第3話 フーリア人
途中、使用人に頼んで道具一式を手に入れた俺は、自室の机にそれを置くと、教育部屋からずっと無言でついてきてくれていた女の子を振り返った。
パサリ――と服が落ちる。
「え?」
目の前に下着姿となった少女が居る。
ブラとショーツ。コルセットが主流なこの時代にはまずありえないが、そこは俺の夢的に譲れなかったのかもしれない。
浅黒い肌の至る所に傷跡があり、鞭を受けた場所には血が滲んでいる。痛々しくはあったけど、たおやかに膨らんだ胸や綺麗な曲線を描く肩のラインはとても淫靡で、思わず顔が赤くなった。
そんな彼女が俺の上着を手に頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
掠れ気味の声が震えている。
「ここへ来てから優しい言葉を掛けていただいたのは初めてです。その……このようなことを求められたのも初めてで……上手く出来るかはわかりませんが、どうか……」
「ちょ、ちょっと待って! 違う! そんなつもりじゃない、待ってくれ!」
駆け寄ろうとして、相手が下着姿だということに気付いて慌てて踏み留まる。見ないように背を向けて、自分でもおかしいくらい動揺したまま叫ぶ。
「傷! 傷の手当をしようと思って! ほらっ、そこの! 水とタオルも貰ってきたからさ!」
と、ここで少女も自分の早とちりに気付いたらしく、ひっくり返った声で弁明してきた。
「も、ももも申し訳ありません! おおおおお見苦しいものをお見せしてっ! い、今すぐ服を着ます!」
「そ、そうだね! 着てくれると助かるよ!」
「それでは失礼して!」
大丈夫です、と言われたから振り返ると、俺の上着を下着姿で羽織っただけの、なんとも艶かしい姿があった。顔が熱くなる。顔に手を当てるがついつい視線を向けてしまう己の浅はかさにまた羞恥が強くなる。
俺の反応を見て気付いたらしい少女の浅黒い顔が、それと分かるほど真っ赤に染まった。
「ああ申し訳ありません! 上等な服が血で! 私っ、私の服は!?」
そうじゃない。そうじゃないんだが。
「足元だから! 足元に落としてたから!」
そんなこんなで数分後、ようやく落ち着いた俺たちは机を挟んで向かい合っていた。机の上には手桶とタオルならぬ手拭いがある。
まるでお見合いにやってきた初心な男女のように、お互いの顔は赤い。
「そ、それでは……」
「は、はいっ」
「傷の手当を……」
「はいっ」
「その……」
「はいぃぃっ!」
沈黙。
痛い。沈黙が痛い。
いや、でもいつまでもこうしてる訳にはいかなかった。
庭でアリエスが待っているのを忘れちゃいけない。現状を把握したらあの妹に会って、出来れば話がしたい。俺は意を決して手拭いを手に取った。筋肉のついた両手でぐっと絞る。
「行きます!」
「どうぞ!」
釣られてか、かなり男前な脱ぎっぷりで少女が背中を見せる。今思えばどの道脱ぐんだったな。いや、素っ裸だと別の意味で集中できなくなるからいいんだが。
背後に回った俺は、おそるおそるな手つきで手拭いを傷へ触れさせた。
まず感じたのは、血の匂いだ。
傷口からじゃない。何度も何度も鞭で打たれたのだろう背中全体から、染み出すように血臭が撒き散らされている。仮にも使用人だからか、顔や目に見える部分は無傷なだけに、背中のソレは見ているだけで涙が出そうになった。
正直、ここまでの騒動で緩んでいた心を、がつんと殴られたような衝撃がある。
なんだ、この理不尽。
彼女と俺の何が違うんだ。
最初に見た時の、疲れきった目を思い出す。俺に身を捧げようとしていた時も、目には諦めと、驚くべきことに納得があった。ああして奪われることが当たり前で、ともすれば貴族たちから軽い気持ちで捨てられてしまう人がここには居る。
まるで使い捨ての道具のように扱われて、そして、それを当たり前としている彼女にも苛立った。それが理不尽で傲慢な感情なのも分かってる。
それでも……、
柔らかく、出来うる限り優しく傷口の周りを拭いていく。
擦ると痛みがあるだろうし、砂利や砂でついたものでもないから、出来ることは血に濡れた肌をそっと叩いていくことだけだった。消毒液があれば良かったんだけど、道中尋ねた使用人には伝わらなかった。どうやら消毒という概念が存在しないのか、一般的ではないらしい。妙な所だけ不便な世界だ。
滲んでいた血を拭き取り終えた後、今度は別の手拭いに度数の高い酒を染み込ませて傷口を叩いていく。
真っ白な布に血の色が広がっていくのが、どうしようもなく嫌だった。
堪えているのだろう彼女の背中がそれでも僅かに震えた時、罪悪感で頭の裏から手元へ向かって寒気が奔った。
「……、っ」
言葉が出ない。
こうして治療をしているのさえ自己満足だ。
なぜなら彼女を買ったのは、いずれ俺が、ハイリアが受け継ぐことになっているウィンダーベル家そのものだから。
傷付けて、優しくして、勝手に彼女の人生を振り回しているのは……。
血の匂いを嗅ぎながら治療を続けていく内に、俺の中にあった疑問が徐々に膨らんでいく。
これは、果たして本当に夢なのか?
この胸に広がる苛立ちと悔しさは何だ?
この血の匂いは本当に偽物なのか?
彼女のことはなにも知らない。けど、この痛々しい姿を見て、力一杯抱擁して大丈夫だと言ってやりたい衝動は、夢如きに再現出来るのか?
ここは……この世界は…………現実?
動揺を押し隠しながら治療を続けた。
そのままお互いが無言のまま、血を拭い終えた。素人判断ながら消毒も出来たと思う。
できるだけ優しくしたつもりではあったけど、傷口に触れる場面もあったから痛かっただろう。でも少女は声一つ漏らさなかった。
すっかり血の色に染まった水に手拭いを放ると、今度は包帯を手に取る。と、ここで一つ問題があった。
下着が邪魔だ。
なんとか経由せずに巻けるかと試行錯誤していると、やがて少女から進んで下着を外された。
真っ赤になる俺と女の子。
動揺はどこへやら、目の前の煩悩と気恥ずかしさに心が上塗りされていく。肩越しにどうしたって見える膨らみに心を奪われそうだった。
これが背中越しでなければもっと気不味い空気だっただろう。それでもなんとか理性を総動員して包帯を巻き(前に通す時が一番ヤバかった!)終えて、丁寧に縛る。
一歩、二歩と距離を取って、崩れ落ちるのだけは耐えながらため息をついた。
「お、終わりです……」
「ありがとうございました」
そしてまた沈黙。しばしの間。
あれ……? 疑問に思ったけど質問するのは躊躇われた。
なんでずっと服着ないの?
女の子は俺に背中を向けた姿勢のまま、じっと硬直している。
まさかまだ警戒されているのかと不安になった頃、か細い声は聞こえてきた。
「ハイリア様……」
「う、うん」
「一つ、お願いをしてよろしいでしょうか」
なんだろう、この空気。
オトコノコの本能に直撃するような匂いがする……。
「どうか、その…………私を、抱いていただけませんか?」
な!?
「え?」
だっ!?
「く!?」
「っ、申し訳ありません……! 思い上がったことを口にしました!」
俺の反応にすぐさま伏して頭を下げる少女。はだけたままの上半身には、俺が巻いた不格好な包帯があって、
「私は、奴隷として買われました。たまたま容姿が気に入られたという理由で使用人として使われていますが、その……私たち奴隷は、貴族の、方々の…………」
差別、というのはなにも暴力を振るわれるだけに留まらない。
女性であれば尚更、その尊厳を奪われる。初めてと言っていたこの子が、今日まで誰の目にも留まらなかったのは偶然で、いつ誰かの下卑た手に捕まるか分からない。
だからこそ、ここで。
慌てた頭の中でもう一方の考えも湧いてくる。
この家の嫡男から手付きにされたのであれば、奴隷でありつつも立場は良くなる。
下卑た考えだとは思わなかった。そうしたのは奴隷なんていうものを作り出したこれまでで、その歴史の上で胡坐を掻いている俺自身だ。
あの教育部屋から、そして治療を受けている間、無言で考え続けていた彼女なりの生存戦略。
覚えるべきは反感や侮蔑ではなく、そうさせてしまった己への羞恥だろう。
「もし、ハイリア様さえよろしければ、ハイリア様に、私の純潔を奪っていただければと……親切にしていただいたにも係わらず、とんだご無礼を口にしました……! どうかお許しください! こんな、こんなっ、優しくしていただいたのは本当に久しぶりでっ、こんなにも優しい方にならと……申し訳ありませんッ」
頭を下げる彼女にますます動揺は広がる。
恥を覚えるのはいい。ただ、現実的にあのような扱いを受けている彼女を無視して自分のプライドを守るのは、正しいのだろうか。それが救いになると納得して奪い取ることは、正しいのだろうか。
「な、名前!」
「はいっ。メルトーリカと申します!」
「じゃあそのっ、メルト!」
「はい!」
「顔……あげてくれるかな?」
恐る恐るこちらに顔を向けたその表情に、その濡れた瞳にドキリとする。奴隷として過酷な経験をしてきたんだろう顔つきはやっぱりやつれていて痛々しい。でも、渇いた唇やこけた頬を補って余りあるほど、メルトは魅力的な女性だった。
浅黒い肌は別としても、俺にとっては黒髪や黒い瞳は見慣れたものだ。本当にこの世界の人間であるなら、エキゾチックだとか言うんだろう。が、俺から見るとそれはとても当たり前の、安堵する類の色で。
短い時間だけど、話していて真摯な性格はよく分かったし、好感も持ってる。男としての抗いがたい本能というのも、当然あった。
どうしたって見てしまう彼女の身体は、女性的な魅力に溢れている。やつれ、傷付いた身体が否応なく保護欲を掻き立てる。
引っ掛かっているのは結局、善人ぶりたい俺の見栄だった。
それで、逃げるような言い訳を口にした。
「俺はさ、今、ちょっと別の理由があって混乱してる。もしかすると、明日からは今日あったことも忘れちゃってるかもしれないんだ。ずっと君を守っていけるかどうかもわからない」
「それでも構いません。お慕いしております、ハイリア様」
「っ――!」
それはきっと、行為へと進む為の嘘だったのかもしれない。
吸い込まれるように手を差し出した。
触れ合った掌は硬く、ささくれ立っていて、俺の心を引っ掻くソレを思わず両手で包み込んだ。
「ありがとうございます」
優しさに。
手を引いて、メルトを立ち上がらせる。
陽の光が窓から差し込んでいて、床に映った木々の影が揺れた。周囲を意識していられたのはそれまでで、彼女の深い黒の瞳と見つめ合った途端、もう彼女しか見えなくなった。
目を瞑ったメルトへ顔を寄せ、彼女の香りに心が震えて、
ばーん、と。
「お兄様! お兄様が奴隷を部屋に連れ込んだという噂を耳にしましたがまさか本当にそのようなことを!?」
開け放たれた扉の前でアリエスが、ハイリア=ロード=ウィンダーベルの妹、アリエス=フィン=ウィンダーベルが石のように固まった。
そして俺は全てを理解した。
あんのクソババアァァァァァアアアアアアアアアアアアアアア!
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