第8話 十字天秤に絡みつく蛇

 中庭での騒ぎを背に、俺はメルトを伴って学園端の教会へ足を運んだ。

 先ほど貴族男に絡まれていたあの少女に会っておこうと思ったからだ。


 おそらくまともな反応はもらえないだろう。

 それでも、やはりファンとしては人気ランキング三位のヒロインと一度くらいは言葉を交わしてみたいもの。それくらい気楽な気分で俺は居た。


「おや、おやおやおや」


 教会から出てきた男を見た瞬間、全身から殺意が漲った。

 鳶色の髪で片目を隠した細身の男。甘ったるい香水の匂いに、違ったものが混じっているのが分かった。ひどく淫猥な汗の……。

 抑えきれず頭に血が上る。

 全く想定していなかった遭遇と、知らなかった事実が頭を過る。


「これはこれはハイリア様ではありませんか。長期休みの間、不自由なく過ごされましたかな?」

「ヴィレイ=クレアライン……っ」

「おっと。普段は感情を見せないアナタが珍しい。いかが致しまたかな? はて……あぁ、そういえば一月ほど前、我がイルベール教団の関係者がハイリア様のご厄介になったとか。ご安心を。噂でアナタの言葉はお聞きしておりますとも。私としてもあの程度の輩が教団員を名乗ることなど不本意でしたから、すぐさま破門し、こちらで処理しておきました」

「ここで何をしていた」

「何を?」


 あくまで慇懃な態度を崩さないヴィレイに苛立ちが募る。

 彼は俺の怒りを楽しむように嗤った。目の奥がドブ川の底に溜まったヘドロのように淀んでいる。見ているだけで苛々する。


「我々が教会ですることなど一つでしょう。祈りを捧げていたのですよ。全能なる運命の神に、一刻も早くこの世からおぞましい生き物が消えることを。そう、アナタの後ろに居る虫にも劣る畜生が」


 振り上げそうになった腕をかろうじて止められたのは、メルトが掴んでくれたおかげだった。

 静かに深呼吸し、心を落ち着かせる。仮に今、この男をここで殺したとして、事態が深刻化するだけなんだ。まだ泳がせる。周到に、苛烈に、徹底的に追い詰めて息の根を止めなければならない。


「……貴様、何をしている」


 その時俺は、教会の裏手から身を隠すようにして出て行く女の姿に目を奪われていた。中庭で絡まれていた少女とは違う、浅黒い肌をした白髪の少女。なぜこんな所に。いや分かっている。けれど。


 不意に腕を掴んでいた感触が消えた。ヴィレイ=クレアラインが脇を通り過ぎて行くのに反応出来なかった。


 物音を聞いた少女がこちらを見る。

 目が合った。ここの様子に気付いた彼女が迷いを見せる。


「下等な生物に過ぎない奴隷が、侯爵家の嫡男であるハイリア様の腕に触れるとは! 死んで償えッ!」

「っ――! 待て!」


 後悔が一瞬で全身を焼いた。

 俺は今一体なにをしていた!? メルトに手をあげられるのを止めもせず、未だに言葉も交わしたことがない女に目を奪われて!


 俺を止めてくれたメルトが、ヴィレイの拳を受けて倒れている。どころかヴィレイは、その頭に足を乗せ、今まさに踏み潰さんとばかりに力を掛けようとしていた。

「待て! 止めろ!」

 再度、俺は強く言った。


「………………ほう」


 俺の言葉に、素直にヴィレイが足を退ける。

 しかし、今まで以上の緊張がその場を包んだ。


「それはどのような意味ですかな、ハイリア卿。返答次第ではアナタと言えど私は審問に掛けねばならなくなる」


 関わったこと事態が間違いだった。

 このヴィレイ=クレアラインという男は、イルベール教団を動かす筆頭貴族の嫡男。生粋の奴隷差別主義者だ。蛇のように狡猾で、毒のように相手の隙へ染みこんでくる。

 家の格はウィンダーベル家が上だ。だからヴィレイも慇懃に接してくるが、勢力や影響力を考えればクレアライン家の力は強大過ぎる。他国からの留学生であることも踏まえれば、国外で騒がれれば厄介だ。

 くそっ。

 どうにかして話を丸く治めないと、好き勝手に悪評を拡げられてしまう。


「どうしたのです! 階級制度を守護するウィンダーベル家の嫡男ともあろう方がっ、まさか奴隷風情を守ろうとしたと!?」


 仮に普段通りであれば、俺はすぐに言い返せただろう。

 我がウィンダーベル家は分を守らせる。しかし、不当に権利を犯すことは許さないと。


 だが俺は激しく動揺していた。

 メルトを助けられなかったこと、そうなった原因があの少女であったことが強い罪悪感となって心を縮み上がらせていた。


 あの少女、フロエ=ノル=アイラの存在に心を奪われていた……!


「…………彼女を所有しているのは俺だ、勝手なことをするな」


 ようやく絞り出した言葉を吟味するようにヴィレイは何度も頷く。

「彼女……彼女ですか……」


「まあいいでしょう。こちらが分を超えた行いをしたのも確かです。クレアライン家がウィンダーベル家の財産に手を付けたなどと言われては困りますからね。しかし……」

 蛇の目が怪しく光る。

「罰則は必要でしょう。さあ、こちらは気になさらず、相応の処罰を」


 身を起こしたメルトがこちらを見る。

 顔に傷はない。流石のヴィレイも他者の奴隷を目に見える形で傷付けるのは避けたんだろう。だが、辛そうに腹部を抑える彼女を見てまた罪悪感が膨らんだ。

 俺を見る目が、やって下さいと訴える。


 出来る筈がない!


 躊躇っていると、ここぞとばかりにヴィレイが手を打った。

「お優しいハイリア様には酷でしたかな。ならば私が代行しましょう。小指の一本程度なら、握力の低下はあっても身の回りの世話に支障ありません」

 と、どこから取り出したのか鋼糸を両手で持ち、メルトへ言い捨てる。

「右手を出せ」

 どこまでも冷たい声。

 メルトは何の躊躇も無く手を差し出した。

「っ……」

「止めれば、今度こそウィンダーベル家への嫌疑となります」


 動けなかった。

 見ているしか出来なかった。

 何か言い逃れる言葉はあった筈だ。

 なのに迷い、流されようとしていた。


 そんな時、


「HEY! そこのサディスト野郎!」


 ヒーローが現れた。


   ※  ※  ※


 ヴィレイ=クレアラインが飛び蹴りを受け、教会の扉へ叩き付けられるのを俺は呆然と眺めていた。

 目の前に飛び込んでくる鮮烈な姿。何者にも囚われないカウボーイは、全ての葛藤を一発で蹴り飛ばして笑っていた。


「HA! こんな気持ちの良い快晴に、最低なモノ見せてくれやがって! ゲスの極みだなクソ野郎がっ!」

「キ、キサマァァアアアアアッ!」


 大量の鼻血を流してヴィレイが激昂していた。

 巨大な組織を動かせる危険な男の怒りを、ジーク=ノートンは鼻で笑い飛ばす。


「おうおう、男前になったじゃねえか! 腐った目ぇしてるよりよっぽどマシだぜアンタ!」


「自由民? 自由民だとキサマァ! 下等階級の人間が貴族であるこの私に手を上げただと!」


 目敏くジークの制服に刻まれた身分証を見て取ったヴィレイが叫びを上げた。だがジークは呆れたように言うだけだった。


「そんなんばっかだなこの学園! 身分で人間の価値が語れるかよ!」

「どうやら教育が必要なようだな……!」

「似たようなこと言ってた野郎がついさっきおねんねしたぜ!」


 怒り狂って尚、蛇は狡猾だった。

 目の前に現れた男の能力を冷静に推し量り、今の言葉を吟味している。

 長い舌が唇を舐め、淀んだ瞳が尚沈む。

 唇は血の色を伴って蠢いた。


「キサマ、名は」


「ジーク=ノートン」


 と、その瞬間ヴィレイの目に宿った残忍な色を俺は感じ取った。

 最初は呆け、口の中で味わうように舌なめずりし、そしてハッと我に返ったように笑みを浮かべる。

 瞳に浮かぶのはどこまでも昏く、赤錆じみた毒々しい色だ。


 哄笑した。


「は、はははははははは!! そうかっ、キサマ……ジーク=ノートンというのかッ! ははははは……!」


 口が裂けんばかりに濃い笑みを浮かべたヴィレイは、一度顔を覆うと、先程までの怒りが失せたように穏やかな表情となった。


「これは貸しておこう。いずれ、キサマを地獄へ叩き落とす為のな」

「お断りだな!」


 あくまで不遜な態度を崩さないジークへ、ヴィレイはいっそおもねるような気色の悪い笑みを浮かべる。


「そう遠慮するなァ。ついでに警告しておいてやろう。昨今、奴隷狩りというのが流行っているのを知っているか?」

「奴隷狩り……?」

「フーリア人の事だ。奴らを死滅させんと志を持った市民が、自ら立って人誅を下しているとな」

「人誅?」

「裁きだ。分かり易く言えば、気色悪く我らが大地を這い回る虫を駆除していると言っていい」

「くっだらねえっ!」


「いずれお前も係わらずには居られなくなるさ。奴隷を傍に置いている限りはな」

「……待て、テメエなんでそのことを」


「忘れるな、ジーク=ノートン。フーリア人の語る言葉に真実などないことを」


 言って、ヴィレイは去っていった。

 異様なほどにあっさりと。


 しばしの間の後、呆れたようにジークが肩を竦めた。

 そこに大貴族に喧嘩を売って、見逃されたという安心感など無い。

 思う儘に振る舞い、悪党をぶちのめすカウボーイが荒野に立っているという、それだけの光景。


 それが、とても眩しかった。


 ジークがこちらへ向く。

「HEY、アンタ」

 振りかぶった拳を、

「歯ァ食いしばりなッ!」

 俺は避けもせず顔面で受けた。


 激痛が脳を痺れさせ、身体が激しく地面を転がる。

 メルトの悲鳴を何処かで聞きながら、痛みを堪えてなんとか身を起こす。

 殴られたのなんていつぶりだ。汚れた衣で権威なんて纏えない。だから今、俺と彼の立場は対等……いや、それ以下だった。


「アンタにどんな事情があるか知らねえが、目の前で大事な女が傷付けられるのを棒立ちして眺めてるたぁどういう了見だ、ァア!?」


「…………礼を言う」

「ンなモンいらねえよ! 分かったら二度とあんなことするんじゃねえ! 下らねえこと抱えて動けなくなるくらいなら全部捨てちまえ! 大事な女守る以上に大切なモンが他にあんのかよ!」

 言い返せる言葉が無かった。

 ジークも俺の悔やむ表情は見ている。その上で怒りをぶつけて来た。足りないならもう一発殴ってやると拳を握りながら。

「なんとか言いやがれこのフニャチン野郎が!」


「それ以上の侮辱は許しませんッッ!」


 怒鳴り散らすジークの前に、メルトが両手を広げて立ち塞がる。

「何も知らない人間がこの人の苦悩に唾吐くことはお止め下さいっ。助けていただいた事には礼をします。ですが、これ以上続けるつもりなら、私は自分で指を切り落とします……!」


 彼女の背を見ていた俺にその表情は分からない。

 だが、あのジークが面食らったように口を開いたまま棒立ちした。やがて、その口元に笑みが浮かぶ。自らカウボーイハットを取り、胸元に当てる。枯れ草色の髪が渇いた風を受けて揺れていた。トレードマークのおさげの先には、緋色のリボンが結ばれている。


「敬意を」

「不要です」


「ますます気に入った。是非これから一緒にお茶でもいかが?」

「わかりました。毒入りのお茶をご用意致します」

「いい女に殺されるなら悪くない」

「減らず口ばかりっ」


 怒り出すメルトをいなすように手を挙げると、ジークはカウボーイハットを被り直して背を向けた。と、そこで彼が茂みに向けて声を掛けると、メルトと同じ浅黒い肌の少女が顔を出した。心臓が僅かに跳ね上がる。


 少女、フロエ=ノル=アイラは、一度心配そうにこちらを見ると、ジークの乱暴を咎めるようなことを言いながら先行く彼を追いかけていく。しばらくして角を曲がり、姿が見えなくなった。


 息を、落とす。


「ハイリア様!」

 虚脱感に包まれていた俺は、不意に飛び込んできたメルトを支えきれず仰向けに倒れた。こちらの胸板に額を合わせ、震えている少女を見て、改めて罪悪感に包まれる。

「すまない、頼りない主人で」

「そんなことはありませんっ」

「俺は君を助けられなかった」

「私の為に迷って下さいましたっ。多くのモノを背負っている貴方が、その全てと懸けて迷ったのであれば、私にとってそれ以上の幸福はありませんっ」


 違う、違うんだメルト!

 俺は確かに迷った! けれど、全ての始まりは全く別の所にあったんだ!


「すまない……!」


 言える筈もない。

 俺に出来たのは、この世の理不尽へたった一人で立ち向かって俺を守ってくれた女の子を、精一杯優しく抱き締めるだけだった。




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