気が過ぎて暴走する者には理解し難かったことだろう。その上で必要なときには自身を追い込み、精神力を養う。条件付けなどを利用したメンタルコントロールは、あの実戦を迎えるにあたって大きな意味を持ったことだろう。


 流されるままただ身に付けた、誰かを補助し、鍛えていく為の知識。

 かつての俺が足を踏み入れていたトレーナーという職業は、決して自身が主役にはなるようなものではなく、ヒーローと呼べる誰かを支える仕事だった。

 それなりに夢を持って現場へ踏み込めば、機械的に仕事を流していくばかりで、踏み込んだ行為は面倒が増えると止められた。専属契約なんて取れる人間は稀だったし、業務の半分以上はトレーナーの仕事とも呼べないような事務作業ばかり。

 やりたい、という気持ちを言い出せず、言われるままの作業を繰り返してきた日々はもう遠い過去だ。


 この世界に来た。


 あれから、一つの夏を終えるほどの時間が経っていたのに気付く。

 学生、未成熟な人間が成長するには十分な時間だ。部活動なんかでは、より多くの実戦を重ねることで化ける者も出てくる。

 皆、強くなったと思う。

 俺が休んでいる間に行われた他小隊との総合実技訓練では、俺やビジットも無しに完勝したと聞いている。発展した戦術は元より、肉体的に数段上の成長を遂げたことも考えれば、もしかすると他小隊ではもう相手にならないのかもしれない。

 今も皆はラインコット男爵率いる反乱軍を相手に逃げ延びている筈だ。

 クレア嬢が成長すれば、きっと俺が居なくなった小隊を上手く率いてくれる。きっと乗り越えられる。大丈夫だ。そう思う。


 踏み出していく。

 柔らかな絨毯を進めば、靴が硬質な床を踏んだ。走り続けてきた足には、少しばかり辛いものがある。


 扉は閉じた。

 もう、後には引き返せない。


   ※  ※  ※


「お待ちしておりました、ハイリア卿」

「メルトを返してもらおう」

 重ねるように言った言葉を、ヴィレイは嗤って見下ろしてきた。

 屋敷の大広間、階段の先に奴は居る。階段下にはピエール神父が佇んでおり、その姿は石像のように静止している。俯き加減の顔は見えない。


 湧き上がった感情をまず抑えるのに、一呼吸が必要だった。


 中の灯りは、大広間の中央のみを照らしている。

 通路の奥や半開きになった部屋の中までは見えない。十中八九、仲間を潜ませているんだろう。こちらも外には兵を潜ませ準備を進めている。


「彼女は屋敷の奥で休んで貰っていますよ」

「まずは顔を見せろ。でなければ、一切の要求に応じることはない」

「随分と拘りますね、たかがフーリア人に」

「貴様にそれを言われるとはな」


 余裕ぶっていたヴィレイの表情が強張る。


「どうした、ヴィレイ=クレアライン」

 はは、と声が漏れる。

「無事、なんだろうな」


「……」


「もしメルトの身に何かがあれば、どんな手を使ってでも貴様を始末する」


 吐息が聞こえた。

 抑えようとして漏れてしまった、震えた呼吸。


「ハイリア=ロード=ウィンダーベル……えぇ、敢えて貴方をそう呼び続けましょう。貴方は真実、ウィンダーベル家の嫡男であり、後継者として指名を受けていますから」


「下らない話だ。クレアライン家の人間が、態々人質を取ってまで語る事とは思えないな。誰よりも運命に縛られた男が」


 過ぎた言葉に確信を得る。

 ここに来るまで俺は、出来る限りの交渉を行おうと思っていた。けれどどうやら、奴とは語ることすら腹立たしいらしい。

 メルトの事もそうだが、フロエに関する数々の事は、到底笑って許せる類の話じゃない。


 俺はヴィレイ=クレアラインという人間が嫌いだ。

 その背後にどんな理由があろうと、時に道化と化して笑いを誘おうとも、奴のしたことは俺にとって決して犯してはならない一線を超えた行為だった。

 奴に関する斟酌の唯一つとて俺には不快だ。この感情が俺の立場で許されるものとは言わない。けれど目の前に救いたいと思った人を苦しめてきた人間が居る。そんな状況で涼しい顔をしていられるほど、自分の怒りは浅いものではなかったということか。


 ただ今は、メルトの安全を優先する。

 その為だけに狂おしい程の怒りを抑えた。


「もう一度言うぞ、メルトを返してもらおう」

「怖い怖い……そんな様子では、貴方が彼女に懸想しているのかと勘ぐりたくなりますね。階級制度を肯定する筈のウィンダーベル家の嫡男が、フーリア人と――」


 床が砕けた。

 手にはずしりと重いハルバードの感触。穂先は抉れた石床へ沈んでいる。


「ヴィレイ」


 呼び掛けはただのポーズ。間を取らせる布石だ。

 場が冷静さを取り戻すより早く、俺は更に次の手を打った。

 青の魔術光が舞い上がり、そのまま空へと登っていく。何をしたかはヴィレイにも分かった筈だ。最早俺の代名詞ともなっている天空からの一撃、高高度への破城槌の設置は完了した。降下させれば、この一帯を確実に破壊し尽くす最強の暴力となる。


「三度は言わない。俺に対し何らかの交渉を行いたいのであれば、その二枚舌を歯の奥へ仕舞いこんでからするんだな」


 彼らにとって最も誤算だったのが、コレに対する鍛錬を俺が欠かしていなかったことだろう。そもそも自爆を前提とするコレは扱いが難しい。あれから一度も実戦で使っていないことからも、欠陥技としての評価を奴らに与えていただろう。

 だが技術というのは日進月歩。第一として、ある程度の慣れやコツさえ分かれば上方への範囲拡大は難しくない。使い手が増えれば増えるほどに情報は増え、改良はやりやすい。

 設置速度は元より、かかる負荷への慣れや低減も今ではかなり進んでいる。直撃時のダメージばかりはどうにもならないがな。

 大方派手なものだから、俺が予め用意してきてもすぐ分かると踏んでいたんだろう。


 いかに神父が優れた剣技を振るおうと、俺は首を跳ねられない限りアレを叩きつける。そうするだろうと思わせるだけの印象は以前の戦いで植え付けている筈だ。

 相手は蛇。繰り言は及ばずとも、暴力による主導権は譲らない。


 俺の様子を見て、ヴィレイが教団員へ合図を送った。しばらくして、メイド服姿のメルトが奥の通路から現れる。手や足に拘束はなく、背後から数人の教団員に剣を突きつけられているだけのようだった。


 緊張は解かなかったが、それでも無事そうな姿に安心した。

 外傷らしい外傷もない。どうして、という顔はあっても、暴行を加えられた様子でもない。そればかりは確認も難しいが。


「お望み通り連れてきました。その物騒なものを仕舞っていただけませんか」


 譲歩したのだから、それに応じろということらしい。少し考えて、俺は手にしていたハルバードを打ち消す。


「……」

「……」


 指定しなかった奴が悪い。

 挑発的ではあるが、交渉事には付き物の揚げ足取りを考慮しなかった以上、口を出してくるのは己の無能を更に周囲へ晒すだけだ。そもそも奴は差別主義者で、同士とはいえ下の人間にそんな様を見せるのは屈辱と感じるだろう。


「それでは――」

「こちらの指示に従ってもらおう、ヴィレイ=クレアライン」


 言えば、ヤツの視線がメルトへ向いて、その背に剣が突きつけられる。


 シン――と静まり返った大広間で、こめかみに冷や汗を感じながら、俺は高慢な態度を崩さず続けた。


「状況が理解出来ていないようだな。俺は今、この屋敷ごと吹き飛ばす用意を終えた。実行すれば何人が生き残れる? 俺は一度生還しているが、他の者はどうだろうな」


 考え方が甘い。

 いや、そもそもそういった思考が無いのだろう。

 この世界にあるのは、個人レベルでの殺傷・破壊に関する技術ばかりだ。戦術核のような、大規模破壊兵器を背景にした交渉を経験したことなどないだろう。精々が大軍を用いての脅しや、火付けの類か。

 そしてソレに匹敵する破壊を個人が所有するなんて考えは、全くの埒外にある。


 奴らはもっと慌てなければならなかった。

 破城槌の降下が起こす破壊の程も、その強力さも理解していながら、俺の行動が持つ政治的価値には思考が及ばなかった。

 俺は今ここに、戦術核を持ち込んだに等しい。総合実技訓練の時のように、多数の『盾』やビジットの『王冠』には守られていない状態で降下させれば、どれほどの破壊を撒き散らすか。

 メルトを見せたことへの対応もそういう意味では等価の行動だ。手に武装を持たない以上、その場での対処は一呼吸遅れる。対価としては十分だろう。


「俺は今、この場に居る全員の生殺与奪権を握っている。だがヴィレイ、お前が握っているのは彼女の命のみ。まともな交渉が通じると思うか」

「試してみましょうか……?」

 ヴィレイの手がメルトへ伸びる。

 俺は言った。


「いいのか、ジャック=ピエール」


 その手が止まる。

 交渉すべき相手は、連中の主導権を本当に握っているのは、ヴィレイ=クレアラインではない。


 ずっと俯いていた痩身の老爺が顔を上げる。

 いつか見た人好きのするやわらかな笑みで、彼はこちらを見た。ただし、瞳の奥には怖気がするほどの底光りがある。


「お前は奴の見届け人であり、監視者だろう。この場で野垂れ死ぬような運命を、そんな危険を認めるのか?」


 ヴィレイには、神の定めた運命がある。

 少なくとも教団はそう語り、奴の父はそれを果たさせる為にどのような手も打ってくる。義務を果たしている限り行動の制約はない。だが、万が一にでも運命を果たすこと無く死ぬようなことがあってはならないから、ピエール神父という最高の守りが付けられた。

 彼が凶刃の持ち主であることも確かだが、やはり教団が持ちうる最高の武力であり、政治力だ。ヴィレイの祖父と神父とが古い友人であることも理由の一つだろう。


 じっと、反応を待った。

 ヴィレイを見ることはしない。奴が逆上したとしても、神父ならば即座に止められるだろう。


 ミシェル=トリッティアを殺した男の笑顔を向き合うこと数秒、その張り付いた表情が溶けた。


「……度し難い」


 声は、地の奥底から響いてくるようなものだった。


「返しておやりなさい、坊っちゃん」

 坊っちゃん、と。そう、神父はヴィレイを呼ぶ。

「この行動には神父、貴方も賛同した筈です」

「返しなさいと、私は言いました」

 神父の声はそれ以上の有無を言わせなかった。ヴィレイが歯噛みし、憎々しげにこちらを睨んだ後、メルトを開放する。元々拘束もされていなかった彼女が階段を降りてくる。


 一つ、二つ。


「何故でしょうか。我らが神は、聖女は、世を満たすほどの愛で我々を祝福しているというのに、何故……それを拒む者が居るのか」


 三つ、四つ。

 階段を踏む足音が大広間へ響く。小気味良い、あまり聞くことの出来ないメルトの走る音。

 五つ、六つ、七つ。


「神の愛を証明する為にこそ人々は名乗りを上げる。それはいい。しかし歩み始めた者は時に、自我の増大に酔い、愚かな行動を取る」


 十二で階段を蹴った。

 あれで運動神経の良いメルトだから、長いスカートを物ともせず地面を踏み、危なげなく次の一歩を踏み出した。


「…………………………彼女は間違っていなかったのかもしれない。そう――」


 炎が燃え上がる。

 手には小太刀。


 青い風が舞った。しかし初動が遅い。

 『騎士』の力に猛烈な違和感を覚える。


 構うかッ!


 何もかもを放り捨てて、ただ前へ走る。


「っ、メ――」

「この世に英雄などいらない。その全てを狩り尽くせば、あるいは」


 気付いたメルトの身体が傾ぐ。


「ハイリア様。あの時貴方に感じた脅威が、私に問い掛けを残して下さった。そして彼女を討ち、今……私の中に新しい信仰が生まれようとしているのかもしれません」


 上体を大きく振ったメルトへ手を伸ばす。身を捻った彼女の眼が俺を見た。手が届く。指先が触れ合い――


「まずは、知らしめましょう。神の愛に背くことの意味を」


 メルトの身体の内側から、刃が生えてきた。そして、火の粉と消える。


――鈍痛がする。


 倒れていく身体を抱き抱え、ただ走り抜けた。

 階段を蹴り、身を返し、そこで支えきれず転倒する。


「メルトッ!」


 背を斬られていた。

 立ち上がろうとすると激痛が走る。みっともない格好のまま、腕の中にいるメルトへ必死に呼び掛けた。


「俺の声が聞えるか! 返事をしろメルト!」

「……っ、ぁ……はい…………」

 恐ろしくか細い声だった。腕の中から熱が消えていく。つい数時間前に感じた恐怖が蘇り、それだけでもう、どうにかなりそうだった。


――鈍痛がする。


「止血は分かるな。しっかりと抑えていろ。呼吸を一定に、息が出来なくなったら俺の肩を叩け」

 返事をするのも辛いのか、コクリと頷く。俺が抱く手で背の傷を抑えると、彼女は右手で腹部を抑えた。まだそれだけの力は残っている。

 辛いとは思う。だが、この場を切り抜けるにはそれしか――


 残る右手が俺の胸元を掴んだ。

「……メルト?」

 頷きが来る。

 震える瞼の向こう、夜色の瞳が俺を見ていた。


「頼む」


 それ以上の問答は必要なかった。


 白の魔術光が広がる。

 より原初の魔術に当たる巫女の力に、俺達のような紋章は浮かび上がらない。ただ水のように足元へ広がり、そこから天地が逆転したかのように、幾条もの光の筋が空へ登っていく。


 教団の者たちが、ヴィレイや神父が揃って驚愕するのが見えた。


 用意していた策はまだ使えない。

 ならばそれまで、どんな手を使ってでも生き残る。逃げられるならそれが一番だったが、いつの間にか出口は教団員に塞がれている。


 灰色の魔術光が、霧となって周囲へ広がっていく。

 眼前に浮かび上がるのは『盾』の紋章。

 鈍色の壁の向こう、咆哮にも似た神父の叫びが聞こえた。


「そうまでして、神の愛を否定するのかッ!」


 右腕は使えない。

 それはもっと大切な役割を得たから。


「行くぞ、メルト」


 返事の代わりに、胸元の皺がくしゃ、と寄り集まる。

 熱が篭った。


 戦いが始まる。




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