第3話 星屑の魔女が人間を愛してはいけない
男は、四歳前の記憶を持たない。
思い出せる一番早期の記憶は、星屑の魔女との出会いだった。
場所はよく覚えていない。どうしてそこにいるのもわからない。汚い幼子は膝を抱え、震えながら座っていた。ボロボロな腕時計と共に。
「あれ」
強い風と共に、綺麗な女性の声が聞こえた。そして次の瞬間、誰かに抱き上げられた。
美しい金髪の女性が両腕で幼子を持ち上げ、気さくに揺るがした。
「こらー、生きてるー?」
幼子が小さな泣き声を上げた。金髪の女性が「おお、生きてる生きてる」と満足げに呟いた。
その後、金髪の女性が脇で幼子を抱えながら、星屑の国に戻った。その光景を見た民は、誰も目を疑った。
「星屑の魔女様。この汚い幼子は?」
「拾い物」
「変な物を拾わないでください」
「物呼びなんてひどくない?立派な人間よ!そもそも私の勝手でしょ!」
金髪の女性が口を尖らせながら言い返し、幼子をキノコの形の家の前に連れた。
まだ混乱している幼子を下ろすと、彼女が家に指差す。
「今日から、ここが君の家よ」
「……家?」
この言葉で何を思い出したのか、幼子は小さな体を震わせた。
それを見た金髪の女性がしゃがんで、幼子を抱きしめた。身につけている綺麗なロープが汚されるのを、気にすることもなかった。
「そうよ、このキノコの家は私の家。君が大人になるまで、私が面倒を見てあげるから、ここも君の家になるわ」
しばらくして、幼子の震えが止まった。
金髪の女性が幼子の頭を撫でた。
「手を差し出して」
幼子は躊躇いながら、両手を差し出した。ボロボロな腕時計を彼の掌に乗せて、金髪の女性は両手で包み込んだ。
「ほら。腕時計が直ったわ」
掌を開くと、新品同様な腕時計がそこにいた。
「……!」
幼子が目を見開くほど驚くと、金髪の女性が自慢げに言った。
「この腕時計に、修復の魔法を使ったのよ」
「……まほう?」
「そうそうー、すごいでしょ?君も魔法の素質があるから、私の弟子になってね」
「……ど、ういうこと……」
「うん、簡単に言うとね。これから、ずっと一緒にいるってこと」
金髪の女性の華やかな笑顔に、幼子は完全に見惚れた。
「さて、自己紹介でもしようか。私は星屑の魔女、イリス。君の名前は?」
あの日、四歳の幼子が本物の「星屑の魔女」のイリスと出会った。
イリスは幼子に「リッヒ」と名付けた。かつて飼っていた黒猫の名前だ。
出身不明なリッヒだが、イリスは一目で彼の魔法素質を見抜いた。だからリッヒを星屑の国へ連れ戻し、彼を育てながら魔法を教えた。
あっという間に、十数年の時が流れた。青春期に入ったリッヒはどこかひねくれで、言葉遣いも荒くなった。
「イリスにとっての僕って、道端で拾った子犬や子猫みたいなもんだろう」
イリスは変化のない姿で、不思議そうにリッヒを見た。
「道端の子猫や子犬がリッヒみたいな魔法素質を持たないじゃん。君は私がこの大陸で見つけた、たった一人の魔法を使える人間なんだよ」
「……もういい。馬鹿馬鹿しい」
そばかすの少年はムカつきながら、薬草採りの作業を再開した。しかし、イリスが後ろから彼を抱きしめて、耳元で甘い声で囁いた。
「リッヒ、どうして最近、一緒に風呂に入ろうとしなくなったの?」
「どうしても何もない。手を放せ」
「小さい頃は毎日、一緒に入ろうっておねだりしてたのに。黄色い鴨のおもちゃと一緒に入るし……」
「……イ、リ、ス!」
リッヒが星屑の魔女の手を振り払って、真っ赤な顔で叫んだ。
「僕はもう十七歳だ!子供扱いするな!それと、夜中で僕のベッドに潜るな!」
「ええー、でも私、一人で寝るのこわーい」
「ふざけてんのか?」
恥ずかしさと苛立ちで、少年は手元の薬草を星屑の魔女に投げた。
しかし彼が思わなかったのは、手に着けていた古びた腕時計も紐を外し、勢いでイリスの方に飛んだ。
イリスが笑顔のまま、腕時計を受け止めた。
「これ、また壊れちゃったの?」
「そもそもデザインが古くて、壊れやすいだろ。後で僕が自分で直す――」
言い終わったとき、イリスがもう修復の魔法で腕時計を直して、リッヒに差し出した。
「はい。大事にしてね」
「……あっ、うん。ありがとう」
正直、リッヒがこの腕時計に思い入れがない。出会ってからも二回壊れたが、イリスはその度にすぐに修復した。
直さなくてもいいのに、イリスが何故か毎回必ず腕時計を修復する。
訳が分からないが、こういうことで意地を張っても意味がないため、リッヒはいつもイリスの好意を受け入れることにした。
直った腕時計を腕に着けて、二人は言い合いながら薬草採りを再開した。
思い出せば、リッヒの人生で一番平和で、幸せな時期だっただろう。
しばらくして、青春期が終わった。
そして彼は気づいた。師である、育ての母でもあるイリスに、自分は恋愛感情を抱いている。
気付かれてはいけない。普段通りにイリスに接さなければならないと、リッヒが自分に言い聞かせた。
イリスは星屑の国の象徴だ。不老不死で、永久に若い星屑の魔女。それに対して、リッヒはただの魔法を使える人間。一般の人間と同じで、いずれは老いて死ぬ。
星屑の国にとって、星屑の魔女は必要だ。星屑の魔女が汚されることは決して許されないーー種族も身分も違う二人は、結ばれるわけがない。
リッヒの願いは、いつまでもイリスと一緒にいることだけだ。イリスの傍を離れず、一緒に居られれば、彼の人生に悔いはない。
しかし、幸せな日々も彼が二十五歳の年で、急に終わりを迎えた。
丁度今から二十年前だった。イリスは急に「電灯の国と国交を樹立する」と国民に宣告して、全ての事柄を一人で推し進めた。
それから、何かがイリスから力を吸い上げたように、彼女はみるみるうちに衰弱していった。
二ヶ月後のある日、イリスは薬を調合するリッヒを呼び止め、静かに告げた。
「私、妊娠したの」
唐突すぎた知らせに、リッヒは固まった。凍てついて、頭が空っぽになった。
彼の記憶では、イリスは毎日自分と一緒にいる。相手になるような男など、見たこともなかった。勇気を出してイリスを問い詰めたが、返事は「心配しないで」との一言だけだった。
イリスは隠し事をしている。子供の父親を教えない。この事実に、リッヒは息もできないほど苦しくなった。
イリスの体は衰弱していく一方だった。ベッドで横たわることしかできず、毎日リッヒに看病してもらっていた。
やがて、この件は国中に伝わった。国王が国民をキノコの家の前に連れて、子供を諦めるように、イリスに懇願した。
「星屑の国にとって、星屑の魔女様はなくなってはならないお方です」
「どうか、お体を大事に」
国王や民が涙を流しても、イリスは譲らなかった。無言で佇んでいるリッヒに、彼女は指を差した。
「心配しないで。リッヒがいるよ」
リッヒは何も言わなかった。沈黙と我慢に徹して、日々悪化するイリスを看病するだけだった。
やがて、イリスが健康な女児を生んだ。
指を動かす力すら失った魔女は最後の意識で、傍に置かれた我が子を見つめた。そして目に涙が滲み出し、幸せそうに笑った。
しばらくして、星屑の魔女イリスは息を引き取った。
リッヒの世界が崩れた日だった。
国中が深い悲しみと不安に陥った。そしてイリスの遺物を整理する際、リッヒはとある予言書を見つけた。
亡くなったイリスが言っていた。建国時に作られたこの魔導書は自動的に運行していて、作り主の星屑の魔女でさえ、内容を予測できない。
目が赤く腫れるほど泣いたリッヒは、何気なく予言書を開いた。適当に開いただけだったが、二つの予言があった。
『魔女は異国の人間に恋をする』
そして、次のページに。
『魔女が子供を産み、命を落とす』
一番新しいページに載せた予言だ。間違いなくイリスのことを指している。
リッヒが予言を睨めながら、唇を嚙み締めた。心臓が抜け出されるほど痛かった。
イリスは自分が死ぬことを知っていた。それでも何も言わずに子供を産んで、運命を受け入れた。
愛するイリスを責めるなど、リッヒにはできない。既に叶った予言を睨めながら、彼はその二言を胸に刻み込んだ。
『魔女は異国の人間に恋をする』と、予言書は書いていた。イリスが国を離れたのは、電灯の国との平和条約を結ぶ時の数日だけだった。
あの儀式に、両国の人間が列席していた。きっとイリスはあの数日で電灯の国の誰かに出会えただろう。
あの男がイリスの心を奪い、子供を産ませて、その命を間接的に奪った。
最愛の人、人生において唯一の光を奪われ、リッヒの憎しみは頂点を達した。
リッヒの嚙み締めた唇から、血が滲んだ。
妬み、恨み、苦しみ。リッヒはあらゆる感情を、イリスが恋した男にぶつけた。
復讐してやる。あの男を見つけ出し、電灯の国諸共に代償を払わせてもらう。
狂おしい憎しみに支配されたリッヒが、すぐに行動した。
彼はまず王に嘘をついた。<電灯の国が星屑の国を侵攻する>という偽りの予言を見せ、慌てる王に結んだばかりの平和条約を破ることを進言した。
星屑の国は戦争向けの魔法道具を開発していなかった。国中もまだイリスを失った悲しみと失意に陥ているため、国力も戦力も低迷していた。
この状態での侵攻は、あまりにも無力だった。
電灯の国を攻め落とすのは無理だと分かった直後、リッヒは魔法結界で国を閉鎖することを決断した。不本意だが、復讐は準備が整えるまで待つしかない。
その時、民は星屑の魔女の亡き形見の扱いに困っていた。リッヒが自分を奮い立たせて、その子に会うために王宮に足を運んだ。
金色の髪と美しい青い瞳を持つ子だ。この子がイリスの命を奪った張本人だと思うと、身も心も衰弱していたリッヒは凄まじい吐き気に襲われ、意識を失った。
イリスの娘と向き合うこともできず、リッヒと国王は彼女を国の修道院へ送って、様子を見ることにした。
その際、リッヒはその子に「エスター」と名付けた。
四年後、リッヒ修道院から報告を受けた。幼いエスターが無意識に魔法を使い、高度な魔法素質を見せたと。
もう、これ以上エスターを無視するわけにはいかない。
リッヒは四年ぶりに修道院を訪ね、イリスと瓜二つの顔を持つ幼い少女を見た。
気が付いたら、リッヒはエスターを弟子に誘っていた。
そして不安になった。エスターが自分を拒むのが怖かった。
それでも、エスターが頷いてくれた瞬間、リッヒの心に小さな決意が芽生えた。星屑の魔女を失っても、星屑の国は魔法から離れられない。それなら、エスターを星屑の魔女の後継者として育て上げようと、リッヒは決めた。
エスターのことを、自分の娘のように接した。他の国民と全員で口裏を合わせて、真実を隠しながら、大事に育てた。
イリスがリッヒを育ち、リッヒがエスターを育った。エスターは期待を裏切らず、優秀な魔法使いになった。
一緒に暮らすうちに、エスターはリッヒの破滅した人生で唯一の気掛かりになった。金髪少女が華やかな笑顔を見せる度、リッヒは複雑な気持ちになる。
エスターが十五歳になった年、リッヒと星屑の国の運命は再び動かされた——エスターが星屑の国の外へ出り、異国の男に出会った。
少女からこの話を聞いた瞬間、リッヒは亡くなった星屑の魔女を思い出した。
彼女の母は異国の男に出会ったことで悲しい結末を迎えた。そして今、エスターも異国の男に出会った。まさに同じ事が起きようとしている。
同じ悲劇がエスターに起こることを、リッヒは決して許さない。
暫しの思考の後、リッヒは躊躇わずに、強制昏睡魔法でエスターを攻撃した。
そして彼は王を呼び出して、全国民に知らせた。
「今日から、僕は眠ったエスターに捏造した記憶を植え続ける。目が覚ますとき、彼女はきっと自分を星屑の魔女と思い込むだろう」
反対する民もあったが、リッヒが冷たく言い返した。
「諸君は星屑の魔女の悲劇を、エスターに繰り返させたいのか?」
王を含めた全員が沈黙した。
「星屑の国は魔法の国だ。我が国は『二度と』魔法を失うわけにはいかない——エスターは星屑の魔女の唯一の子孫であり、我々の希望だ」
学者のような中年男性は暗い顔で、唇を動かした。
「諸君、現実を受け入れろ——たった今、エスターは我々の『星屑の魔女』になった」
しかし、リッヒは記憶を操る魔法を扱えない。彼にできるのは、その下位である「記憶を上書きする魔法」をエスターに掛け続けることだけだった。
エスターが眠る間、リッヒは気づいた。正体不明の地下組織が手紙などの遠隔手段で、情報を集めようとしている。しかし彼は敢えて相手を泳がせて、正体を探った。
その結果、電灯の国の手先であることが分かった。
どういうつもりなのかは分からない。だが、それはどうでもいい。
リッヒはただ、調査結果を誇張した形で王と民に報告した。
電灯の国はまだ星屑の国を諦めていない。星屑の国を攻め落とすために、地下組織で情報を集めていると。
地下組織の正体を知って、依頼した民は情報を漏洩したことに、後悔と怒りを覚えた。しかしリッヒは彼らを責めなかった——逆に相手の策に乗って、偽物の情報を流そうと提案した。
これで、リッヒは電灯の国に対する憎しみと敵意を完全に煽った。
国中で様々な準備を進めた——戦争用の魔法道具を開発して、衛兵団に厳しい軍事訓練を行った。さらに国民に人を傷つける魔法道具の使い方を学習させて、いつでも戦争を始められるようにした。
思えばあの時から、星屑の国は引き返しのない歪みに落ちたのだろう。
五年後、目覚めたエスターが偽物の記憶を自分の記憶と信じ込んで、国の象徴である「星屑の魔女」になった。
半年後のある日、リッヒが外出中に腕時計を海へ落とした——イリスが直してくれた腕時計だった。
最初、リッヒは取り乱して、腕時計を回収しようとした。しかし底の見えない海を見ると、様々な感情が脳内から浮かび上がった。
これはチャンスだ。あの地下組織を星屑の国の中へ誘い込めば——電灯の国の真意が分かり、開戦の言い訳に変える。
復讐のためなら、リッヒは腕時計を利用することを厭わない。
リッヒはすぐに行動した。まずは地下組織に接触して、近距離で相手の動きを観察しようと、キノコの家の郵便箱に組織のパンフレットを入れた。
やはり、エスターが引っ掛かった。勝手に地下組織に連絡し、腕時計の回収を依頼した。
攫われた時、リッヒはすぐに決断した。相手の策に乗ると。
言われたままに結界を解除し、潜水艦を星屑の国の領海に入らせた——これで、国民を煽り立てる開戦理由を手に入れた。
それに、エスターはきっと黙っていない。呪いの魔法が得意な彼女にとって、電灯の国の潜水艦はただのおもちゃだ。潜水艦が呪いで止まれば、脱走のチャンスがきっと訪れる。
その後、電灯の国の人がやはり自らリッヒを連れて上陸した。リッヒは眠ったフリをして、敵の動きを見ようとした。
しかし、予想外の事件が起きた。
キノコの家の部屋に設置していた魔法陣が反応した。エスターは自分の部屋に入って、あの予言書を探そうとしている。
予言書に、本物の星屑の魔女の運命が書かれている。偽物の魔女であるエスターが予言書を見たら、きっと記憶の混乱を引き起こし——リッヒに騙されていることに気付くだろう。
そこを思うと、リッヒの頭が真っ白になった。気が付けば、彼はもう「脱走」して、キノコの家に戻って、エスターに強制昏睡魔法を撃った。
考える暇もなく、リッヒが王宮に行き、王と国民に告げた。
電灯の国が自国に侵入した。もう、反撃する以外の道が残されていない。
王が民を率いて出発した後、リッヒは強制昏睡魔法が解けられたのを感じた。
どうやってかは分からないが、エスターが間違いなく目覚めた。
この時点で、リッヒは予感していた。エスターがそのうち、自分の出自を知るかもしれない。
そうなれば彼はもうエスターと暮らせなくなるだろう。
師弟でありながらも、父娘のような穏やかな日々が、泡沫のように消える。
しかし復讐する一心のリッヒにとって、未来のことなどどうでもいい。
リッヒが予言書を片手に持ちながら、王宮議事堂の窓から夜空を見上げた。顔に表情はない。
今、衛兵団と成年の民が国境線に向かって、電灯の国に攻撃を仕掛けようとしている。
侵攻の際、リッヒは王宮内の大型魔方陣を使って、遠距離からサポートするつもりだ――彼は長年を掛けて、この魔方陣を用意した。
二十年の長かった復讐を、ついに成し遂げられる。
リッヒが手を伸ばし、そっと窓を触った。恨みと切なさが瞳に溢れたまま、静かに呟いた。
「イリス」
「僕は今でも君を思い出す」
「ひと時もこの恨みを忘れなかった」
言い終わった瞬間、窓が破裂した。自分に向かって飛んでくるガラスの破片に眉も動かさず、リッヒは暴風魔法で破片を吹き飛ばした。
ガラスの破片の嵐の中、一つの影が何事もないように、優雅な動きで議事堂に着地した。
空飛ぶホウキを持つ金髪の女性が、リッヒの魔法を軽々しく打ち消した。
「エスター」
リッヒが浅い笑みを浮かんだ。
「挨拶にしては、乱暴すぎではないのかね」
「先に攻撃したのはリッヒでしょ!一体どうして!」
「どうしても何もないさ。あの預言書が一度誤った予言を示した。君が二度と傷づけるのを、見たくなかった」
「嘘はもういいよ、リッヒ。私はもう知っているわ。私は星屑の魔女じゃない。ただの魔法使いって」
「そうか……君は記憶を取り戻したんだね」
エスターが記憶を取り戻したことを知っても、リッヒの声は冷たかった。
エスターのことなど、どうでもいい。そう言っているような態度だった。
十数年も一緒に暮らしてきた家族のこんな顔を見て、エスターの心は張り裂けそうになった。
それでも、彼女には大事な役目がある。
「リッヒ。電灯の国は星屑の国を侵攻するつもりがないわ。捕らえられたあなたには悪いと思うけど……まずは彼らと話を——」
「エスター」
リッヒが無情にエスターの声を遮った。
「もう手遅れだ。僕は電灯の国を恨んでいる。あいつらを痛い目に遭わせ、僕の苦しみを思い知らてやると、二十年前に誓ったんだ」
ザーヴィルの言う通りだった——リッヒは電灯の国への侵攻を企んでいる。
でも、どうして。どうしてここまで電灯の国を恨んでいる?
エスターはどうしても理解できない。
その時、リッヒは何かに気付いたように、ゆっくりと手を伸ばして、掌を後ろの隅に向けた。
「ネズミが入り込んだな。よそ者に、僕とエスターの会話を邪魔させたくない」
大きな爆発音がした。リッヒが炸裂魔法を撃ったからだ。
濃い煙とほこりが舞い上がった。
時は二時間前に遡る。ザーヴィルから衝撃的な事実を聞いて、エスターは絶望だった。
リッヒが今まで自分を騙し、二回も攻撃した理由が分からない。これからどうすればいいのかも分からない。
ザーヴィルがエスターに落ち着かせて、彼なりの推論を言った。電灯の国がリッヒを攫い、星屑の国の領海に侵入したのは事実だ。しかし思い返せば、まるでリッヒが電灯の国をわざと国境内に入らせ、両国の争いを引き起こそうとしているようだった。
「電灯の国は対話を望んでいる。できれば、もう一度平和条約を結びたい」
ザーヴィルから電灯の国の本意を聞いて、エスターが考え込んだ。
「……星屑の魔女ではない私が、星屑の国を代弁できない。でも、平和条約を提案した星屑の魔女は、きっと両国の争いを望んでいないと思う」
金髪の女性が胸を撫でおろして、決意を込めた声で告げた。
「私はまだ未熟な魔法使い。それでも、星屑の国とその民を守りたい。何としても両国の戦争を止める」
「——私は、リッヒを止める」
エスターの答えに、ザーヴィルが頷いた。
「それなら、俺も君と一緒に行こう」
ザーヴィルが持ち前の行動力で、すぐに計画の策定に取り掛かった。エスターはリッヒの居場所を探すことに専念して、部下たちに「電波が届く場所を探し、現状を軍の本部に報告するように」と指示した。
潔く指示を出すザーヴィルの姿に、エスターは思わず驚いた。そして何かに気付いたように、躊躇いながらモジモジと尋ねた。
「ザ、ザーヴィル。私と一緒に行くって……本当に大丈夫なの?」
ザーヴィルが静かに問い返した。
「何が?」
「だって、リッヒに会うと危険な目に遭うかもしれない……」
エスターはザーヴィルを見ることを避けるように、視線を横に向いた。
彼女に心の準備をする時間も与えず、ザーヴィルが静かに答えた。
「こんな土壇場に、俺は君から離れない」
「え。それは、どういう意味……」
「エスターの実力を疑っているわけじゃない。でも君って、案外危なっかしいところがある。だから俺が隣でサポートする方が安心する」
「……」
エスターは不満げに頬を膨らませた。よく見れば、耳も微かに赤くなっている。
「君に予言書を触れさせないためだけに、リッヒはこの家に戻って、君に昏睡魔法を撃った。その予言書に、きっとなにか訳がある――だからチャンスがあれば、予言書を取り戻してみてくれ。エスター」
「……わかった」
「エスター?」
「わかったって言ったでしょ。リッヒを捜索したいから、声をかけないで」
エスターの機嫌が急に悪くなったと感じて、ザーヴィルはそれ以上何も言わなかった。ただいつも通りに、静かに彼女を見守った。
夕方、エスターがようやくリッヒの居場所を突き止めた。王宮の議事堂だ。
そして、王が衛兵団と成年の民を率いて、電灯の国との国境線に進軍する姿も確認した——ザーヴィルの推理は正しかった。
王宮に入る前、ザーヴィルは光学迷彩装備で身を隠すことを提案した。リッヒに気付かれないところに居る方が、エスターをサポートできる。
そして、今。
「ザーヴィル!」
エスターが慌てて叫んだ。濃い煙が視界を遮り、ザーヴィルの咳き込みだけが響き渡った。
ザーヴィルの戦闘服がボロボロに破損して、体中にやけどの傷がある。負傷が一番酷い腹部を押すだけで精一杯だ。
予想と違って、リッヒはすぐにザーヴィルに気付いて、容赦なく攻撃した。
「ザーヴィル、大丈夫!?」
ザーヴィルの姿を確認できるまで、エスターは身動きを取れなかった。
その一方、ザーヴィルはリッヒの攻撃から狂気を感じ取った。リッヒの実力は身をもって知っている。今の状況は自分たちに不利だ。
それでも、エスターに預言書を奪うチャンスを作ることに成功すれば、逆転できるかもしれない。
煙が散った時、ザーヴィルは手の動きでエスターに告げた――心配するな、と。
そして、彼が声を上げた。
「俺はよそ者じゃない——五年前にエスターと会ったことがある。彼女とは知人だ」
ザーヴィルの声が議事堂に響き渡った。
「そうか。貴様が、エスターの人生を乱したネズミだな」
リッヒがゆっくり、ゆっくりとザーヴィルの方に首を動かした。目に強い嫌悪が宿っている。
ザーヴィルは返事をしなかった。視線がリッヒではなく——その向こうにいるエスターに向けている。
ザーヴィルと目が合った瞬間、エスターはザーヴィルの推測を思い出した。予言書を奪うなら、今がチャンスかもしれない。
ザーヴィルが命懸けで作ったチャンスだ。逃すわけにはいかない。
エスターはすぐに物を奪い取る魔法を発動して——予言書を奪った。
予言書がエスターの方に飛んで、ゆっくりと彼女の掌に降りた。予言書に接触した瞬間、小さな星屑がエスターの指先から溢れ出した。
どういうわけか、エスターの表情が一瞬で変わり、目が悲しみに染めた。
予言書が奪われたことに驚いて、リッヒがエスターに目を向いた。エスターは何も言わず、ただ涙の滲んだ目でリッヒを見つめた。
予言書に触れた瞬間から、エスターの様子がおかしい。
リッヒがすぐに気付いた。星屑の魔女がきっと、この予言書に何か仕掛けたのだ。
エスターが悲しんでいることを無視して、リッヒが尋ねた。
「エスター。星屑の魔女……イリスが予言書に何をした!教えろ!」
エスターが震えながら唇を噛み締めて、答えなかった。
その時、隣から不機嫌な声が響いた。
「——ここまで来て、まだ星屑の魔女しか頭にないのか」
リッヒが二度もエスターを攻撃して、記憶を植えたことを知った時から、ザーヴィルはずっと怒っていた。静かな怒りが宿っている。
リッヒのやることが憎しい——エスターの「ありのまま」を抹消し、人生を奪い、負わなくてもいい責務を強要した。
今この瞬間だって、リッヒはエスターのことを見ていない。
ザーヴィルは、これをどうしても許せなかった。
「エスターは星屑の魔女なんかじゃない!」
赤い髪の青年の声が議事堂中に響いた。
「彼女は表情豊かで、少し危なっかしい、ただの人間だ。お前と同じで、魔法を使える魔法使いだけだ!それに——二人とも、左耳の同じ位置に痣がある。今まで一度も、エスターとの関係を疑わなかったのか?」
ザーヴィルの意味不明な言葉に、リッヒは眉をひそめ、うんざりした顔になった。
「もう貴様の戯言なぞ聞きたくない。これは僕とエスターの問題だ。ネズミが引っ込んでろ」
リッヒが赤い髪の青年にもう一度掌を向け、攻撃しようとした。
それでも、科学の国から来た青年は臆せずに叫んだ。
「俺の声が戯言と言うのなら、エスターの声を聞け!彼女が真実を教えてやる!」
言い終わった瞬間、リッヒが攻撃魔法を撃った。しかし透明な防御結界がザーヴィルを前に現れて、彼を庇った。
人も殺せる攻撃魔法が防御結界にぶつかり、砕けて散った。
エスターだ。彼女は走りながら防御結界を展開して、ギリギリでザーヴィルを守った。
エスターの動きに気付いて、リッヒはもう片方の掌を彼女に向けて、止めようとした。
しかしあの瞬間、リッヒは幼いエスターが笑顔で、自分に向かって走ってくる幻を見た。
胸の奥に抑え込んだはずの温かい思い出が邪魔して、リッヒが何もできなかった。
気が付くと、エスターはもう目の前に来た。
彼女は重い予言書を持ち上げ、リッヒの頭に向かって。
——全身の力で、ぶつけた。
「……!」
予言書の一撃を喰らって、リッヒは目眩でぶらぶらした。
二人の男性とも、予想をしなかった。まさかエスターが魔法を使わず、一番原始で乱暴な方法を取ったとは。
ザーヴィルはエスターの発想に驚きながらも、あまりの爽快さに、声を出して笑った。
リッヒの方はまだ目眩がして、状況を飲み込めなかった。
「エ、エスター……」
「リッヒ、もうやめて」
目に涙が滲みながら、彼女は鼻声でリッヒに怒鳴った。
「もう誰も傷つかないで……この、バカ親父!」
リッヒは両手を下し、全身の血が凍ったように立っていた。
「……エ、スター。今、なんと……」
「あなたは、私の生みの父よ——」
エスターが涙を擦って拭いた。青い瞳でリッヒを見つめながら、ボロボロな予言書を持ち上げた。
「私は、星屑の魔女とその助手の間に産まれた子よ。星屑の魔女が亡くなる前に、予言書に記憶を操る魔法を残した。彼女の血を継いだ者、つまり私が予言書に触れると——本物の記憶が私の頭の中に浮かび上がる」
「ありえない……こんなの、ありえない……!」
リッヒが声を荒げた。
「僕の記憶が間違えるはずがないだろ!イリスは電灯の国のとある男と——」
「リッヒ」
エスターの静かな声が彼を遮った。
「星屑の魔女が一番得意な魔法は何だったのを、忘れたの?」
この言葉に心当たりがあるようで、リッヒの顔は真っ青になった。
隣にいるザーヴィルも、説明を加えた。
「俺はお前とエスターに採血して、工具箱で血縁鑑定を行った。お前たちは、間違いなく親子だ」
エスターが頷いた。
「星屑の魔女……いいえ、母さんの予言書が私に、全ての真実を教えたわ」
星屑の魔女と瓜二つの顔を持つ魔法使いがゆっくりと唇を動かして、その過去を語った。
星屑の魔女は星屑の国の国境外で、一人の幼子を拾った。
幼子が優秀な青年に成長した時、星屑の魔女は彼の秘めた愛に気付いた。
星屑の魔女の人生は、長くも孤独なものだった。しかし青年と共に過ごした日々は愛に溢れ、生まれてから一番幸せな日々であった。
奔放な星屑の魔女が青年に求愛して、勇敢に告白した。
最初、青年は断った。二人の身分が違いすぎて、結ばれる未来はないと。
しかし魔女の押しに負け、青年は白旗を上げた。陽だまりの午後、魔女が青年の首に手を回し、抱きついた。
「愛してるわ、リッヒ。私のこと、愛してる?」
リッヒと呼ばれた青年が横を向いた。真っ赤な耳が何よりの答えだ。
「……ああ。僕も君を愛してる」
「僕の命で誓う。この世の誰よりも君を愛してる——君の傍から離れない」
欲しい答えを聞いた星屑の魔女——イリスは笑みのまま、顔を近づけた。
ブドウの葉を通した木漏れ日が、口づけを交わす二人の顔を照らした。
二人はずっと一緒に生活しているため、星屑の国の人々は二人の恋愛関係に気付かなかった。
熱愛中のイリスは、世界の全てが輝かしく見えて――今まで何とも思わなかった民の結婚式も、とても輝かしくなった。
彼女もこういう風に、周りに祝福されながら、リッヒと結ばれたい。
だからイリスは二人の関係を、リッヒの婚約と共に公開した。
しかし彼女の予想と違い、二人が受けたのは祝福ではなく、王を含めた全員の激しい反対だった。
「星屑の魔女様。あなたと彼の間には差がありすぎます。ただの普通な人間ですよ」
「星屑の国の象徴として、あなたは何よりも高貴で尊いお方です」
「あのガキが誘惑したのだな!あなたを汚しやがって!」
「あいつを駆逐しろ!」
「死刑にしろ!」
「死刑!死刑!死刑!」
民がこれほど露骨な敵意を示すのは、初めてだった。あまりの驚きと怯えで、イリスはパニックして、気づいたらもうキノコの家に逃げ帰った。
数十年前、酷い怪我を負ったイリスはとある小さな領地に流れ着いた。当時の領主と民はイリスを助けて、彼女を受け入れた。この恩を返すため、自分の居場所を守るため、イリスは領主の建国を手助けた。領主が王になった後も、魔法を民の幸せのために使った——星屑の魔女は、永久に星屑の国を守る。
しかし今まで仲良くしていた民たちに、あれほど利己的で恐ろしい顔があるとは。思いもしなかった。
その後は、もっと酷かった。リッヒがキノコの家から出れば、誰もが彼を嘲笑い、侮辱する。殴ったこともあった。「コイツを追い出せ」、「星屑の国から消えろ」と叫ぶ声が溢れ、魔法道具で彼を攻撃しようとする者さえいた。
リッヒは防御魔法で自分を守ろうとせず、あらゆる仕打ちを受け止めた。自分が我慢して、民を説得し続ければ、二人の恋はきっといつか受け入れられる。そう信じているのだ。
街から家に帰るたび、ボロボロなリッヒはいつも隠れて、自分を治癒していた。そして、何事もないような綺麗な姿でイリスの前に現れる。
何を言われても、何をされても、リッヒはイリスと別れようとしなかった。
「僕は誓った——君の傍から離れない。いつまでも一緒だ」
全てを知っているイリスは、心が張り裂けそうな思いだった。悲しく思うのと同時に、この状況になった理由が分からなかった。
どうして自分の行動はリッヒが傷つけられる結果に繋がるのか。どうすれば民に受け入れてもらえるのか。どれほど考えても、答えが出なかった。
その一方、彼女は星屑の国の民を厳しく罰することができなかった。彼女では、民の暴行を止められない。
ある日、イリスは自分の予言書が運行速度を上げたことを感じた。震える手で予言書を開くと、二つの新しい予言がいた。
『魔女は異国の人間に恋をする』
『魔女が子供を産み、命を落とす』
遠い昔に、イリスが聞いた——不老不死な魔女種が人間と子を作れば、出産と共に命を落とす。生まれた子供は魔女の魔法才能を引き継ぐが、寿命は普通の人間と同じになる。
予言書がいつも正しい。イリスは既に星屑の国の外に生まれたリッヒと恋に落ちた。だからきっと、子を産むと同時に人生を終えるのだろう。
イリスは自分の命を、永遠に星屑の国の民に捧げるつもりだった。責務を手放すなど、一度も考えなかった。しかし最愛の人に出会い、彼女は私情を持つようになった。
涙の雫がイリスの頬から零れ落ちた。死への恐怖ではなく、リッヒとの愛の結晶を授けることを知った喜びによるものだった。
自分が子供を産んで命を落せば、民たちはきっと全ての「罪」をリッヒに擦り付けるだろう。リッヒが無事に済むはずがない。リッヒが傷つけられるのを見るのは、もう嫌だ。
リッヒを、愛する恋人を守りたかった。この世を去る前に、リッヒと自分の子に生きられる道を残しておかなければ。
星屑の魔女は生涯で、最後の決断をした。
懐妊後、彼女は大範囲な記憶を操る魔法を発動した。流れ星の群れが雨のように星屑の国の夜空を横切り、リッヒを含めた全国民の記憶を変えた。
——これで、自分の亡き後も、リッヒがただの「助手」でいられる。たぶん、星屑の国を管理する役目を負うだろう。
だから彼女は記憶を改造された国王に、電灯の国との国交を提案した。
間もなく星屑の魔女を失う星屑の国は、もう魔法による完全な庇護を受けられなくなる。だから電灯の国と国交を深め、科学の文明を吸収することが、きっと星屑の国の存続に繋がる。
どういう運命の巡り会わせなのか。リッヒの故郷も、電灯の国だ。
あの時、イリスは見た。一人の中年女性が幼い彼を国境線近くの海辺に捨て、振り向うこともなく、電灯の国へ歩いて帰った。リッヒと共に残された腕時計は、科学の国の技術によるものだ。
リッヒは腕時計、そして自分の出自を気にしていないのは知っている。しかし遥か昔に故郷を離れたイリスは、どうしてもリッヒに故郷とのつながりを持たせたかった。
電灯の国との国交は今後、きっと国を管理する手助けになるだろう。
そしてイリスは最後に、一つだけの願いがあった——リッヒと愛し合った事実を、完全に消したくなかった。
だから彼女は最後の力で、予言書に小規模な記憶を操る魔法を残した。自分の血を引き継いだ子が予言書に触れれば、星屑の魔女とその助手が愛し合った記憶、および全ての真実を知る。
リッヒはいつかきっと、自分がこの子の父親であることを知るだろう。二人で支え合って、共に生きていてほしい。
全てを済ませたイリスは、ベッドに横たわるしかないほど衰弱した。彼女は穏やかな気持ちで、終わりの訪れを待った。
ある日の早朝、イリスは自分と似た顔立ちの女児を産んだ。
イリスは最後の力で、生まればかりの赤子を見つめた。左耳に小さな淡い痣がある。
リッヒと同じだ。同じ位置だ。
これは、運命なのだろうか。
イリスは目を潤ませた。
しばらくして、星屑の魔女は満足げに目を閉じ、息を引き取った。
全てを真実を語ったイリスの娘——エスターは、同じような潤ませた目で、リッヒを見つめた。
「リッヒ、あなたは自力で記憶を取り戻せる。だからきっと分かるはずよ。私は噓を言ってない」
「星屑の魔女は亡くなる前まで、平和を求めていた。あなたが生まれた国と、あなたが育った国の平和を望んでいたわ。あなたを愛しているから」
「もう復讐は止めて。私と一緒に王に真実を教えに行こう。私たちは絶対、戦争なんて起こさせてはいけない!」
エスターの言葉がリッヒの心に叩いた。
リッヒは無気力に頭を下げた。目が諦観に満ちている。
彼はもう魔法で確認した。エスターの言う事は本当だった。
イリスがリッヒを愛していた。だから星屑の国の全員を騙した。
リッヒがイリスを愛していた。だから星屑の国の全員と手を組み、エスターを騙した。
「ハハッ……」
リッヒが途切れる声で笑った。
遠い昔、イリスへの恋心が芽生えたばかりの頃。少年は心の奥底で、一筋の望みを持っていた。イリスも自分に恋をすること——星屑の魔女が愛を授けてくれることを望んでいた。
「みんなの言う通りだった。僕は望みすぎだ。イリスと愛し合うべきじゃなかった。イリスの命を奪った人間は、僕だ……!」
たとえ真実を知っても。
たとえ過去の望みを悔やんでも。
リッヒの憎しみは消えなかった。
自分のことが憎い。星屑の魔女のやり方が憎い。
愛憎がぐちゃぐちゃに交わり、中年男性は血眼ながら、頭を上げた。唇は血が滲むほど噛み締められている。
二十年前に世を去り、ここにいない星屑の魔女に向け、慟哭にも似た質問を叫んだ。
「イリス。初めて会った時、こう言っただろう——『ずっと一緒にいる』って。何故だ……何故嘘をついた!何故僕から離れた!」
——星屑の魔女よ、どうか愛を授けてくれ。ずっと一緒にいてくれ。
——君と共にいられるなら、何も怖くない。
「もう何もかも手遅れだ。僕は戦争を止めない。星屑の魔女を失った星屑の国は、滅びる運命だ」
最愛の人、生きる意味を失ったリッヒは星屑の国の未来を諦めた。彼は動かずに、虚ろな目で地面を見ていた。
しかし。星屑の国が星屑の魔女を失ったとしても、エスターがいる。
「ごめんね、リッヒ。私は星屑の魔女じゃない。母さんみたいな凄い魔女にもなれない」
「私にできることは、一つを教えるだけ」
エスターが予言書を開いて、リッヒに一番新しいページを見せた。
古びたページに、一つの新しい予言が記されている。
『落とした腕時計をきっかけに、新たな未来が訪れる』
リッヒは反応した。目を見開いて、ぼんやりと予言を見つめた。
エスターがローブのポケットから、古いデザインのひび割れた腕時計を取り出した。
リッヒの腕時計だ。故郷から持ってきた、出自に関する唯一の手掛かりだ。
イリスと出会った時、直してもらったものでもあった。
「リッヒ。大事なことを忘れちゃ駄目でしょ」
金髪の女性がリッヒの手を取った。ひび割れた腕時計を彼の掌に乗せ、自分の両手で包み込んだ。
数秒後、エスターが手を離した。
掌を開くと、新品同様な腕時計がそこにいた。
「ほら。『腕時計が直ったわ』」
当時のイリスと同じ言葉を聞き、リッヒの目から涙が滲んだ。透き通った雫が頬から零れ、腕時計の上に落ちた。
思い返せば、出会った時から――イリスは腕時計を直すことで、彼女なりの方法でリッヒを愛していた。
イリスはリッヒに「愛を授けられない」。はじめから、心よりリッヒを愛しているから。
たとえ種族や寿命でリッヒと添い遂げられなくても。リッヒに全てを隠す道を選んだとしても。世界中の誰よりもリッヒを愛していた。
彼女が遺した予言書が未だに運行している。未来への予言を示している。
リッヒが腕時計を落としたことをきっかけに、全員の人生が新たなページを迎える。
リッヒが何も言えなくなった。腕時計を見つめたまま、大いに涙を流しただけだった。
二十年の時を経て、中年男性がようやく心の底から泣けた。
エスターも泣きながら父親を抱きしめた。
この光景を見て、ザーヴィルが感慨した。
次の瞬間、彼はバタンと倒れ込んだ。
リッヒの最初の攻撃の時点で、ザーヴィルの腹部は重傷を負っていた。エスターに心配させないために、腹部の傷を押しながら、やせ我慢していただけだった。
その我慢が、今で限界を迎えた。
「……ザーヴィル?ザーヴィル!どうしたの……!目を覚まして!」
エスターの声が遠い。
そして、ザーヴィルは意識を失った。
*
目覚めた時、ザーヴィルはキノコの家の倉庫のベッドに横たわっていた。
気を失った間、エスターはリッヒと共に星屑の国の侵攻を止めて、国民に今まで二十年の真実を告げた。
真実を聞いた民たちは驚愕と混乱に陥った。それを見たエスターは、魔法で民の記憶を一人ずつ取り戻させた。
その一方、リッヒは罪人として軟禁された。誰にも会いたがらず、どんな罰でも受け入れると言っただけだった。
しかし王と一部の民は、全てをリッヒの責任にしてはいけないと考えた——最初から、イリスとリッヒの恋愛を反対するべきではなかった。だから議論の結果、リッヒへの具体的な処罰が保留された。
星屑の魔女が遺した唯一の血脈として、エスターは星屑の国を守る責務を期待されてい。
しかしエスターは星屑の国の象徴も、二代目の星屑の魔女になるつもりもない——普通な魔法使いとして、星屑の魔女が生前に望んでいた、電灯の国との国交を叶えたいと決めた。
今日、ザーヴィルはようやく、ベッドから降れるほど回復した。事の始末を報告するために部下たちを帰国させて、彼はもう少しここに留まることにした。
怪我の治療がまだ終わっていないこともあるが、主はエスターとじっくり話せる時間が欲しかった。
しかしエスターは国のことで大忙しくしていて、家にいるのは寝る時くらいしかなかった。
忙しいエスターを邪魔しないように、ザーヴィルは黙ってチャンスを待つことにした。この間、彼はキノコの家から出り、適当に大通りを散策した。
大通りの風景を見ながら歩いていると、ヒソヒソとした会話の声が後ろから伝わってきた。
「あの赤い髪の男は、エスターの恋人なの?」
「エスターに恋愛はまだ早すぎないか?」
「もう二十歳だろ。今回はしっかりとエスターを応援しよう。かつての過ちを、繰り返すわけにはいかないからな」
「にしても、この赤い髪の兄さん本当にかっこいいわ……」
などの会話が飛び交って、気が付くと、近所の民がザーヴィルを見るために集まってきた。降り注ぐ視線を気にすることなく、ザーヴィルは普段通りの無表情で――無表情で背中を掻くための魔法道具を購入して、無表情でレストランに食事を取り、無表情でキノコの家に戻った。
ザーヴィルが帰国する日、チャンスがやっと訪れた。エスターがわざと時間を作り、彼を国境線まで送った。
「ザーヴィル。本当に感謝しているわ。あなたは星屑の国の恩人よ。星屑の国と電灯の国の未来のために、これからも一緒に頑張ろう」
エスターが心にもない建前を並べた。どうすれば自然とザーヴィルと別れるかを、思いつかなかったからだ。
ザーヴィルと別れるのは初めてじゃないのに、今回は何故か寂しく感じてしまう。
ザーヴィルはスーツケースを持ったまま、エスターを見つめた。
「エスター。俺はこの前の件について、君に謝らなければならない」
「……え?何のこと?」
「君が危なっかしいとかを言ったが、あれはただの言い訳だった。結局、俺は君から離れたくなかっただけだ。すまない」
リッヒに会う直前に、二人が少し気まずい雰囲気になった件だ。ザーヴィルがずっとそれを気にしているとは思わなかった。
エスターが頬を赤らめた。耳が熱くなっているのも感じる。耳の外側が特に熱い。
「……あ、あの。一つ聞いてもいい?」
「どうぞ」
「ザーヴィルがどうして、私を探そうとしたの……再会したときだって、命を賭けて、私に真実を伝えようとしていた……」
エスターがもじもじしとザーヴィルの方を見て、視線を避けるように頭を下げた。
「理由その一。言ったこともあるはずだが、俺は星屑の魔女に興味はない。俺が気にしているのは君だけだ、エスター」
ザーヴィルがごく自然に彼にとっての「あたりまえ」を述べた。
「理由その二――」
ザーヴィルがふと手を伸ばし、三度目にエスターの髪を耳の後ろに整えた。
「君には『ありのままの自分』を貫いて欲しかった。星屑の魔女ではなく、エスターという普通な魔法使いとして」
理由はとても単純だった。電灯の国のザーヴィルは、星屑の国のエスターに深い愛情を抱えている。
だからあらゆる困難を乗り越え、エスターの元に駆けつけた。
だからエスターが「ありのままの自分」でいられるように、全力を振り絞った。
「……」
告白同然の答えに、エスターは全身が燃えるように熱くなった。穴があったら入りたい。
「ズルい、どっちの理由もズルいよ……まるで告白みたいじゃない……」
今まで無表情なザーヴィルの顔に、微かな苦笑いが浮かんだ。
「いや。これは正式な告白ではない」
「え!?ま、まだ正式な告白があるの!?」
「ああ」
遠い昔、星屑の魔女の恋人が心の底から星屑の魔女に乞った――愛を授けてほしいと。
幸い、エスターは星屑の魔女ではない。ザーヴィルも愛が授けられるようなものと考えていない。
「決して目標を諦めない」ザーヴィルが確信している。遠くない未来で、自分はエスターとより深い絆を築く。その時、二人の関係がきっとより先に進展するだろう。
正式な告白を先延ばしたが、真面目なザーヴィルは、不器用な魔法使いをもう少しからかおうと決めた。
「エスター。君が本当の意味で俺のことを好きになるまで、俺は正式に告白しない」
「な……!ど、どういう意味なの!」
欲しい答えを聞けなかったエスターは頬を膨らませ、拗ねたようにバタバタと地面を踏んだ。
こんなに可愛くて元気なエスターの姿を見て、ザーヴィルの胸にあった憂鬱が完全に消し飛ばされた。
今後、開放した星屑の国はきっと電灯の国と深い繋がりを持つだろう。
エスターとザーヴィルが顔を合わす機会が、いくらでもある。
そんな未来に期待しながら――
ザーヴィルが笑った。
「それでは、エスター。これからもよろしく頼む」
星屑の魔女よ、愛を授けてくれたまえ @natsuitokumoyuu
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