#002 水面
ザッザッザッ。深夜のアスファルトに、足音が響く。
それ以外には、遥か彼方の空に赤い光を点滅させながら飛ぶ救急ヘリの音だけが聞こえる。
手に握りしめたスマートフォンから漏れる青白い光が、持ち主の顔を照らす。
中年を過ぎた男の顔だ。
疲れと恐怖と絶望が混じった表情。
額には汗が浮かんでいる。
彼は今月中に5kgの体重を落とさなければならないと言われている。
「さもないと...」
妻の言葉を思い出し、思わず身震いした。
妻は彼に最後通牒を突きつけたのだ。
「あなたがダイエットしないなら、私はあなたを殺すわ」
彼はその言葉を冗談だと思っていたが、妻の目には真剣な光が宿っていた。
妻は夫の肥満に対する強い嫌悪感を抱いていたのだ。
あてもなく歩き続けていると、やがて大きな川の土手に辿り着いた。
街灯はほとんどなく、川面は闇に呑まれている。
「ここは...どこだろう?」
不安にかられながら、川縁に近づいてみると、水面に何かが浮かんでいるのが見えた。
よく見ると、渡り鳥のようだった。
羽を休めて眠っているのだろうか。
「可哀想に...」
彼は思わずそう呟いた。
渡り鳥は寒さや飢えや捕食者から逃れるために、遠くまで飛んでくるのだ。
彼もまた、自分の命を守るために、遠くまで歩いてきたのだ。
そう思うと、彼は渡り鳥に親近感を覚えた。
彼らも自分も、同じように生きているのだ。
「一緒に眠ろうか」
彼はそう言って、川縁に座り込んだ。
スマートフォンをポケットにしまって、目を閉じた。
夜の静寂の中に微かな川の流れの音が、彼の耳に届く。
彼は少しずつ眠りに落ちていった。
夜が明けると、彼は目を覚ました。
川面は朝日に輝いていた。
渡り鳥は姿を消していた。彼らは旅立ったのだろう。
彼も立ち上がって、自分の家へと向かった。
体重計が待っている。
彼は死ななかった。生き延びた。
渡り鳥と同じように。
しかし、彼は知らなかった。
水面に浮かんでいた渡り鳥は、飛び立てなかった。
水中に潜む何かに引き摺り込まれていた。
彼が目を覚ます前に、それは水中に潜んでいた。彼が立ち去るのを見送っていた。
そして、彼が次に来るのを待っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます