その後

 僕は今日の出来事を、お刺身の並んだ食卓で花奈に話した。


「実際のところ、その人がどうしているのか分からなかったよ」


 たっぷりの鰹節をかけた新玉ねぎのスライスを小皿に取っていた花奈は、首を傾げた。


「でも、元気にしてるって言っていたなら、元気にしてるんじゃない?」

「でも空を見上げてたし、その後言葉を濁していたからさ……」

「うーん。ただ単に個人情報だから詳しく話さなかっただけなんじゃない? あの美少女に似ていたなら、絶対に今は美人だろうし」

「え? それって僕がストーカーに見えたって事?」

「いやいや、そうじゃないけど。そうなる人も中にはいるから、用心してるんじゃないの?」

「そんなもんかな……」

「まあ、謎が解けて良かったじゃない」


 花奈は買ってきた鯛のお刺身をたっぷり醤油をつけて口に運び、んーっと美味しそうに目を瞑った。

 僕もこれ以上はこの話を続けても進展がない事がわかっていたので、花奈の言う通りに買い物をしていたおかげで不審者認定されずに済んだ話をすることにした。



 その日の夜、ベッドに入ると僕は遠い昔の、あの日の出来事を思い出していた。


 あの日はもうあと数日で卒業式という日で、学校全体がどことなくソワソワしていた気がする。


 まだ低学年だった僕は、六年生の人たちがとても大人に見えていて、ああ、この人たちが学校から旅立ってしまうんだなとぼんやり認識していた。それでも、そこまで深く関わりのある六年生はいなかったから、自分にとっては無関係なイベントだと感じていた。


 しかし、そんな僕にある出来事が待ち受けていた。


 当時通っていた学校は、教育方針の一環で他学年交流というのをやっていた。他学年交流というのは、少し離れた学年が合同で様々なレクリエーションをするものだった。


 その交流で、僕はひとりの男の子と仲良くなった。

 その子は五年生で、二年生の僕にとっては兄のような存在だった。いつも合流する時に、小さく胸の前で手を振って嬉しそうに笑う姿が、学校の中で年上に認識されているという誇らしさと、自分だけに向けられている好意ということで、僕の心を満たしていた。


 それなのに、その子が今回の卒業式のタイミングで遠くに引っ越してしまうということを聞かされたのだ。


 偶然、学校の昇降口で会って、その話を僕に伝えたその子は、いつものふんわりと包み込むような優しさがなく、少し壁がある雰囲気だった。


 今振り返ると、これから転校する彼の不安を理解できなかった自分は幼かった。新しい環境、新しい学校で生活が始まるのだから、期待と不安で緊張するのは当たり前なのに。

 だけど、当時の僕は居なくなるだけでも寂しいのに、その子の少し冷たいような態度がさらに悲しく感じて、「元気でね」と言われたのに、下を向いて頷くだけしかできなかった。


 来年も一緒に色んな行事で遊べると思っていた僕は、本当に悲しくて、その日、まっすぐ帰る事ができなくて、少し遠回りをして、普段は行かない他学区まで来ていた。


 そこで、心細さが身体中を占めていき、ボロボロと涙が溢れた。


 子供の自分には、この別れをどうすることもできない。

 それだけはわかっていた。だから泣くしかなくて、悲しくて、悔しくて、ただただ悲しかった。



 立ち止まって下を向いて泣いていると、視界に水色のワンピースからのぞく白い足が見えた。靴は男の子が履くような少しカッコいいスニーカーだった気がする。

 顔を上げると、そこには可愛らしい女の子の顔があった。その子は心配そうに僕を覗き込んで、少し首を傾げて、「悲しいの?」と聞いてきた。その言葉に、さらに涙が込み上げてきた僕は、思い切り握った拳でゴシゴシと目を擦った。


「これ、あげるから。元気出して」


 そう言って、女の子は後ろ手に持っていた淡いピンクの花を差し出したのだ。僕はその可愛らしい小花を見て、なんだかとても温かい気持ちになったのを、今でも覚えている。心細くて悔しくて悲しかったはずなのに、その花のおかげで胸の辺りがほんのり温かくなった気がしたのだ。


 その花を僕がおずおずと受け取ると、その子は嬉しそうに歯を見せて笑い、くるりとワンピースを翻してどこかへ走っていってしまった。


 それっきりだった。


 あの後、何度かそこに行ってみたけど、会うことはできなかった。そして、結局僕自身も引っ越しすることになり、すっかりこの事を忘れていたのだ。


「今、どうしているかはわからないけれど、あの時、お花をくれてありがとう。あの時は悲しい気持ちと嬉しい気持ちがぐちゃぐちゃで、何も言えなかったけど、本当に嬉しかったよ。ありがとう」


 そう心の中でお礼を言って、僕は眠りについた。



 ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー



 ある夫婦の会話


「今日、公園であの子に似た女の子にお花をもらった事があるって男の人に会ったわ」

「え? 今頃?」

「そうなのよ。わたしビックリしちゃった」

「当時はよく色んな男の子が訪ねてきてたけど、二十年以上経ってからなんて凄いな」

「あの子を見て驚いていたから、わざわざ訪ねてきたわけじゃなくて、偶然だったのかもしれないわ」

「そうか。しかし兄貴も罪な奴だよな」

「あ、それね。ショックを与えるといけないから、義姉ということにしておいたわよ」

「え? ああ、そうだよな。今になって、あの時の少女は男でしたって言われても混乱するだろうしな」

「ええ。それに海外でフローリストやってるから、取り敢えず遠くで元気にしてるって伝えたわ」

「まあ、言ってることは間違ってないか」

「会いに行かれたらどうかと思ったから」

「そうだな……」

「あの頃の兄貴は人を喜ばせたり驚かせたりするサプライズが本当に好きだったからな。それにばあちゃんも共犯で楽しんでたから、毎日大変だったよ」

「でも、基本的に人助けだったんだからいいじゃない」

「まあ、そうなんだけどさ」

「でも、この前のビデオ通話で、お義兄さんにその話を聞いたせいで、あの子、真似するようになったのよ」

「え? それはこのご時世だし、やめさせた方がいいんじゃないか?」

「そうなんだけど、ほら、あの子、言い出したら聞かないでしょ? だから私が渡してきて良いよといった人に、庭のサクラコマチを渡すようにしてるわ」

「ああ、君が見ていてくれるなら安心だ」

「お義兄さんのこともあるから、基本的には女の子か女の人にしてるわ」

「はは、そうだな。あの頃は兄貴に告白しにくる男の子が後を絶たなかったからな」

「ヘアドネーションをするからって、髪まで長かったんでしょ? あの写真のお義兄さんは、紛れもなく美少女よ」

「だな」

「でも、なんでワンピースなんて着てたの?」

「あれはばあちゃんだ。洋裁に凝ってた時にお友達のお孫さんにあげるのに、サイズが一緒だった兄貴に着せて裾とか調整してたんだけど、兄貴もみんなが似合うって褒めるから、その気になって自分の分も作ってもらってたんだよ」

「だからかー」

「ばあちゃんも自分の服を着てくれるからって、張り切っちゃってさ」

「それで、あの美少女が完成したのね」

「ああ」

「まあ、うちの子も同じくらい美少女だけどね」

「そうだな。あの頃の兄貴によく似てるってみんなから言われるけど、うちの子の方が可愛いな」

「ふふふ、あなたも親バカね」





 了

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さくらこまち 綿貫灯莉 @senshi15

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