第71話 現場検証

 人が死んでいく、その驚くほど静かな変化を腕の中で感じた。

 血の巡りが止まり、肌に感じる熱の動きが消えていく。肉がゆっくりと硬化を始め、不意に腕の中の重みが消えたように感じた。追いすがるようにして力の篭ってしまった指が、彼女の腕にほんの僅かな陥没を残す。恐ろしいほどの罪悪感に動かされるまま陥没へ触れると、いつの間にか肌は冷たくなっていた。


「っ……」


――――頭の中で鈍痛がする。


 心は動揺で埋め尽くされていた。

 身体が上手く動かない。なのに思考だけは冷たく進んでいった。それが彼女の死を作り話のように捉えているだけなのではと思えて、胸の奥が焼け焦げていく。


 ミシェル=トリッティアは死んだ。


 決して死なぬ筈の、いつでもジークたちをギリギリの所で支えてくれていた彼女が、あり得ざる死を迎えた。

 人は死ぬ。当たり前の事だ。こんな戦いばかりな世界じゃふとした瞬間にこういうことが起きる。平和な、俺がかつて居た世界とは違うんだから。そして俺が今まさに戦いを巻き起こしている張本人だ。


 彼女は笑って死んだ。

 口元には今も否定のしようがないほど確かな笑みが浮かんでいて、もう何者も映さない目は遠く空を見上げていた。


 目に手を置こうとして、少し躊躇う。

 その行為はある意味で、彼女の生を完結させるものなんだと思えたからだ。けれどそっと瞼に触れ、目を閉じさせた。そうして、右手を強く握りこむ。


 喉元が熱く滾っているのに気付いた。

 開放すればきっと、恥も外聞もなく叫び続けてしまう自分を感じる。後悔も、悲しみも、罪悪感も、言葉にならないありとあらゆるものが、無形の叫びを以って外へ飛び出そうとしている。

 けれど、目を閉じた。

 口を噤んで、幾つもの物語を思い浮かべようとする。


 世界には数え切れない物語が存在する。実話だけじゃない、創作によって生まれた物語にも、人の死を描いたものは山とある。その解答もまた、同時に。

 ああすればいい、こうすればいい。無数の作家たちが示した進むべき道は頭の中に山とある。

 文字で読むだけの想像と、身を持って体験することが同一でないことなんてもう何度も味わった。けれど、目指す先は確かにその通りだと思える言葉があった。

 だというのに何も浮かんでこない。

 ただ震える喉を抑えつけ、深い呼吸を繰り返している。


 目を開けば、安らかな死に顔がそこにあり、耳の奥で彼女の声が響いた。


 咄嗟に顔を抑える。

 強く息を吸い、呼吸を止めて歯を食いしばった。

 掌に触れる僅かな湿りを、胸の熱さを、自然に消えていくのを待ったりはしなかった。


 意識を切り替えていく。

 戦いの前にそうしているように、ただ鋭く、荒々しく、暴力に陶酔する。そして、どこまでも醒める。繰り返し、ただ繰り返して崩れ落ちそうな自分を支えた。


 そうして、知らず意志が浮かび上がってきた。


 彼女は死んだ。

 この後悔は、罪の意識は、生涯消えることはないだろう。

 その背後にある底知れない不安をも、今は思考の彼方へ押しやっていく。

 そして俺は更なる罪を重ねる。起きた後悔を踏みつけにして、これ以上の後悔を得ない為に、やれることは全てやる。


 ふと顔を上げれば、遅れてやってきた兵の一人が店の中を覗きこんでいる。

 泥に汚れた足が店先へ踏み入れそうなのを見て、俺はとっさに叫んだ。


「入るな!」


 俺は余程強く言ったのだろう。驚いた兵がすごすごと引き下がっていき、肩をすくめた。


 ヴィレイからの手紙を受け取った俺は、マグナスから十数名の部下を借りてここへ来た。本隊は既にこの町に駐留する反乱軍本営へ王手を掛けており、間もなく制圧が完了するだろう。

 それと同時に町を包囲し始めているが、地下通路のことも考えるとやや不安が残る。


 ヴィレイの身柄を確保することは、国内に未だ潜り込んでいる教団の動きを牽制するのに効果的だ。狂信的な信者である奴の父親は、その生に課せられた運命を果たすまで決して死を許さないだろう。


 待機していた兵へ呼び掛ける。


「灯りをくれ」


 言うと、赤い髪の青年が指示を出して持ってこさせた。松明に照らされたミシェルの遺体を観察する。

 服をめくり上げると、流石に批難するような声が出る。が、何をしようとしているか気付いた者が、それを抑えてくれた。多くの者が目を晒すのを待って、また右手を動かし始める。


 外傷は一つ。胸部肋骨の間へ差し入れられ、背中へと突き抜ける一撃だ。出血しているのはそこだけで、腕や肌へ目に見える傷はない。

 服を戻し、戦いの中で乱れていた裾も一緒に整えた。それだけで手には血がこびりつき、鮮烈な赤色に頭の奥底が鈍い痛みを発してくる。


 突き、だな……。


 そして、突きを受けた後に抵抗した様子がない。

 抵抗したのなら、傷口はもっと開いていなければおかしい。動き回る戦いの最中に受けたとするなら、更に妙だ。

 本能的に身体を硬直させ、それ以上の傷を受けないようにという反応があるのは分かるが、彼女を相手に全くのブレも無く正確に心臓を刺し貫き、その後に抵抗をさせないとすれば。


「彼女を頼む」


 思索を巡らせながらミシェルの身を預けると、俺は借りた松明を手に店内へ踏み込んだ。靴は店先で脱ぎ、上着も兵の一人へ渡して極力別の汚れを持ち込まない。

 よくよく周囲を観察しながら何もない床を踏んでいく。


 撒き散らされた食器の数々と、壁やそこらに突き刺さった数本のナイフ。それも武器の類ではなく、あくまで食器だ。そして床の泥。


 屈み込み、その縁を指でなぞる。


 情報だ。

 これは彼女の死に繋がる、この上ない戦いの痕跡。


 悔やむなら、まだ続けるのなら、決して軽んじてはいけない。


 ミシェル=トリッティアという女の、死に至る道筋を読み取れ。

 相手の特徴は?

 どのようにして彼女をおいつめた?

 一矢報いているのか? それとも何も出来ないまま終わったのか?

 何気ない一つの情報も、これから対峙する可能性を思えば値千金となるかもしれない。だから、それが死者への冒涜であろうと行わなければならない。


――――鈍痛がする。


 しばらく前から続いている頭痛が時折強く頭を揺らしてくる。

 フロエから受けた負傷は大きい。外傷や骨折の類でないだけマシだが、どうしても思考が乱れる。


「くそ……っ」


 続けろ。集中を。情報をかき集めろ。

 知らぬのなら仕方ないだろう。けれど俺は、情報というものの大切さを知っている。それはやがて、戦争というものの構造を塗り替える重要な要素だ。

 足あとの主はそれを知らないから、こんなにも貴重な痕跡を残したままにしていった。


 立ち上がり、床に残る泥の後を追っていく。

 その中の一つ、壁際の足あとを辿り、足先にある壁の傷を見る。

 ややズレた位置で足の位置を重ね、ゆっくりを腕を振るう。イメージに焼き付けた切っ先を残したまま傷を観察すると、上から下へ、斜めに刻まれたものだと分かる。更に言えば、傷そのものはとても綺麗だ。

 そして、踏み込んだ位置から距離が微妙だった。

 明らかに『槍』や『弓』では付かないだろう傷が、かなりの高い位置から付けられている。その距離が普通の剣の間合いにしては短く、しかし短剣の類にしては長い。更に言えば、仮に両者の中間となる武器であっても、やはり間合いはイメージ以上に広い。


 腕が長い。そして何より身長が。

 体捌きやちょっとした技次第で間合いを深くする手段はあるだろうが、おそらくはそれだろう。何より足あとは決着をつけようとする鋭さとは無縁の、ゆるやかな踏み込みによって付けられたものだ。

 この太刀筋には見覚えがあった。

 傷も通常の西洋剣ではない。とても薄く、鋭い。ささくれ一つ無いというのも、使い手の腕を思わせた。

 思い浮かぶのは一人だ。


「やはりお前か……ジャック=ブラッディ=ピエール」


 襲撃者の名は俺が受け取った手紙からも想像は容易かった。

 先入観があっただけに、そうだと考えようとしている感は否めないが、ミシェルとの因縁もある。おそらく間違いないだろう。


 右腕をヨハンに切り落とされた神父は、受けた焙烙火矢の傷も考えればまだまだ動ける状態じゃない筈だ。腕事態は魔術の剣によって受けた傷だから、破傷風の危険性は低いとはいえ、ガラス片や鉄の礫など、数十の傷を右半身に受けている。

 あのまま脱落してもおかしくない負傷だった。

 けれど、現れた。

 彼女自身、全盛期には遠く及ばないとはいえ、それと正面から戦って勝利するほどの状態を保持している。


 狂信者が……っ。


 罵倒する気持ちを抑えきれず、衝動のまま近くの机を殴りつけたくなった。けれど、殴ろうとした先、机の縁に泥が付いているのを見付けて思い留まる。


 泥だ。

 状態からみて、ここに足を掛けたという感じではなく、例えるなら泥のついた布ごと触れ、ただ離したような。そういう、付着の痕跡。

 握った手を解き、その手で床に残る足あとを撫でる。

「ん……?」

 ふと違和感を覚えて、視線を巡らせる。

 幾つもの足あとがある。どれもこれもが綺麗に残っている訳ではなかったが、メルトが掃除をしていた上、それ以降に客は来ていない。だから残っている足あとは自然と神父のものか、それを踏んだミシェルのものとなる。

 二人の足の大きさは違うからすぐ見分けが付く。


 そして、


「どれも右足だ」


 全てではないものの、神父が右足を踏んだ後、床を確認するように踏みしめている痕跡があった。故に足あとは綺麗に靴底を残さず、先端と踵の部分が少しだけ広がっている。

 そして動きを取る際、左足を出している事が多く、右足を使う場合の歩幅は狭い。

 最も大きな違いは、左足は地面を蹴った痕跡が残っているものの、右足は例の特徴も含めて、とても綺麗に足あとが残っている。咄嗟に思いつく。これは、足を抜いて動いているからだ。

 負担の掛かりにくい、確実な歩法……?


 しかし考えてみれば当然だった。

 神父に右腕はなく、左腕のみで戦っているのだから。

 そんな状態で右足を踏み込めば防ぐもののない右半身を晒すことになり、後ろになった左手からの攻撃は一歩遅れる。普通に考えるのであれば、フェンシングに見るような縦の構えが最も現実的だ。

 それでも、右足の踏み締めるような痕跡は妙だ。

 そんな確認が出来る余裕を持てたということなのか、もしくはそれが出来る立ち回りをしていたのか、あるいは別の理由で必要だったのか。


 神父は右半身に幾つもの破片や礫を受けた。

 人体が完治するだけの時間が経っていないのは、あの時俺が受けた傷もそう呼べる状態にないことから確実だ。ましてやこの世界には稀な銃創の類、手術も容易ではないだろう。

 ならば、神父の右半身は麻痺状態に近いとも考えられる。

 彼女が気付いたのかどうかは分からない。少なくとも二人が切り結んだと思える場所には、神父の右半身を狙う位置関係の足あとが残されてはいる。しかしそれも、武器を持たない側を狙ったとも思えるし、気付いた結果とも思えた。


 それでも、ピエール神父にかつてのような立ち回りが難しいのでは、という疑問は追求するに値する。

 右足のことなど、冷静に観察できる今で無ければ気付けもしなかっただろう。戦いの最中となれば奴の自在とも言える剣閃を相手にするので精一杯だ。


 不安が残るとすれば、抵抗も許さなかったトドメの突き。


 二刀の極み、という言葉は、そういえばという程度の記憶に残っている。あくまで昔、ピエール神父の暗殺に失敗し、彼から暗殺稼業を辞めるよう説得されていたミシェルとが至った剣術思想の一つだ。

 具体的なものは何一つ示されておらず、ジークの『銃剣』によって放たれる幻影緋弾の背景として語られた程度の事。扱いとしてはそういうものがあったらしいという、巫女と同じ扱いのものだった。

 しかし、一つの剣術が到達すべきと定めた境地となれば、理屈で解き明かすのは不可能に近い。そんなものは感性の世界で、ピカソの画風を解説するようなものだ。なんとか理屈をこじつけられても、新作の筆致を予測することは出来ない。

 せめて起点となる一動作でもあるなら、そこに気を張っていれば対処が可能となるだろうが、考案者があの二人では、そんな分かりやすい必殺の構えなんて鼻で笑われるに違いない。

 なにせ一人は暗殺者だ。殺しますよという型を好むとは思えない。


 ジークの緋弾も、所詮は魔術的にそれを行っているだけで、術技の結果とは言い難い。ゲームの中でも消える斬撃なんてものをやってみせた場面はない。

 それは、ピエール神父も同様だった。


 彼が死を迎えるのは、奴隷狩りの調査で町に立ち寄っていた所をミシェルの目に留まり暗殺されるリースルートか、様々な困難を経て成長したジークとリースの二人によって敗れるフロエルート。

 そして傷を負ったなんてことはどのルートにもなかった。

 傷を負ったことが、彼に予想外の変化を与えた?


 情報を取り纏める。


 ミシェルを殺したのは、ピエール神父である可能性が高い。

 その神父は、右足及び右半身に何らかの不調を抱えていると考えられる。斬り合いの最中に壁面を斬るという、ありえない失態を犯していることも理由の一つだ。更には机にぶつかったと見られる痕跡まである。

 一方で、彼の剣技は極限の域に達していると考えられる。特に、突きの構えには注意を払っておく。


 すなわち取るべき戦術は、徹底したミドルレンジ。距離を取り過ぎてはいけない。構造的な問題があるならともかく、その気になれば負傷程度は無視出来る。近中距離の細かい移動を繰り返し、綻びを狙う。

 彼の武器が小太刀で、俺の武器が槍という利点を徹底的に活かすべきだ。

 姑息でいい。正統な勝利なんて望まない。


 どれもこれも憶測だった。

 元の知識が無ければ到底辿り着けなかった部分は山とある。思い込みによる一足飛びが無いとは言い切れない。


 それでも、今出来る限界まで……。


「メルト……」


 雨の夜に感じた、彼女の優しさを覚えている。

 溺れそうになってふと見てみれば、強い意志を感じる目があった。


 そんな人が俺を主人と仰いでくれる。


 分不相応だという思いが強い。

 彼女はとてつもない努力を重ね、たった一月の間にウィンダーベル家の認める淑女としての作法を身に付けた。立場の弱さからくる逆境の中で少しづつ周りの信頼を獲得し、夏季長期休暇以降は囲ったフーリア人らのケアにも奔走している。

 その上で俺の世話やアリエスの相手もし、屋敷の煩雑な仕事もこなしていた。

 だというのに、彼女が疲れてため息をついている所など見たことがない。休ませたくてあれやこれやと理由を作るも、中々に休暇を受け取ってくれない。

 そして俺が目覚めた朝、昼食後の一時、様々な用事を終えて共に戻ってきた屋敷の自室で、彼女は…………そう、張っていた気を緩めてくれる、柔らかな一時を過ごさせてくれる。


 対して俺は、いつだって転げ落ちそうになる足取りで進んでいる。完璧なんてものには程遠く、狼狽えそうになるのを必至に抑えつけているだけだ。


 けれど、彼女が居た。

 あんなにも素晴らしい人の主人が、ただの無能者でいい筈がない。

 彼女が尽くすに値する者になろうと、何度も奮い立たせてきた。


 失いたくない。

 ミシェルの死を経験して、その思いは強くなった。


 空を仰ぐ。

 良い月だと彼女は言っていた。

 確かにそうだ。目が焼かれそうなほど美しい……。


 それから俺は、近くに住んでいる店員の家へ人をやって、後の始末を任せた。必要なだけの資金として部屋に残っていた金を渡し、泣き崩れる女をなだめた。

 周囲の捜索でも、やはりメルトの所在は確認できない。

 ミシェルが連れて行かれたと言った以上、その場面を見たのだろう。


 月の下、店の外へ出した椅子に腰掛けたまま、受け取った手紙を広げる。


 内容はありきたりだ。

 メルトの身は預かった。返して欲しくば以下の所まで、明け方までに来られたし。そんなことが慇懃無礼に、礼式に則った美辞麗句で書かれている。

 場所はウィンダーベル邸。この町で俺が過ごしてきた家だ。無人になっている所をまんまと奪われた形になる。漏れて困る情報の全ては別に移しているが、あまり気分の良いことじゃない。


 ……落ち着こう。


 明け方までは時間がある。

 身体を休め、戦いに備えるべきだ。


――――鈍痛がする。


 椅子に腰掛けたまま、俺はほんの少し、目を瞑った。




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