交わり

 夏子は荷物をまとめて、賢治の両親に挨拶をし、外に出た。そこに賢治が立っていた。夏子はしばらくぼーっとしていた。

「山本さんのチェロが聴きたくて、わたしはまだ一度しか、オケをやってたプロの人の演奏は聴いたことがないんですよ。」

賢治の目は少年のようにキラキラしていた。夏子は頷いた。賢治は嬉しそうに夏子を別邸へと連れて行った。

 賢治は2階に上がって行った。賢治は本当に無邪気な人だと夏子は思った。賢治の心はチェロのことでいっぱいなのだろう。そこがまた、とても夏子の心を惹きつけ、ドキドキさせた。

 賢治は罪悪感と期待の狭間で揺れていた。よりによって、自分が一番大事に思っているチェロを使うなんて。しかし、それ以外に夏子さんと二人になる方法が思いつかなかった。

 賢治は重たそうに大きな木の箱を持ってきて、そこからチェロを取り出した。

 「これはわたしが買ったチェロです。普段から誰にも触らせないんですが、山本さんなら是非。」 

夏子はチェロを受け取り、椅子に腰掛け、構えた。

 「じゃあ、星めぐりの歌を。」

夏子は賢治が作詞作曲した星めぐりの歌を弾きはじめた。賢治はとてもびっくりしたようで呆気に取られていたが、何回か繰り返すうちに落ちついて、

 「チェロで弾くと本当の天上のようだ。」

と言った。

 「他に何を弾きましょう。」 

 「コルニドライは弾けますか?」

夏子は弾き始めた。賢治は急に真剣な顔になった。そして目をつぶって黙っていた。最後まで聴くと夏子からチェロを受け取り、さっさと片付けてしまった。

 「夏子さん、わたしは本当に狡いです。あなたと二人になる口実だったんです。でも、夏子さん、あなたのチェロを聴いて、そんな自分が本当に情けなくて。」

賢治は力無く椅子に倒れ込んだ。それからずっと下を向いていた。夏子は賢治の手を取って引いた、そして半ば強引に椅子から起こした。夏子はじっと賢治の目を見た。

 「わたし、賢治さんに…。」

そう言って賢治のほっそりとした、しかし畑仕事で引き締まった身体を抱きしめた。賢治は夏子の目を見た。夏子さんは自分が本当に好きなんだ。そう感じると賢治はもう止まらなかった。

 賢治の全てを夏子さんは優しく受け止めてくれた。

 いつの間にか雨が降っていた。夏子は華奢な身体を震わせた。

 「冷えますね、今、お茶を淹れます。」

賢治は着物を羽織り、部屋を出て行った。夏子は賢治も男性なんだと思っていた。だいぶ無理をしていたのだろう。賢治が禁欲に努めていたことは本で理解していた。夏子は深く息を吐いた。

 賢治はお茶を淹れながら、夏子さんに嫌われはしなかったか、幻滅されはしなかったか、そればかり考えていた。たぶん、夏子さんが自分と会うのはとても危険な行為だ。それでも会いにきてくれたんだ。きっと自分の作品に感動し、理想化している。そんな人があんなに…。賢治は後悔した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る