第2話 ヴィーナス
僕の話をしよう。
中学校の美術部とは言えど、そのクオリティは侮れない。僕がいた美術部はあまりに人が少なくて、更には全員が極度の人見知りだから仲がいい先輩後輩や友達なんてできなかった。その代わり、各々が黙々と絵を描くことに集中していたので、先輩や同級生の作品は割とクオリティは高かった。中学一年生の僕は特にデッサンを中心に作品を描いていた。奥行の見せ方や陰の付け方がモデルの角度によって変わる。それが面白くて消しゴムだけでも何パターンか描いていた。
「やる気もあるし筋もいいし、これ貸すよ。」
顧問の先生はそう言って、学校に唯一置いてある石膏像のレプリカを貸してくれた。それはミロのヴィーナスで、上半身だけのサイズだがなかなか大きい。今までは机や椅子、文房具、モデル用の球体など、シンプルなモデルをデッサンしていた。しかし今回は大きさもあるし線が複雑。一センチずつ見る角度を変えれば千通りくらいは作品ができあがりそうだ。
僕は三年間、ミロのヴィーナスを描くことに打ち込んだ。髪と顔と腰周りの布を描けるようにするだけで一年をかけて、それから全体のバランスを整えるのに更に一年かかった。先生が気まぐれに美術室を訪れると、毎回僕のデッサンを見て細かくアドバイスをくれた。
そして三年の文化祭で、美術部の展示に作品を出すことができた。三年間ほぼ毎日見て描き続けたミロのヴィーナスは、もしかしたらまだまだ改善の余地があるかもしれないけれど、僕にとっては最高の出来だった。最初はサボるつもりで入った美術部で、自分でも打ち込める何かを見つけられた証のようだった。
その文化祭の二日目、僕が描いた作品に酷い落書きをされていた。見つけたのは美術部の展示にやってきた部員の母親だった。先生が焦ったように僕を呼び出し、その落書きされた作品を申し訳なさそうに見せてきた。
「女の裸かく変態!おっぱい星人!」
ふざけた文言がポスカによって荒々しく書かれていた。先生は、学校全体で指導すると言って何度も僕の肩を優しく叩いた。周りのたまたま展示に寄った人や、普段はほぼ喋らない部員でさえも、僕に慰めの言葉をかけた。
文化祭が終わり、閉会式の最中に僕の作品について周知された。顧問の先生が声を震わせながら荒らげて生徒達に訴えていた。
「これを書いた奴は、このデッサンを描いた生徒だけでなく、偉大な画家までも侮辱した」
「一枚の絵は、その裏で何百枚もの失敗と努力によって出来ている。この絵一枚だけが全てだと勘違いしているなら大間違いだ。」
その後のHRでも、僕の作品について触れていた。
「でも凄いな、これ。めっちゃうまくね?」
そんな声がクラスの所々から聞こえた。担任の先生も僕に励ましの言葉をくれた。
僕は、何も感じなかった。というより何も表情に出したくなかったから、何も感じないようにしていた。あの落書きを書いたのは僕だ。ポスカを持ち出して、放課後に展示用の教室に忍び込み、あの落書きを書いた。
文化祭の一日目、自分の作品が展示に飾られて達成感を感じると同時に、美術部の展示をわざわざ見ようとやってくる人なんてほとんど居ないことに気付いた。別に自分の作品に絶対的な自信はない。見せびらかして凄いと言わせたい訳でもない。ただ、この作品が誰の目にも留まらない事が可哀想だと思った。
だからポスカで落書きをして問題にすることで、より多くの先生達だけでも見て欲しかった。実際には教室の展示を飛び出して全校生徒に見せることに成功した。正直褒められるとまでは思わなかったが、この作品が多くの人の目に入っただけで、作品自体が報われると思った。
それを隠すことに必死で、僕は何も感じないように心を無にしていた。気が緩んだら嬉しさでにやけてしまいそうだったから、悲しいふりをしてずっと項垂れていた。
先生、僕を怒ってくれてありがとう。
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