第11話 月夜に駆ける

 ぽかんとした私の頭では理解できないほどのスピードで物事は去っていき、私の感情を置き去りにして式を終えた。

 母さんが死んだ。言葉の意味をいまだに私は理解できないでいる。そしてその答えを見つけようともしないまま、私は供物が片付けられつつある祭壇をぼうっと眺めていた。

 ぼんやりとした意識で参加したお葬式はいつの間にか始まり、みんなプログラムされたロボットみたいに誰の指示もないまま作法をこなしていった。

 席順に母さんの遺影の前まで行き、お線香に火をつけて香炉に立てて合掌する。死んでしまった人に対するそれが作法であり、社会的に決まったルール。初めて参加したお葬式になるけど、私の番の記憶はない。

 みんながそうするから私もそうする。

 だからきっとみんなが母さんは死んだというのならきっと……。

 遺影の母さんは笑っているのに、この間まで一緒にリンゴを食べていたのに……。

「お嬢さん、お寺のほうに向かわれないと……」

 ふいに声をかけられて私は現実に立ち返る。ここはお葬式で、あの日の病院ではない。

「すいません。すぐに向かいますので」言いながらその場を立ち去ろうとしたとき、隣に立っていた声の主がさらに言葉をつづけた。

「亡くなったと思われますか?」

 私の足は、その言葉によってまた止まってしまった。

「こうして葬儀をしている以上、認めるほかありませんから」私は母が眠ることになる寺の住職にそう答えた。

 みんなが送らなきゃというなら、私はそれに倣う。今までそうしてきたし、これからもそう。

「そうではなくて、あなたの中ではもうけじめはつけたのですか? 亡くなられた方とはちゃんと向き合えたのですか?」

 私はたぶんきょとんという言葉を顔で体現していたんだと思う。住職は私のぼうっと立ち尽くした様を見て少しだけ口角を上げて、また口を開きだす。

「お亡くなりになられた方の肉体は確かに火葬により自然へと帰りますが、御霊は現世にまだ残りますよ。あの世に旅立つまで四十九日間、あなたのご実家でくつろいでいることでしょう。お盆になればあの世から現世に帰ってきたりもしますし、それを亡くなったと思われるのは自由です。ただ、こうして式を執り行ったからという事実だけで真の意味で亡くなったと思われるのは、私個人は違うのではないかと思います」

 私は住職の話をうまく理解できているのだろうか。

「他人がどう思うのかではありません。あなたがどう思うのかです。人が死ぬときは、誰かに忘れられた時です。私はそう思います」

「でも、もう母さんは……」

 私は住職のまっすぐな目を見ることができなかった。そのまま見ていたら、きっと私はなにか巨大な力で消え去ってしまいそうで……。

「無理をしなくても大丈夫です。じっくり時間をかけて、あなたなりの答えを探せばいいのです」

 住職は、そっと私の両手を包んでいた。

 人のぬくもりなんて、いつ以来だろう。

 こうして私個人が認められた瞬間なんてあったのかな?

 私は今まで人の顔色ばかり気にしていて、常に正解ばかりを求めていた。

 間違ってもいいんだ。

 どっと押し寄せる言葉の波が、脳内を渦になって駆け巡る。

 私は泣いていた。

 式では力なくたたずむしかなかったのに、感情が理性の堰を壊してあふれていた。

「お母様にしてあげれること、探していきましょう」

 住職は私が泣き止むまでそばにいてくれた。


 久々に戻る実家のリビングには母さんが好きだったものがたくさんある。例えばこの花瓶。子供のころ父さんと母さんとで出かけたガラス工房で、花柄きれいだと私のわがままで買ったもの。元々この家で花なんて飾ることはなかったんだけど、この花瓶が影響してか飾るようになった。四月にはカスミソウが添えられて父さんは照れ臭そうに笑っていた。五月にはピンクのバラが添えられて私は母さんの誕生日にも花を飾らないとと少ない私の財布の中身を気にして、花屋さんに並ぶ薄紫色の皇帝ダリアを想像しいたっけ。

 ただ、どういうことか一度だけ儚げな色合いのアネモネが花瓶に添えられることがあった。

 父さんは顔色を濁し、母さんはどこかしれっとしていた。その日の前日、母さんと父さんは些細なことで喧嘩をしていたんだけど、何故かその花を見させられた父さんは素直に母さんに謝っていたのを今でも覚えている。

 何かあるとは思っていた。でも、あの時の二人の顔色から察してどうしても聞けなかった。超えてはいけない一線のような気がして。

 今ではもう三人で座ることもないリビングに置かれた木製のテーブルで、私はその思い出いっぱいの花瓶を手に取り思い立つ。

 聞こう。昔何があったのか。

 わざわざ母さんが私に文学君から借りっぱなしだった坊ちゃんを手渡したことも何か理由があるに違いない。

 きっとそう。

 いや、絶対に……!

 部屋の中から見る窓には水滴がついていて、雨粒が重なるたびに歪な曲線を描きながら下に流れていく。

 私は今日、父さんにすべてを聞かなければ帰らないつもりだ。たとえ彼にまた怒鳴られようとも。

 母さんの意図を汲むべく文学君から借りたままの坊ちゃんを読みふけっていると、玄関のほうでドアが開く音がしたのでそのまま小説を閉じてテーブルに置いた。これから今まで深入りしたことのない家族関係の仕切りのようなところを切り込んでいく。そこはきっと暗くて冷たい深海のようなところなんだろう、でも、私は逃げない。それが今私が母さんにできるすべてだと思うから。

「日和……? どうしてここに?」父さんは私が彼との部屋に戻っているものだと思っていたらしく、間抜けな顔をして私をみた。突然の五月雨を受けて、作業着が上から下までびっしょりだった。

「四十九日っていうでしょ? 法事のことはあんまりわからないけど、もしかしたらこの家にまだ母さんがいるんじゃないかって思うとこうしてたまには実家に帰ってきたくなるの。洗濯しといてあげるから、着替えてきたら?」

「洗濯ってなにもボタン1つだろうが」

 そういって父さんと私は笑いだす。久しぶりの家族の会話。

「風邪ひいちゃうよ? お茶入れとくから」

「おう。じゃ、ちょっと着替えてくるわ」

 

「あっつ!? さすがにこれは熱すぎだろ?」

 私の正面に座った父さんが大げさにカップをテーブルに置く。作業着から白い無地のTシャツに着替えてきて開口一番に言ったのがこのセリフだった。

「ごめん、彼にそう躾けられたの」

「しつけって……。またオーバーな」

「紅茶を入れる最適な温度は95℃以上。紅茶の風味を構成するタンニンが95℃以上だからだよ。それを下回るとカフェインだけが溶け出すえぐみのある紅茶になってしまうんだって」

「へー、紅茶にも嗜みがあるんだなあの家は……」

「違うよ。私をなんでもいうことを聞く家事マシーンに仕上げたいだけ。現に彼も紅茶の種類の名前すら知らなかったし」

「もういい加減その呼び方やめたらどうなんだ? 昔は王子って呼んだりして仲も悪くなかったろ?」

 父さんは口角を上げていた。いつもの、私を言いくるめようとするときの嫌な笑い方。

「私、文学君のほうがうまく話せていた気がするの」

 水滴が滴る窓ガラスの遠く向こうで雷が鳴ったらしい。閃光から一瞬間を置いて獣の唸り声のような音が轟いた。

 私は今日、初めて父さんに自分の意見をぶつけようと思う。

 母さん、一緒に戦って……!

「私、彼とはやっていけない」大きく息を吸い、私は火ぶたを切った。

 驚く父さんの顔は、穴が開いたみたいにぽっかりと口を開けたまま微動だにしなかった。今まで父さんのいうことを聞くいい娘を演じてきたし、反抗期みたいなものもなかった。でも、

「病気は治った。父さんの会社のことは正直わからないけど、私、もう彼とは終わりにしたい。好きなことろに飛んでいきたい! ……昔何かあったんでしょ? 花瓶、家族の誕生日によく花を活けてたけど、一度だけ11月に花を活けた時があった。うちに11月生まれなんていた? まさか今更水子だなんていわないよね?」

 その日父さんは苦虫をかみ殺したみたいな顔をして花瓶から目を背けていた。喧嘩をしていた母さんに一方的に謝って許しを得たのも父さんで、母さんはそんな父さんを仕方ないという顔をして許していた。

「そんなこと……あったかな……」

「逃げないで」私はくぎを打つ。逃がしはしない。

「お前の気持ちはよくわかる、でもな。こっちにも事情があるんだよ……。なぁ、そんなこと言わないでもう少しだけ我慢してくれよ? 白鳥の御曹司、悪い男だとは父さん思わないけどなぁ」

「それは父さんの事情でしょ? 私の事情、本当にわかってくれている?」

 私は鞄から一冊の文庫の本を取り出す。決して保存状態だって良くはないけど、私にとっては世界に一冊しかない文学君との思い出。

「母さん、亡くなる前日にこれ渡してきた。もう実家でどこかにしまい込んで見つからないものだと思っていたけど、母さんがしまってたみたい。これ、今の私には必要だって母さん言ってた。父さん、何か知ってるんでしょ……?」

「……俺は何も知らない」

「とぼけないで!」

 私が父さんの態度にいら立ちを覚え、立ち上がった瞬間だった。

 現実をいまだに受け入れられていない私たち家族は、いまだに遺品整理もしていない。出来るわけがなかった。

 私と父さんのちょうど間に、麦わら帽子が落ちてきた。それは今年の誕生日に父さんが母さんにプレゼントしたもので、母さん自身はあまり気に入っていなかったらしいけど、父さんの「よく似合ってる」の一言で外出するたびに身に着けていた代物だ。

「美月……!」

 父さんは、何かを察したように麦わら帽子をつかんだまま離さない。まるでそこに私の母さん、天道美月がいるかのように愛おしそうにぎゅっと抱きしめていた。

「本当は、怖かった……。母さんな、俺と結婚する前にもっと人として尊重できるような奴と付き合ってたんだ。俺はそいつから母さんを引き離した。どうしても、母さんにそばにいてほしかった。……俺は欲しい現実のためなら何でもしてきた。お前が白鳥の家の息子と付き合いだしたときから、毎晩怖くて震えてたんだ……。こんなろくでもない親父に関りをもってしまって、母さんもお前もきっと俺のことを憎んでる。そうに違いないって……!」

 正面に座る父さんは、うずくまるようにしてその麦わら帽子を抱きしめたままこぼすような声ですべてを語る。私からすれば父さんの表情は全く見えないけど、ずっと震えていることだけは見て取れる。父さんは、たぶん泣いているんだ。

「もしかして、その引き離そうとした人って……?」

「お前も知ってるだろう? 月島だ。月島栞の親だ。……まさかお前もあいつの息子が気に入るとはな。これもまた何かの運命か……、まぁそれも俺が潰したみたいなものになってしまったがな」

 自嘲気味に笑う父さんの目からはもう涙は落ちてこなかった。

 父さんがこんなに思い悩んでいるなんて思ってもみなかった。確かに私は今まで両親にはあまり迷惑をかけないよき娘を務めてきたつもりだけど、確かに私は父さんの工場の件もあってこうして白鳥の家の人間になろうとしたけど、でもそれは半分は私のためでもあって……。

「どうしてそう自分を責めるの? 少なくとも私のことに関しては父さんの工場のことも確かにあるけど、もう半分は私の病気のためだったでしょ? 母さんのこともそう……」

「母さんは、違うだろ……? もう、謝ることもできないがな」

「そんなことないよ」

 私は、さっき読み終えたばかりの坊ちゃんのとあるページを開いて見せる。

 数年がかりになっちゃったけど、ようやく謎も解けた。どうして死期が近かった母さんが文学君の小説を大層大事に持っていたのか、そしてそれをどうして私に必要だなんて思ったのか。

「もしかしたらこれ、見おぼえないかもしれないけど」私がテーブルにそっと置いた古めかしい文庫の本に父さんは意識を奪われる。

 古めかしいその本は、もう何度も繰り返し開かれたようで表紙もボロボロで文学君がどれだけ引っ張ろうが取れることはないと豪語していたスピンでさえ千切れかかっていた。

 でも、そうやって繰り返した歴史の分だけなんだ誇りのようなものがこの文庫の本から出ている気がしていた。

 何度も確認したんだろうなぁ母さん……。

 文庫の本の最後のページに古いノートの切れ端が入っていたことに気が付いたのは読み終えてから。

「多分これ、父さんも知らない母さんの手紙だと思う。読めばきっと母さんの想い、わかると思うよ」

 うつろな瞳をした父さんの目に、文庫本からはみ出た小さな紙切れが映る。

 

 拝啓 月島光様

 この本を貸し出すにあたって、あなたには伝えておかないとならないことがあります。

 突然ですがもうあなたと会うことはできません。

 私はあなたが好きでした。

 私にはない積極性と底なしの行動力、そして何よりあなたの笑うときにできるえくぼがとても好きでした。

 でも、気づいてしまったのです。あなたの隣にいる私がどうしても想像できないことに。

 きっとそれでもあなたは私に会うと言ってくれるでしょう。でも、私の中にあるこのもやもやとした気持ちに名前を付けてしまったとき、私がもっているこの感情が恋ではないということに気が付いてしまったのです。

 私にとってのあなたは恋愛の対象ではない。それとはまた別の次元の好意。もっと人間的で、もっと感情的で、もっと想像的な、そして最も尊い感情。

 異性としてではなく、人としてのあなたが好きなのです。

 尊敬だなんて言葉、学生の私たちには少し重いかもしれないけどね。

 私は私の中で勝手にあなたのことを想像して、どんどん大きく膨らませていました。自分の都合のいいように、私をどこまでも守ってくれる神様なんだと決めつけて……。

 私は自分のことは自分で決めたい。だから私はこれからはあなたに頼らず、一緒に歩いてくれる人を探していこうと思います。たとえそこにどんな困難があろうとしても、その荒波さえ楽しめる人が一緒にいてくれれば後悔はしないと思うの。

 今まで一緒に付き合ってくれてありがとう。少しでも私に興味を持ってくれてありがとう。


                                          天道 咲夜



「咲夜…………」

 父さんは声もなく泣いていた。

 私がこれまで一度も見たことのなかった父さんの涙。母さんの火葬の時だって見せなかったものが、今では堰を切ったように手で覆った両目からあふれ出す。小刻みに震えるからだからは、いつもの気丈な父さんは感じられなかった。

「……母さん、たぶん私に初恋のことを直に話すの恥ずかしかったんだと思う。だからこうして自分で書いた手紙にすべてを託して私にそれを読ませようとした。父さんのこともきっと自分で選んだんだよ。自分から選択して父さんの隣を歩いてきたんだよ」

「俺は、今までずっと……! どうしようもない男だって、そう思って生きてきた……。それがっ、こんな……」

「母さん幸せだったと思う。そうでなきゃ麦わら帽子だってかぶったりしない」

 ねぇ母さん? 四十九日でまだこの家にいるというのなら聞かせてほしい。本当に父さんと暮らしてきて後悔はない? 私は母さんにとって自慢の娘だった?


 私は走る。全力で。ヒールのかかとが折れようとも、息が絶え絶えになって道行く人に見られようとも。止まれないと心臓は叫び、運んであげると足が前へ前へと歩を進める。

 婚約者から逃れるように式場を後にして、本当に愛すべき人の元へ。そのためなら私は、韋駄天にだってなれる。

 汗でお化粧は流れ落ちてるだろうし、きっとドレスだってひどい有様に違いないけどそんなもの文学君なら気にしない。何より、心がもう裏切れない。会いたい。その気持ちをどうしても裏切ることができない。

 走って曲がって転んで、泥だらけになりながらたどり着いたこの公園。

 昔、文学君に別れを告げてそして今日再び私たちが出会う場所。

「……月見ヶ丘公園」

 名前を口にするとどうしても笑えてしまうのは、嬉しい反面恥ずかしいから。見た目ももうこんなだし、いろいろ思い出して涙もそうだけど、気が付くと鼻水だって。

 不安は少しだけある。あの時の約束を本当に守ってくれているのだろうか。文学君の気持ちを裏切り、あの人へと移った私を待っていてくれるだろうか。

 立ち上がる体の節々に痛みを感じる。ドレスの裂け目からは血がにじんでいるし、歩くのもやっとだ。ほんと、あの頃のような体力がわたしにあったなら、文学君の背後にこっそりと忍び寄り抱きしめてあげるのに。

 私はゆっくりと園内に歩みを進める。

 私たちが最期に言葉を交わしたジャングルジムのてっぺんに、子供みたいな大人の背中がある。真上にはきれいな満月があって、隣には人一人分の空間が私を待っている。

 一歩一歩、私は彼の背後に忍び寄る。こっそりではあるけど、ひっそりではない。だって彼は私に会いに来てくれたのだから。十年も前の約束を覚えていてくれたんだから。

 「アン」

 もし彼が、私とまた一緒に歩いてくれるなら謝ろう。一人にしてごめんと。

 「ドゥ」

 もし彼が、また私と一緒に日々を過ごしてくれるなら私にはもう何もいらない。お金だってきっとなんとかなる。

 「トロワ」

 もし彼が、なんてもう私は考えない。

 たどり着いた遊具の真ん前で、私は深呼吸をする。彼に気づかれるように。もう私を探さなくてもいいように。


「月が、奇麗ですね」

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月夜に駆ける - run away under the full moon - 明日葉叶 @o-cean

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