第67話 援軍?
ジークの放った緋弾が反乱軍の前衛を挫く。
怯みが生まれれば、『騎士』の突撃はこの上ない威力を発揮できる。隙間へ捩じ込むようにして敵集団を吹き飛ばした俺は、新たな増援を見て道を変更する。
奇しくも男爵の所から逃走する時と似た状況になったが、こちらにこれ以上の援軍はなく、敵も組織だった迎撃が出来ないでいる。
後方での混乱を受けて、連中が最も警戒すべきは正面の正規軍だ。
教団の急襲は脅威ではあるが、数はそれほどでもない筈だ。一方で正規兵の数は無防備になった彼らを呑み込んで余りある。
二面作戦を受け入れ、戦線を設定し直すまでが勝負となる。完成すれば侵入は今まで以上に困難となるだろう。教団よりも早くアレに接触し、状況を進ませる。
その為には潜みながらの行動では間に合わない。
《西側から増援が。ルーベン通りを抜けてそちらに向かっている様です》
幸いにもこちらにはメルトの知覚がある。過信してはいけないが、無策で敵中へ突撃を繰り返すよりは遥かに良い。
《それと、一定距離を保って後退を続けている者が居ます。おそらく、『弓』の術者……位置は》
俺はすぐさまジークに情報を伝え、それを排除させた。
大通りを抜け、裏道に入り、時に身を潜めながら進行していく。
もし俺たちの動きを把握している指揮官が居たら、神の運命に導かれているとでも思っただろう。
あらゆる待ち伏せは見通され、監視を的確に排除し、増援は目標を素通りしてしまう。
距離が遠くなるほどに正確性は欠いていくが、それでも十分過ぎるほどに敵を捉えてくれるメルト。そこから敵の狙いを予測し、戦術を先読みするのが俺で、ジークは優れた洞察力と観察力で不意の状況判断を補強してくれる。遊撃手としての有能さも、やはり抜きん出ている。
広がりつつある混乱を抜けて、俺たちが辿り着いたのは学園に程近い貴族街の大通り。馬車二台づつが交差しても余裕のある十字路には、機能性を無視した噴水がでかでかと横たわっており、雨粒に水面を揺らしていた。
休日には俺も訪れたことのあるオープンテラスの店の壁面には、見るも無残な爪痕があり、抉れた壁の向こうに質の良さそうなテーブルと絵画が見えた。
降り続く雨であちこちに水たまりが出来ていて、それが石畳を砕かれて空いた穴だということに気付く。
反乱軍の本陣へはまだ距離があり、しかし重要防衛地点とされていたのか、そこかしこに防御柵の残骸があった。当然、防衛を担っていた兵たちは血を流して山と転がっている。
凄惨たる光景、というのはまさにこの事か。
その景色の中央で鎮座する影がある。
以前会った時には目視も難しかった魔術光が、今は銀色を帯びて周囲に漂っている。表面を打つ雨でおおよその輪郭が把握でき、また時折透過が剥がれて鈍色の身体が見え隠れした。
こちらに気付き、身じろぎする動きには錆びた金属を擦り合わせるような音が伴っていた。まるで古い機械を持ちだして動かすような、今にも壊れそうな悲鳴を感じる。
「……何なんだ、こいつ」
十字路へ踏み出したジークが警戒も顕に言葉を漏らす。
静かにこちらを見つめてくる銀の視線を受けて、進めた一歩を後悔するように歯噛みするのが分かった。
雨の中、目を凝らして見ればあり得ざる異形が分かる。
アレの肉体は、俺たちが手にする武装と同じ金属で出来ている。
身を包むようにしていた翼の翼膜は幾つもの歯車が連なって出来ていて、動きに合わせて配置が組み変わっていくのを見た。
その姿を俺の記憶で補正するのであれば、神話に語られるような巨竜だ。
だが、竜を模した形状でありながら、肉体は生物的なものとはかけ離れていた。翼も、爪も、身体を構成するのは鋼鉄で、腹部や背中は分厚い鋼殻で覆われている。
まるで機械。だというのに呼吸するような身体の上下があり、一際強い銀の眼光には明らかに生物らしい意志がある。
そんな化け物が天使を象徴する光輪を背負っているのだから、いっそ冒涜的ですらあった。
銀の魔術光に身を包み、己が身を透過させるソレの名を、俺は呼んだ。
「『機神』(インビジブル)の名を持つイレギュラー」
竜の口が空へ掲げられる。
金切声じみた咆哮が街中へ響き渡った。
俺にはそれが、行き場を失った子どもの鳴き声に思えた。
※ ※ ※
『機神』の翼が大きく広げられる。
見上げるほどの巨体の、更に倍はあろうかという巨大な翼だ。
「っ……!」
こちらを見定めた相手のこの行動に、ジークは襲い来ると思ったのだろう。戸惑いながらも短剣を構えて相手を見据えた。
だが『機神』はジークに構いもせず向きを変えると、学園へ向けて移動を開始した。
「追うぞ!」
「お、おうっ!」
先行した俺にやや遅れて、ジークが十字路を抜けてくる。
そこで倒れ伏す兵たちに眉を顰めて、
「このまま行かせるかよ!」
引き絞った銃弾を抜き放つ。
緋弾は、一直線に大通りを進む『機神』の腰元を捉え、無様な転倒を演じさせた。
「なん、だ?」
まるでジークの攻撃を予測していなかったかのような結果に、当の本人すら困惑した。正しくは予測する余裕もなかった、というだけだろうが。
それでも足は止まった。
駆ける。
青い風を撒き散らし、身を起こしつつある『機神』へ向けて。
「その程度の覚悟も無しに戦場に立ったのか、お前は……!」
巨竜の腕が振るわれる。
いかに動揺しているとはいえ、真正面からの突撃では迎撃を受けるのは当然だ。ましてや『騎士』の移動は直線的で、いささか読みやすい。
そのまま進めば直撃する。
だから、俺は紋章を『槍』へと切り替え急制動を掛けた。
『槍』の魔術は、術者の移動速度を絶対的に制限する。どれほど加速状態にあろうと、例え馬に乗っていようと、座標移動そのものが一定値まで下がる。
とはいえ、加速状態にあった肉体が急激に速度を落としたことによって発生する、途轍もない減速Gまでは無効化して貰えないが。
「っ、が……ァァァァアア!」
眼前を過ぎ去っていく爪を見送り、即座に『騎士』へと再変換する。
腹の中で臓器が一回転するような嘔吐感を無理矢理呑み下し、懐へ飛び込んでハルバードを跳ね上げた。
直撃には至らなかった。
咄嗟の回避で腹部の鋼殻を削るに留まった俺の攻撃は、しかし飛び上がろうとした『機神』の姿勢を大きく崩していた。
「ジーク!」
俺は彼の名を呼んだ。
呼ばざるを得なかった。
空中で無防備を晒す『機神』に対し、絶好の機会を得た今、『銃剣』の能力を持つ彼がするべきことは明白だった。
だがジークは、俺に言われて初めて気づいたように攻撃の準備を始める。
それでは遅すぎる。
間髪入れず叩きこまなければ、コイツに一撃を喰らわせることは出来ない。
遅れただけの時間で体勢を整えた『機神』が俺を見る。人間一人など軽く丸呑みに出来そうな口を大きく開き、不意に、吸い寄せられるような錯覚を得た。
大きく広げた翼からは、銀の魔術光が羽を模して舞い散っていく。それはまるで雪のように降り注ぎ、俺の周りを光で満たす。昼間と見紛うほどの輝きの中で、『機神』が虚ろだった実像を顕にした。鱗のように折り重なる鋼殻と、生々しさのある牙や爪があまりにも不釣り合いだ。
光の向こうで、背の光輪へ向けて光の筋が集まっていくのを見る。
「っ――!」
繋がっていた意識が無理矢理引き剥がされるのを感じ、身体が硬直する。
呼び掛けに応える声もない。
来たるべき一撃を前に、まるで慈悲のように、雨の気配も、身体の冷たさも遠ざかっていく。
冗談のような光景に魅入られていると、『機神』の口腔から膨大な気配が押し寄せてきているのが分かった。
例えるなら、地震や津波。
そういった天災の類が目の前にある。
「――――――――――――」
劈くような金切声も、地面を砕く崩落の音も、俺には聞こえなかった。
音を食い尽くしたような世界の中で、周囲にある石造りの建物郡が、砂の城を崩すように粉々になっていくのを見た。
膨大な数の音の波が何もかもを粉砕し、奈落へと叩き込んだんだ。
『騎士』の紋章が砕け散る。
意識が焼き切れそうだった。
視界が一瞬暗転する。頭の後ろを見えない糸で引かれたように沈んでいって、糸が切れたように腕が落ちる。
駄目だと叫んで手を伸ばす。まだ倒れる訳にはいかない。
けれど石畳が砕け、その下にあった空洞に瓦礫と共に俺は呑み込まれていく。この地域のありとあらゆる場所に張り巡らされた地下通路。
誰が?
何のために?
そんなことは分かっている。
消えそうになる意識を押し留めるには、そんな当たり前の事では足りない。
覚悟も、想いも、ずっと胸に抱いて戦ってきた。
それを砕かれて、同じもので踏み留まれるというのなら、きっと心底本気じゃなかったんだ。
だから、欲した。
こうなるだろう未来を知りながら、その先をこじ開ける手段を。
奈落へ落ちていくこの身を支える、たった一言を。
無音の世界にも届く声。
引き剥がされた筈のそれは、とても遠い所から響いてきた。
《負けないで》
引っ掛けるように、左手が何かの感触を掴む。
それは地下通路を支える湾曲した鉄の棒。指先を滑り去っていこうとする感触を、誰かに支えられるようにして掴んだ。
呆然と、急激に薄れていく声の気配を見送った。
遅れて腱の痛みに呻き声が漏れ、上から落下してきた土塊や石の破片が頭や身体を打ち付ける。自分がぶら下がっているのにも、しばらく経ってから気付いた。
目元を濡らす冷たさに上を向くと、打ち付けるような雨音が耳の中から広がっていった。
銀色の巨竜は、遠巻きにこちらを眺めていた。
とどめを刺すつもりはないのか、あるいは、今の一撃でさえ手加減されたものだったか。おそらく両方だろう。
足音が近付いて来る。人の足音だった。
無警戒なそれはジークのモノとは違う。
「っと、なんとか間に合ったみたい」
快活ぶった声がする。
上から伸びてきた手を、俺は痛む右腕を挙げて掴む。続けて幾人かの手が左右から伸び、あっさりと引き上げられた。
困惑は無かったが、こうして面と向かうと多少の緊張がある。
この暗闇の中でも彼らの事がわかった。
浅黒い肌に、黒い髪。こちらの大陸の人間にはない特徴。
十数名からなるフーリア人の部隊が、デュッセンドルフの町に姿を現していた。
《聞こえる? メルト》
《っ、姉さん!? え、ぁ……っ、ご無事ですかハイリア様!》
意識の中へ割り込んでくる声。
そこまできてようやく、俺は未だに俺の腕を掴んで離さないフーリア人の女の顔を見た。
「フィオーラか……」
「ぼろぼろですね、ハイリア様」
問えば、馬鹿にするような笑みを浮かべてフィオーラが言う。不思議と嫌味は感じない。
「そうか、そうなった訳か」
「ん?」
俺たちレイクリフト人にトラウマを持つ彼女を気遣って、支える身を押しのけて片膝を付いた。膝を付く衝撃にすら体中が傷んだが、痛みを感じられる内はまだ大丈夫だ。意識は繋いでいられる。
フィオーラも敢えて寄り添うことはせず、質問も切り上げて言葉をメルトへ送った。
どうやら、彼女らの中にも巫女が居るらしい。
《協力しなさい。今日ここで私たちの目的を終わらせる》
《姉さん、それは……》
《ハイリア様をどうこうはしないって。今だって助けたでしょ》
《…………目的とは》
うーん、と考えるような唸りを入れて、フィオーラは答える。
《前に彼女と街で会っていたでしょ? それで気付いちゃったみたい》
彼女。そう言ってフィオーラは目の前の『機神』を見る。
突如として現れたフーリア人の集団に『機神』は困惑しているのか、後ずさりながら警戒を向けている。
《姉さん、それは》
《どうしようもない。私たちはもうずっとラ・ヴォールの焔と、それ以上に彼女を探して居たんだから》
一人の男が『機神』へ歩み出る。
魔術を使うこともなく、完全な生身で。
《ハイリア様も、ごめんなさい。やっぱりアナタの言うようなことが出来るとは思えないの。そんな危険で、過酷過ぎる道にメルトを巻き込んで欲しくない。二人で穏やかに暮らしなよ。世界なんて大それたものをアナタたちが背負う必要なんてないと思うよ》
『機神』が咆哮を上げた。
ジークが何かを叫んで駆け寄っている。
フーリア人の男は手にしていた刀を掲げ、柄に手を掛ける。刀の収められている鞘にはいくつかの紋章が刻まれていて、そこから伸びる真っ白な紐が鍔へ絡みついて抜刀を戒めている。
『機神』の脚が地面を砕く。
それはあの巨体が突進するに伴う準備動作。
戒めが解かれる。
白無垢をするりと床へ落とすように、一種の背徳さを感じさせるなめらかさで紐が解けていった。
暴風を伴って『機神』が駆けた。
腕を伸ばせば届きそうな距離で、魔術も用いず実在の刀を掲げる男へ、神にも等しい力を秘めるイレギュラーが襲いかかった。
キン――――、と刀が引き抜かれる音を聞いた。
銀の輝きが斬り裂かれる。
最強を誇るイレギュラーが指先一つ触れること無く掻き消えていく。
いや、彼女は斬られてなどいない。
もっと別の、根源的な繋がりを断たれた。
この世界の魔術について理解しつつあるからこそ、起きた事の本質を捉えられた。
俺たちの魔術の根本は、繋ぐこと。
どことも知れぬ場へ接続し、力を引き出すことで尋常ならざる能力を得る。
あの男の持つ刀は、抜刀するという一動作にてその繋がりを断ち切った。
繋がりを失えば魔術が消えるのは当然だ。
どれほど強大な力を持つイレギュラーであろうと、力の供給源を断たれては魔術そのものが維持出来ない。
いつかゲームの中で目撃した、フーリア人の持つ特異な力の正体を、俺はようやく理解した。
『機神』(インビジブル)の魔術が解かれ、術者の身が投げ出される。
飛び出した勢いそのままで、固い地面へ向けて、白い髪のフーリア人の少女が。
フロエ=ノル=アイラという名の少女が宙を舞う。
取り囲んでいたフーリア人たちにそれを受け止めようとする気配はない。咄嗟に立ち上がろうとした俺は、彼女によって与えられた痛みで一歩目から崩れ落ちた。
「フロエッ!」
それは、どういう行動だったのだろう。
彼が、ジークが状況を理解している筈はない。彼は『機神』の正体を知らなかった。あくまでイルベール教団の戦力として、あるいは何かを感じていたのかもしれなかったが、およそ理解とは遠い所にあった筈だ。
だが走っていた。
少なからずあの攻撃の余波を受けただろう、ボロボロの身体を引き摺って。
刀の影響で『銃剣』の力も使えないまま、落下していく彼女の身体に飛びつき、庇うように地面を転がっていく。
砕けた石畳に体中を打ち付け、破片に腕を切り、むき出しになった肌を擦りむかせて赤く染めながら、必死になって彼女を抱きしめていた。
※ ※ ※
「おいっ! しっかりしろ! フロエ!」
自分の傷も無視してジークは声を荒らげていた。
それから気を失ったままの彼女が雨に濡れてしまっていることに気付くと、自分の外套を脱いで身体にかぶせる。
そんな彼へ近づく影がある。
先程のフーリア人の男だ。俺も、奴の顔には覚えがある。
「久しいな、ヒース=ノートンの息子よ」
ジークの父の名を呼んだ男の声は老いている。
だが年輪を重ねた大木のように芯のしっかりした声は、この大雨を貫いて響き渡っていた。
「何しに来た。何なんだよ、これは。なあ……オスロ爺さんよお!」
ジークの怒りに、フーリア人の地下組織カラムトラを率いる男、オスロ=ドル=ブレーメンは小揺るぎもしなかった。
彼の声などそよ風に過ぎないと言わんばかりの態度で、二人を睥睨している。
「ヌシの父にラ・ヴォールの焔が預けられたと知った時、クロメ殿からはもっと話を聞いておくべきだったと反省しておるよ。あの時これを知っておれば、ヌシの選択にあれほどの叱責をせずに済んだというに」
「意味が分からねえ……」
「知らぬのならばそれでも良い。だが、先代がヌシの父から受けた御恩を以って、ヌシが知ることを望むのであれば教えよう。そしてかつての選択、あれが真実正しかったことだとワレが認めよう」
「正しい……!?」
「そうだ」
少年はその昔、一つの選択をした。
少女を取るか、世界を取るか。
かつてラインコット男爵が密かに送り込んだ部隊が、新大陸にてヒース=ノートンの託されたモノの存在を知り、奪い取ろうと画策した。あらゆる人脈を用いてヒースを処刑台送りにした彼だったが、目的のブツが見付からない。
ヒースの息子、ジークへ矛先が向けられるのにそう時間は掛からなかった。
所在の知れぬラ・ヴォールの焔を見つけ出す為に、彼らが取った行動は単純だ。人質を取り、在り処を託されている筈のジークにラ・ヴォールの焔を持って来させる。
ジークは彼らにラ・ヴォールの焔を渡した。
少女を、選んだ。
そして、世界を捨てた。
要石の持つ役割を正しく理解した上で尚、彼はフロエ=ノル=アイラを見殺しには出来なかった。
やがてそれが戦争を生み、途方も無い犠牲を生み出して行く様を見せつけられた彼は、自我が崩壊するほどの苦悩を経て、ヒーローとなる道を選択した。
己を顧みず、世界に奉仕する英雄。
それは完璧ではなかっただろう。
常に綻びがあり、慣れぬ振る舞いに苦悩は付き纏った。どの口が言うのかと、輝かしい言葉を彼は謳う度に自らを縛って。
だが彼は有り余る才能を発揮して物事を解決出来た。彼の本質がどのようなものであれ、ジーク=ノートンには英雄となれる器があった。
虚飾に彩られた我が身を満たせてしまう、あるいは正しく理解していながら世界を捨てられる強さがあった。イレギュラーという上等過ぎる力が追い風を与え、勝利を当然と出来ることさえ可能だった。
リース=アトラを救い、ティア=ヴィクトールを救い、アリエス=フィン=ウィンダーベルを、そしてハイリアさえも救ってみせた。
そんな彼が、唯一助けることの許されない者が居る。
フロエ=ノル=アイラ。
彼女だけは、ジーク=ノートンという英雄では助けることが出来ない。
それは、許されない。フロエを救い、世界を犠牲にしたという贖罪から生まれた英雄にとって、彼女はあらゆるものの下にある。
ましてや、再び世界を差し出してまで救おうとするというのは、最早七つの大罪を以ってしても語りきれない悪行だ。
彼が他者のことなど関係ないと言ってしまえる人間なら良かったのかもしれない。けれど彼はかつて火だった。自らが留まる場所を照らし、凍える寒さから人々を守る、そんな少年だった。自分の周囲を無視することは出来ない。
世界を犠牲にしたことで広がった彼の周囲とは、もう小さな村一つに収まらなくなっていた。
そして、一処に留まる火では世界は大きすぎる。
やがて少年は風となり、父の遺品であるカウボーイハットを被って村を出た。罪の結晶であるフロエという少女を伴って。
「ラ・ヴォールの焔は所詮、要石の一つに過ぎん。重要であることは変わりないが、アレ一つの力ではワレらフーリア人すべての命を懸けねばならなくなろう」
「言っていることが分からないっ」
「知るか? ワレらが友の息子よ」
オスロは淡々と言葉を続ける。
おそらくジークが知ろうと知るまいと、自分の行動には何一つ揺るぎがないということだろう。浅黒い肌の老人は、激しく振り付ける雨の中、じっと彼を見据えていた。
「……教えてくれ」
「よかろう」
二人は揃ってフロエを見る。
疲れ果てた表情で眠る少女を、全く別の意志を以って。
「彼女こそ、ワレらが巫女の長。神族たるフロンターク人の頂点に立ち、いずれは神の贄として捧げられる女よ」
「…………贄?」
オスロは答えない。文字通りに受け止めよと言わんばかりに言葉を続けた。
「ヌシらの言葉に直せば、ワレらフーリア人の王にも等しい。先代クロメ殿が残した実子…………長兄は死に、長女たる者の消息が掴めぬまま時は流れ、既に死んでいると思っていたが、ヌシの父が密かに連れ出してくれておったのだな。ワレに一言無かったことは、この際水に流そう。白い肌の人間たちによって、ワレらの土地は混沌の極みであった」
「待て……待てって! 贄ってどういう事だ! こいつが、贄?」
「うむ」
フロエの身体を抱くジークの手が震えた。
「危うき所であった。古より封じられていた車輪を司ると言われる悪神、それが目覚めるまでもうそれほどの時間が無かったのだ。だが彼女が器としてその身を差し出してくれれば、再び長きの眠りを与えることが出来るであろう」
「その為にコイツを犠牲にするってことか」
「その通りである」
「コイツの意志はッ!」
「世の安定の前に、一個人の意志など重んじるべきではない。無論、礎となる道を選んで貰えるというのなら、ワレらは最大の敬意を以って仕えよう」
「……器になったコイツはどうなる」
「肉体は神のモノとなり、永きの眠りにつく。だが心は消える。人の心を持ったままでは神の器には至れぬよ」
「なんでっ!」
「何故と問うか? 悪神が目覚めれば、世は再びヤツめの思うままに回ることとなろう。全てが神の理に支配された世界で、ワレらを意思なき人形に堕とす者を、ワレらは認めぬ。討てるのであればそれも良かろうが、眠りの中にあってもヤツめは理を御する。決して討てぬ運命なのだ。ならば、取るべき手は一つである」
言葉は終わる。それでも何かを絞り出そうとするジークに対し、オスロは厳かに言って見せた。
「それとも、ヌシはまたしても我欲に溺れ、世界を差し出すつもりであるか」
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