第11話 月が見えた
震える指先が引き戸の窪みに触れた。
ここはウィンダーベル家が所有する、学園近郊では最も大きな施療院だ。俺、というよりアリエスの在学中に何かがあってはと、父上が特別に優秀な施療士を常駐させている。
部屋は一番奥の、最も大きな個室。
そこらの豪邸並の家具を取り揃え、泊まり込みで看病も出来るという特別室だった。
「っ――!」
怖れがあった。
この扉を開ければ、その時点で何もかもが決定してしまうような気がしている。
この病室に、アリエスが……。
しかし、確認しなければならない。
俺が逃げた所で事実はひっくり返らない。仮にコレがパソコン上に表示されたゲーム画面であったなら、俺は死に物狂いでリセットボタンを連打し、ゲームを最初から起動させていたに違いない。
だが無理だ。
この『幻影緋弾のカウボーイ』の世界に入り込んでしまった今、セーブ画面もロード画面も呼び出せない。そもそも俺、ハイリア=ロード=ウィンダーベルはこの物語の主人公ではないのだから。そんな特権は主人公であるジーク=ノートンしか持っていないのだ。
逃げる訳にはいかない。
意を決し、扉をそっと開けた。
病室の景色が目に飛び込んでくる。
ベッドの上、ギブスで固められた右足を天井から吊り、胸部、両腕とこれでもかというほどに包帯が巻かれた人物が居る。顔の包帯は片目を塞ぎ、ほとんどミイラのような姿だった。
そんな『彼』へ、
「はい、あーん」
心なしか頬を赤くした無傷のアリエスが、ウサギさん林檎を差し出している。
その瞳は睨み付けるようでもあり、悔しそうでもあり。
「あーん、んむんむ」
食べた。
ベッドの上で包帯まみれになった彼が、男が、あの野郎が、
「あ……アリエス様」
ここで俺に気付いた、これまた無傷のメルトがアリエスへ声を掛ける。
「おおおおおおお兄様っ!?」
途端に悲鳴が上がった。飛び散った林檎や食器をしれっと空中で回収したメルトがそれらを片付ける間、アリエスは完全に固まっていた。
「あれ? よぉ、こないだの」
ベッドのミイラ男が気楽に手を上げてくる。
「キ……キサマァァァ…………!」
俺は問答無用でミイラ男に掴みかかった。包帯まみれの身体を容赦なく引き寄せ、本気の殺意を以って睨みつける。
驚くアリエスは別として、メルトでさえ怪我人に対する俺の暴挙を止めようとしない。
当然だ。
コレは暴走したアリエスが次から次へと施療士にやらせていった処置であり、このミイラ男はかすり傷しか負っていないのだから。
さっきのあーん、だって知っている。
口八丁で言いくるめ、高飛車な大貴族をおちょくって
だからアリエスのほっぺがあかくなってたってべつにほれてるとかそういうんじゃないだよ。
違う。
絶対に違うんだが、
「おいおい、いきなりご挨拶じゃねえか。こないだのこと、怒ってんの?」
尚も軽薄なことを言うミイラ男――ジーク=ノートンは、包帯まみれの両手を挙げて降参を表明する。それでも怒りの収まらない俺はいっそこのまま窓から放り投げてやろうかと本気で考えていた。
しかし、
「お止め下さい、お兄様っ!」
俺とジークを引き剥がすように、アリエスが割って入ってくる。
最愛の妹は、天使のような妹は、あくまで落ち着いた表情で俺に説明した。
「私……この方に助けて頂いたんです。ですから、乱暴はお止め下さい」
「ぁ……ァァァ…………」
後ずさる俺は、その後の瞬間をしっかりと目にした。
乱暴な扱いを受けたジークは頭を抑えて包帯を取り始め、そんな彼をこっそりと覗き見たアリエスが、胸の奥に刺さった抜けない棘を想い、ほっとため息を落としたのを。
階級社会の肯定者でありながら、本質的には差別意識など皆無で、万民の声を粒さに受け取ることの出来る彼女だからこそ、現状の悪に対する強烈な反抗者であるジークを無視出来なくなっていく。
その萌芽。
興味。
あるいは敵意。
故にこそ繋がる一つの未来が頭を過ぎる。
ジークに寄り添い、甘い表情を浮か、うかうかうかべる、ア、アア、あああああっ、アリエ――――ああああああ……っ。
「ァァァァ……!」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?
「っ、お兄様!?」
妹の呼ぶ声にも答えられず病室を飛び出した。
どこをどう辿ったのかも分からないまま走り抜け、施療院を飛び出し街中を駆け巡り、目の前に現れた噴水の水へ顔を突っ込んで叫ぶ。
「アリエスルートに入っちまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああッッッ!! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
ぷしゃー、と噴水が勢い良く水を吐き出した。
叫びは全て水に呑まれ、排水口の奥へ消えていく。その薄暗い穴と同じ目を俺は今しているだろう。
いっそそのまま死んでしまいたくなったが、背後から俺の身を引く者が居た。
余程慌てていたのか、力任せな勢いをそのまま受けて背中から転がる。目を擦り、視界を取り戻した俺に覆いかぶさる姿が見えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「メル、ト……?」
浅黒い肌を見てそう思った。
だが違った。メルトの髪は黒で、この人の髪は白だ。落ち着いた表情のメルトとは真逆に、彼女はどこか純朴で、可愛らしい顔つきをしている。
「落ち着いて呼吸を整えて。水を吐けるなら吐いてしまった方が楽。ゆっくり、ゆっくりと息を落ち着かせて」
「っ、君……は……」
「えっ? あっ、ええと……」
彼女も俺を見て驚いたようだった。
陽の沈みかけた薄暗い公園の噴水に、まさか学園でトップの成績を持つイケメンキャラが顔を突っ込んで溺れかけていたなどと誰が思う。
こうして顔を合わせたのは二度。
細かく分ければ三度目になるか。
顔が急に熱くなって手で覆い隠す。水浸しになった髪をかき揚げ、そして、なんとか言葉を絞り出した。
「ハ、ハイリア=ロード=……ウィンダー、ベルだ。初め、まして、と言うべきか」
「私は、ええと……フロエ。フロエ=ノル=アイラといい、申し……ます? 初め、まして……」
形式張った受け答えに慣れていない、田舎育ちの少女らしい言葉遣い。
俺がこの世界で誰よりも助けたいと願う人が目の前に居た。
夕陽が遠くへ沈んでいく。
雲ひとつ無い空。
今夜は、綺麗な月が見えそうだった。
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