第68話 決断
「この世界にはね、皆の幸福を望んで、けれどどうにもならない事を悟り、全てを思うままに操ろうとした人が居たんだ」
揺れる船室の中、ヒース=ノートンはそう言った。
蜂蜜色の髪も、蝋燭の薄い明かりの中では更に白み掛かって見える。彼はそれをくしゃ、と無造作に掻き上げて吐息を漏らした。
床に固定された机の上には、白と黒の炎を交じり合わせる奇妙な石があり、それについての話をされているのだと、敏い子どもは理解した。
「聖女セイラムの事?」
先読みした考えを口にすると、ヒースは驚いたように眉を上げ、満足そうに頷く。
この世界は、神によって導かれている。
勝者も敗者も定められた道を辿り、抗うことなど出来ない。では人の努力など意味を持たないのではないか、という考えは当然だ。
けれど人々は自らが勝者であることを証明すべく、世界に名乗りを挙げる。
宗教の教義において解釈はつきものだ。異なる考えを持つ派閥は幾つもあり、それぞれが神の愛を信じて、受け入れられる考えを探す。あるいは教義に時折現れる矛盾こそ、人へ思索を促し、思想を成長させる為に創りだされたものである、なんていう考えまである。
「セイラムは人々を束ね、醜く争い合っていた者たちを治めると、神の座へ至り眠りについた。彼女は人の世が混乱すると目を覚まし、世に英雄たる人物を齎しては再び眠る。そうして、いつまでも我々を見守っている」
これは、町の教会へ行けば誰でも聞くことの出来る話だ。
「……疑問があるんだ」
「なんだい?」
「セイラムが本当に全ての運命を握っているなら、争いを嫌う彼女が戦乱を起こすとは考えられない。神様の力っていうのは、思ったより完全じゃない?」
それとも実在すらしていないのか。
口にすれば今すぐにでも海へ放り投げられかねない考えを心の中に留め、その後で、今の発言も十分異端かと思い直す。
けれどヒースの目に異端者を責める色はない。彼はそもそも、様々な土地を巡り、様々な神を知っている。だからだろうか。
「セイラムの力は本物だったよ」
まるで古い友人を語るように、彼は口にした。
「けれど、彼女の考えは人であり過ぎた。超越者の視点に立てないまま、万物を超越してしまった彼女は、驚くほど呆気無く人の手に落ちた」
それを彼女自身が望んでいた可能性すらある、と口にしながら、机の上の石へ触れた。燃え盛る炎の中へ手を晒しながら、まるで熱さを感じている様子はない。
「ラ・ヴォールの焔」
それが、その石の名前なのだろう。
「彼女と共に理想を夢見て共に戦った、四人の使徒が託されていた石だ。天啓を受け、運命神ジル・ド・レイルから授けられた力と、彼女の血と、それぞれの使徒の血が共に込められた……四つ合わされば彼女を、神でさえ運命の檻へ閉じ込めることが可能と言われるものだ」
「だからセイラムが……封じられるのを望んでいたってこと?」
「大き過ぎる力を持ったことで、自分が暴走してしまうことを恐れていたのかもしれないね。運命の糸を手繰ることは、神ですら容易ではないのかもしれない」
「セイラムは今……」
「封じられている。人々が新大陸と呼ぶあの地で、彼女に付き従った者たちに祀られながら」
悔やむように、恐れるように、しかし強い期待を胸にヒースは言った。
おそらくは島流しの類だったのだろう。つい最近まで、人々は大陸から離れた外海には何もないと信じていた。神話に聞く化け物たちが跋扈する、誰も戻ってこれない神々の領域であると。
ある意味で、神の寵愛を受けた聖女を、神の世界へ送ったと取れなくもないが。
その果てに新大陸へと辿り着き、本来は海中深くに沈められる筈だったろう彼女を地上に残した。
フロンターク人も、原住民であったフーリア人も、正確にこの事を受け継いではいない。二つの大陸を知り、様々な価値観を知るヒースが、双方の物語を調べる内に辿り着いた独自の答えだ。
彼の考えを信じる者は少なかった。
それぞれの伝える歴史とはまるで異なる解釈に、どちらもただ懐疑的だ。
あるいは彼が新大陸の発見者として世に名を知られていれば、何かが違ったのかもしれない。
けれど彼の言葉は信じられず、数年前に新大陸の発見が告げられた。
今はまだ航路が確立されておらず、一部の冒険家や豪商・貴族らが行き来しているだけだ。だが後一年もあれば航路上の海図が完成する。行き交う船が増え、関係はより密なものとなっていくだろう。
蝋燭の明かりの中でヒース=ノートンは、夕闇を纏ったように表情を曖昧にしている。
「大丈夫だよ、父さん。俺たちは古い友人なんだ。父さんの血を持つ俺が、二つの大陸を繋げてみせる」
けれどこの後、広まった海図を元に新大陸へ渡った者たちが、人を物として売り買いする奴隷貿易を始めてしまう。
貧困層に対する慈善組織でしかなかったイルベール教団が、布教の為にと渡った先で大虐殺を繰り広げ、更に両者の対立を明確なものとした。
千年以上に及ぶ解釈の繰り返しが、両者を決定的に分かつものとなっていたことに、この当時は誰も気付いていなかった。
「ありがとう――ジーク」
けれど薄い明かりの中で揺らめいていた彼は、そうなることを予見していたのかもしれない。
最後に、敏い子どもは質問を付け加えた。
「セイラムを封じた四人の使徒は、その後どうなったの?」
※ ※ ※
遠く聞こえていた争いの音が、すぐそこまで迫ってきているのが分かった。
東側からのそれは、フーリア人を根絶やしにし、神の開放を望むイルベール教団のものだ。
奴隷政策の急先鋒であり、時に自決すら辞さない狂信者の群れ。
対するのは、目覚める神を再び封じようと、封印の要であるラ・ヴォールの焔と、神の器となるフロンターク人の長、フロエ=ノル=アイラの身を捜索していたカラムトラ。
物理的手段を伴わない、巫女による諜報網を張り巡らせる為、またその迷彩にと数多くのフーリア人奴隷を売買してきた狂気の集団でもある。
両者の激突に際し、カラムトラの長、オスロ=ドル=ブレーメンが抜刀する。
神に通じる力を長年に渡って研究してきたフーリア人が編み出した力。巫女の力とは背中合わせになる刀工の極意。
その意は、錬鉄の術を以って極限まで鍛えあげられた一刀、それを抜き放つ唯一事を以って、神の恩寵を断ち切る。
オスロは知らない。
今争っている者たちの信仰する神が同一の存在であることを。そして何より、かつてやってきたヒース=ノートンが、いかな目的を持って大陸の存在を知らせたのかを。
魔術の根源を断ち切られたイルベール教団に怯みはなかった。
彼らは腰元から剣を抜き放ち、真っ向からカラムトラに激突する。その先頭は、いつか見たフーリア人奴隷たちによる突撃だ。遠い身内より近くの身内。産まされた子を人質に取られた女たちに選択肢などは存在しない。
イルベール教団は知らない。
聖女セイラムが今、本当に望んでいることがなんなのか。そもそも殆どの者は彼女が封印されていることも、それをしているのが目の前のカラムトラであることも分かっていない。
ただ下されたお告げに従い、命を差し出しているだけだ。
戦いはしかし、カラムトラの圧倒という形で推移した。
魔術によって武装を得てきた俺たちには、鍛冶技術というものがほぼ存在しない。精々が細工品で、教団が刀の力を知ったからといって、千年に及ぶ技術の差を埋めるには至らない。
同じように見える武器も、打ち合えばまずフーリア人らの武器が勝つ。
更には魔術を前提に発達してきた技も、生身のままでは十分な力を発揮できない。
優れた探知能力と、個々を繋げて意思疎通を可能とする巫女の存在が、両者の個体戦力を歴然としていた。
刀による魔術封じは彼らにとっても奥の手だ。
今までは徹底した情報封鎖と、そもそもそれが出来る逸品の完成が稀であったことも手伝って多くには知られていない。教団のように、他勢力へ情報を共有しようとしない者たちによって、今日の優勢は続いている。
何も出来ないまま戦いの始まりを見送った俺は、急激に雨音が弱まるのを感じ、視点を変えた。
オスロは、じっとジークを見下ろしている。
ジークは一度は抱え込んだフロエを、抱き寄せるでもなく、手放すでもなく、震える腕で支えていた。
ジーク=ノートンは知っている。
この場で彼女を庇えば、カラムトラの行動は更に激化することを。逃げる手はあった。人一人抱えていようと、魔術が使えなかろうと、地下に潜っていた彼らよりずっとこの町を知っている。
そしてそんなジークを見つけ出すため、あの老人は同族の血を流すことも厭わないということを。
逃げて、逃げて、逃げたその背中には、夥しいほどの死がしがみついてくる。
この学園に来てから出会った大勢の人々が、生還の望めない戦いへ駆り出されるだろう。
リース=アトラが、
ティア=ヴィクトールが、
アリエス=フィン=ウィンダーベルが、
いずれ死を迎えるだろう。
己の弱さを自覚する彼が、憧れずにはいられなかった強さを持つ彼女たちが。
フロエ一人を捨てれば、その苦しみからは開放される。
紆余曲折はあれど、彼女の犠牲によって世界は救われ、彼はただ生き残る。そういう道がある。
答えを出せ、ジーク=ノートン。
お前にとって、フロエ=ノル=アイラとは何なんだ。
※ ※ ※
そうして、少年が立ち上がる音を俺は聞いた。
二人分の重みを伴った足音。
そんな些細な聞き分けが出来ることに気付き、あぁ、と見上げそうになった空から目を伏せる。
雨に濡れた彼女は今、憔悴した表情で浅い呼吸を繰り返していた。
額に張り付く白髮はどこか艶やかで、意識の無い筈の手は、ジークの腕を強く握っていた。心なしか荒れた唇が動き、囁くような声がする。
「守る……から、ね……」
その時胸に去来した衝動を、どう現せばいいのか。
俺はただ舞台の脇で息を潜め、目を伏せたまま場が動くのを待っていた。
オスロの、慈悲もない声がまず場を貫いた。
「彼女は贄としての自覚を持つに足る人物のようだ。ヌシを守る為ならば、喜んで器となってくれよう。ならばワレらは、命を懸けてお守りするのみ」
踏み出す一歩に、ジークは身を下げた。
オスロの伸ばしかけた手が、ゆっくりと戻っていく。左手に持つ、刀へ僅かに寄せて。
「ずっと小さな頃……オヤジがまだ生きていた頃にさ、コイツを見て決めたんだ」
「ほう」
「守ろうって。何があっても、俺はコイツを守ってみせるって」
ジークの目は、ただじっとフロエへ注がれている。
前髪に隠れて、彼の表情は見えなかった。
「周りの何もかもに怯えてやがった。そうだ……最初から分かってたつもりだったんだ…………コイツは目に見えない何かに怯えてるんじゃなく、実像のある何者かに怯えていたんだって」
はは、と震えた自嘲が雨音と共に消えた。
遅れて聞こえた一粒は、果たしてどこからか。
「いつから、なんだろうな。正直今だって何をやってたかも分からねえよ。けど、俺がコイツから逃げて目を逸らしてる間も、コイツはずっと俺を守ってくれてたんだ。そいつだけは分かる」
「逃避を罪と呼ぶなら、これほど住みづらい世はあるまい……」
思いがけないオスロの、悔恨さえ滲んだ声にジークは驚いたようだった。
「誰もが心に弱さを持つ。己が逃げ場を求める。ワレにとってのそれは、クロメ殿への忠節だった」
「アンタは……」
「戦士を殺す至高の毒を知っているか」
剣でも死なぬ、矢でも死なぬ、不死身と言われた戦士を殺したのは、
「それは――」
「安らぎだ」
然り、とオスロは厳かに告げた。
「ヌシは安らぎを得たくなかった為に、彼女から目を逸らしていた。しかし、一度安らぎを背にすれば、後に別の安らぎを得られたとして、ヌシの心は救われぬままであろう。喰らえば毒、喰らわずとも毒」
「俺は救いが欲しかった訳じゃない」
オスロの目がジークを見る。
彼の目はどこか、枯れ井戸のように思えた。
「ならば何を求めた」
「助けたかった」
それは、
「俺のせいで苦しんでる皆を助けて、助け切って、最後に……お前のせいだと罰を与えられたかった」
最後の方は、掠れて消えるような声だった。
けれど、もう雨は止んでいる。
そしてその言葉はある意味で、アリエスたちと歩んだ人生が、彼にとっての贖罪で在り続けたというものでもある。
それだけではないと、彼女たちの強さを思い、願うばかりだったが。
「そうか――」
ならば、とオスロは続けたかっただろう。
罪を雪ぐ唯一の方法がある。
あの時の選択をやり直す。
世界か、フロエか。
彼女を差し出し、世界を救えと。
どちらにしても救われないのであれば、より多くを助けるのは正義の行いだ。
叶うのならば、それで帳尻は合ったのだと納得して、一人村へ戻る道もあるだろう。
「俺は……」
しかし、
「コイツが好きだ。コイツを守る。絶対に死なせねえ」
そして、
「けどなっ、今度は世界も一緒に守り通す……!」
「ヌゥ!?」
ジークは息を吸った。
力強く、決意の言葉を宣言する。
「呆けてんなよ爺さん……! なあ、アンタは自分で言っただろ。神様の力に縛られて、運命なんてものにどうこうされるのは気に入らねえって」
だったら、
「だったらっ、なんでたった一つ示された道なんてものに縋ってんだ! それしか方法ない!? 本当にそうなのか!? 道無き道を行ってみようじゃねえか! その先によ……神様だって見付けられなかった未来があるかも知れねえ! それが――」
開拓者、あるいは、
「それが、カウボーイってもんじゃねえか!」
※ ※ ※
これで――
「は、ははははは…………」
これで真実への筋道は付けられた。
ジーク=ノートンはフロエ=ノル=アイラを救い、世界を救ってみせる。この決断は奴自身にしてもらわなければ意味が無い。揺さぶり続け、幾度と無く叩き付けてきたのは、深い奈落の底から這い上がって来て貰わなければならなかったからだ。
経験を伴わない、俺から一方的に齎される知識だけでは、ここへは辿り着けなかっただろう。
だからこそ、この決意は決して消えぬ篝火となる。
やがて奴は運命を操る神、かつて聖女セイラムと呼ばれていた者を打倒するだろう。
何もかもが神の思し召し通りなんていう世界で、自らの選択によって道を生み出していける、主人公なのだから。
そして、
「そういえばジーク、いつもの帽子はどうするんだ」
「ん? そういや忘れてきたままだったな」
「そうだったな」
そして、諸共に死に果てる。
フロエは悲しみと自責の中で生涯を過ごし、最後の一時にようやくの笑顔を浮かべ、死んでいく。
誰もが奴をヒーローと思い、願いを託し、背負わせたから。
気付いていたのはきっと、フロエ唯一人で……。
俺は、そんな未来を否定する為に戦ってきた……!
ならばもう躊躇うな。
今まで俺が得てきた奇跡のような日々を捨て去れ。
流されてばかりで、決断を他者へ委ね続けてきた俺に、ハイリアという男の人生が与えられた。多くの苦悩を抱え、それでも常に自分の足で歩くことを止めなかった誇り高い男の心を与えられた俺が、再び甘えの中に溺れることなどありえない。
アリエス……。
最後に一度だけ、最愛の妹の姿を思い浮かべた。
あの時交わされた口づけの感触を今でも覚えている。安堵に浸れたことを、どれほど幸福に感じられたことか。
俺にとって彼女は妹で、彼女にとって俺は兄。
それでいい。
《メルト……頼む》
《…………はい。っ》
「っ……!」
紋章が浮かび上がる。
「なっ!?」
「……」
ジークは驚愕を、オスロは警戒を。
二人の視線の後方で、フィオーラが悲しげな目でこちらを見ていたのが分かった。
手には騎士剣、赤の魔術光は炎を模して燃え上がる。
紋章は――『剣』(ブランディッシュソード)。
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