第10話 cage2

私の夢は透明になって、風に揺れて、羊雲のように消えていった。

 カメラはもう高校を卒業してから触ってもいない。文学君が返してくれたカメラも、実家の私の部屋に置いたまま。

 もう正直な話、生きる目的もない。そんな考えが高層マンションの窓から飛行機雲をぼんやりと眺める私をよぎる。

 高校を卒業してからもう4年もたつ。父さんの工場は、白鳥の家から融資をしてもらうことでなんとか立て直した。今日もこの青空の下、父さんはいつものように業務をこなしているに違いない。

 あれ以来文学君とは連絡を取っていない。もちろんとるべきではない。こんなこと考えるこの気持ちさえも、昼間のおぼろ月のように味気ない存在になってくれれば助かるのに。

 最近何を食べても味がしない。見るものも、モノクロの映像でも見ているような気分になる。

 私の背後でアラームが鳴る。毎日15時きっちりに彼に連絡をしないと、また1つ痣ができることになる。普通ならどうせスマホで連絡をするのだし、スマホのアラームにしておくべきところをわざわざ私の置時計を使っているのは理由がある。

【一分オーバー。どうしたの? 俺の要件より重要なことでもあるの?】

 スマホを開いた瞬間、今でもフラッシュバックしてしまう。初めて彼の本性を知った瞬間。

【ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってました】

 他愛もない小さな嘘でさえ背筋に寒気が走ってしまう。どうか、咎められませんように。どうか、詰められませんように。どうか、どうか……!

 スマホに映しだされる文字を、震える指がなぞってしまう。私は震える左手を右手で支えながらメッセージを送信する。

【トイレ、ね。まぁいいや。それより夕飯なんだけど、いつもの店でワインでも買っていくから魚料理作れない? 昨日のカレーはいまいちだったし、今日は早く帰れそうだから腕によりをかけてさ】

 何をするにしても私に選択肢はない。もし拒否をすれば……。

【わかりました】

 知らない料理も知らないでは済まされない。

 私はそうやって手短に連絡をしてスマホを閉じた。


 一日の業務をこなすことに何も感情を抱いてはいけない。夕飯の支度1つにしても、作る。ただそれだけでいい。後は彼がそれに対して何かしらの判別を下す。その毎日だ。下手に口出しをしない限りは、何もされないはずだ。

 彼が帰宅してから私の本心は表面から消えた。私の中の深い所へ私が隠した。そこは温度も光も音もない場所だけど、どれだけ泣き叫んでも誰にも咎められない場所だった。

 表面上の微笑みを浮かべて彼から荷物を受け取り、そのまま着替えを浴室へと運んでおく。

 浴室を出ようとドアノブに手をかけた瞬間、彼が目の前にいるより安心している自分に気づく。こんな数センチの厚みの木の板でさえ、彼から私を守る防御壁のような見方を私はしているのか……。

「お、ようやく俺の帰宅後の行動がわかってきたか! さすがわが嫁だ。気が利くね!」

 一度それで彼から叱責を受けたことがある。その時の記憶は体がよく覚えている。

「白鳥家の人間になるんだから、これくらいはできますよ」

 業務的な会話をしているはずなのに、どうしてもうまく口が回らない瞬間がある。

「そんなに緊張しなくても大丈夫。俺がついてるんだから、な?」彼が私の肩を叩こうとした瞬間、反射的に身をたじろいでしまう。

「……今の何?」

「すいません。すぐに夕飯の準備をしますので」

 私はまた鋼のような表情で心を覆い、強引に彼の脇をすり抜けてキッチンへと向かう。


【ポワレ(poêlé)】とは、フライパンで肉や魚をカリッと香ばしく焼き上げる調理法のこと。 現在ではフライパンを使って調理しますが、元々は【poêle(ポワル)】という深めの銅鍋で調理していたことから、その名が付けられました。

 ワインに合う料理を検索して一番上に表示されたサイトにアクセスして、材料から調理時間まですべて覚える。念のためスマホに映る文字の羅列を見ながら魚の切り身を焼いていく。まったく予備知識もない状態でこの料理について聞かれる可能性もある。彼にこの姿を見られるのはまずい。彼の要求することはすべてに対してうなずかないとならないから……。

 彼が浴室から出てくるまでおおよそ20分。その間が私にとっての平和であり、同時に戦いでもあった。

 焼き目を確認して、盛り付ける。飾りのレモンとバジルも忘れない。後は彼の買ってきたワインを開けて、いつものようにダイニングテーブルに持っていくだけ。そうすれば頃合いを図ったかのように彼がやってきて同じようなことを口にする。

「おー。おいしそうじゃん」

 視界の隅に彼の足元が見える。

 前に一度だけ、私の本当の手料理を食べさせてしまったことがある。手料理を食べたいと言われたのを私は鵜呑みにしてしまったので、本当に何も考えずにレトルトカレーを作ってあげた。彼はそれを見てすぐに席を立ち、カレーを流しにそのまま捨てた。

 もう私は彼に手料理をふるまうこともない。今こうしてテーブルに広げているのは私が創造した心からの料理ではない、無機質なスマホから拾ってきたデータを基に作成した人工的な食べ物。

「腕によりをかけたので……」本当は料理名さえさっき覚えた。知っていたことにしないと料理を捨てられるだけで済むかもわからない。

 私が椅子を引くと彼がそこに座る。これも彼にそうしろと言われてのこと。

 椅子に座る彼は、濡れたままの髪をタオルで拭きながら目の前の夕食を一瞥する。束の間、私の背中に嫌な汗が流れる。

「……なんかやっぱりそうでもなさそう。もう少し焼き加減とかどうにかならなかったの? これじゃ外に食べに行ったほうがよっぽどよかったよ」

「すいません。私の技量不足で」

「反省してるならいいけどさ。ほら、ぼさっとしてないで君も座りなよ」

「わかりました」

 彼の前では感情を表に出してはいけない。感情を表にすることは、彼に私の現在の情報を与えること。それは彼にとって私をさげすむ格好の餌になりうるから。

 流れ作業のように席に着き、業務のように目の前の食事を口に運ぶ。おいしい、とは思はない。目の前のこの食事に料理としての温かみはあれど、人の創造する温かみは全くない。

 ふいに彼が笑った。

「この料理を作ったのは誰? その張本人がそんな仏頂面じゃあ余計にまずくかんじるだろ。笑ってよ」

 私はそれに反応しない。テーブルにあるパンを1つとり、ソースをつけて口に運ぶ。

「笑えって!」彼がテーブルをたたき、食器が揺れる。

 もうこの光景もこの唐突な彼の怒りも私には何も響かない。きっと彼は目の前の人間を感情のないマネキンか何かに見えたに違いない。そうでもないと激高して手を振り上げたりはしない。

 私は感情が死んでしまっている。でも、痛みは感じる。マネキンじゃない。

 いつものように私に殴りかかろうとする彼と、それを甘んじて受け入れようとする私の間にあまり聞きなれない着信音が鳴り響く。普段使うことはめったにない家電。もしもの時のために一応つけておこうということで設置したコードレスタイプの電話だった。しばらくにらみ合うようにけん制していた私たちも、ついにその電話の自己主張に耐えきれず彼が電話を取る。

「はい、もしもし……はぁ、入院……? わかりました。日和には俺から話をしておくんで、じゃ」

 彼は、めんどくさそうに頭を掻きむしる。まるで彼にとって何か不都合なことがあるかのように。

「ったく、どうしてお前んとこの親はこう俺の日常を壊してくれるんだよ! ふざけんなよ」

 なんのことだかわからない私に彼は声を上げる。

「お前んとこの親、入院したらしい。明日病院に来れないかとさ……」

「……え?」唐突な話の内容に、さっきの怒りはいつの間にかなくなっていた。入院? 誰が? なんで? 私の頭の中は瞬間的に疑問符だらけになってしまう。

「午前中だ。午後には家にいるように」彼はそれだけ言うと目の前にあるワイングラスを一気に仰いだ。


 鳥かごから解き放たれた鳥は、きっと自由に大空を舞う。行きたいところに行くし、きっとそれには目的なんてない。私はどうだろうか。もうすぐ夏だということを外に出てようやく実感したくらいには閉塞感は感じていたらしい。

 青い空、乾いた風、街の中華屋さんは冷やし中華を始めたらしい。どこからか風鈴の音さえ聞こえてくる。

 私は今、自由だ。不謹慎な話、半分はその気持ちが心を覆い尽くしていた。でも、そんな気持ちも病院に近づくにつれ雲行きが怪しくなる。入院するのも白鳥の名前からは逃れられない。白鳥総合病院と彫られた石碑の前に、私は否が応でも体が硬くなってしまう。

 もう何年も来ていない病院は今でも変わらず威圧感をもって私を待ち構えていた。その白い大きな建物を見るたびに、私は自分に掛けられた呪いをいやというほど意識してしまう。

 意を決してエントランスに向かうと、父さんが私を待っていてくれた。時間通りに到着したことに少し驚き私を先導して病院内を闊歩する。

「早かったな。お前のことだ、時間ギリギリに来るんじゃないかって売店で何か買ってこうかと思っていたところだ」

 工場の仕事を抜けてきたらしい。油のにおいが染みついた作業着で歩く父さんが私に目配せをする。

「あの後彼がすぐに了承してくれたの。もしかしたら外出を許可されないんじゃないかってひやひやしてた」

「実の親だぞ? いくら何でも許可するだろう」

「どうだろう……、今回のことも私というよりは自分のメンツのほうが大事だったんじゃないかな?」私は昨晩の彼の表情を思い浮かべた。

「バカもほどほどに言え……。白鳥さんがそんなことするわけがないだろ? とにかく、母さんが待っている病室は二階だ」

 父さんは私に顔を合わせることもなく、近くのエレベーターに乗ってしまう。早く来いと私を目で急かす。

 父さんは白鳥家を妄信している。工場を立て直すためのお金を白鳥家が工面してくれたときから父さんは白鳥家に逆らえない。

「……母さん大丈夫なの?」

「命に別状はないらしい、ただ突然のことだったんで少し動揺している。そばにいてやってくれ」

 父さんも母さんも、もう若くない。顔には皺が年々増え、白髪も処理できないほどだ。

 そんな母さんをこの病院に入院させること自体が嫌悪だったけど、逆にこの病院ほど腕のいい医者がいるところはない。

 母さんは無事か。そう思うだけで幾分か心は透いた。

 安堵のため息をついた瞬間、目の前の景色が割かれて視界が広がる。ここは病院。あわただしく動く看護婦さんや、リハビリを重ねる患者さんがいる。死と生とが共存する異質な場所。


 病室に母さんは一人だった。

「悪いわねぇ……。母さんちょっと気分が悪いだけなのに」いいながら微笑む母さんの手には父さんが持ってきたというリンゴが。

 母さんは病室で一人だった。

「体、大丈夫なの?」率直な私の質問に母さんは「大丈夫」と笑って私に剥いたリンゴを差し出した。

 大部屋から個室に移動されるとその人の命の保証はないと判断される。そんな話を聞いたことがあった。私はその記憶にふたをすることしかできない。自分を疑い、現実を疑う。そんなことはない。だってほら母さん元気じゃん。

 母さんだって笑っているんだから私がちゃんとしないと。そんなことを考えながら差し出すリンゴを受け取ると、私の後ろに立っていた父さんが仕事があるからと席を外した。

「せっかく父さんが持ってきたリンゴなのに、自分が食べないでどうするんだか」

「仕事なんだから仕方ないよ。父さんの分も私が食べるから」

「まったく、日和は昔から変わらないわね。それよりどうなの? 新婚生活は」

「まだ結婚してないって。一緒に住んでるだけ。今日だって何とか彼の機嫌をうかがってやってきたんだから」

 一口齧るリンゴは甘く、蜜が詰まっているのか指に隠れた表面に半透明な黄色を作る。果物なんてもう彼と過ごしてから食べることも減ってしまった。

 そして、彼との生活を聞かれたことで私は病院に居ながらあの鳥かごのような部屋のことを思い出してしまう。

 あの閉鎖的な空間、あの白いだけの壁、あの誰とも会話もできない時間、あの彼にしなくてはならない毎時の報告。

「……日和、やっぱりあのカメラの子のことまだ気にしてるんじゃないの?」

 瞬間、私の周囲の空気が冷たく固まっていく。

「もしそうなんだとしたら、母さん日和には無理しないでほしい。自分に嘘をつきながら生きていくことなんて死んでるのと同然。……いいのよ? もう素直になっても」

「いや、私は別に……」

 私は自分の病気のこともそうだけど、両親には幸せでいてもらいたい。私が守ろうとしてきたものが私を否定してくるみたいで、それが嫌で母さんに反論を試みる。でも、そんなことは見透かされていた。

 私は母さんに抱きしめられていた。

 もう何十年も味わったことのない母さんのぬくもり。匂い、鼓動が伝わってくる。

「日和は頑張った。偉い。でもね、父さんと母さんだってまだ日和に守ってもらわないとならないほど弱くはないのよ? 今まで十分守ってもらってきたんだもの、これからは自由に生きなさい」


 懐かしいものを母さんから渡された。

 文学君から借りっぱなしで返しそびれた坊ちゃん。文学君を思い出すからいらないと首を横に振る私に押し付けるように渡してきた。

 

 「今の日和にはこれが必要だから」

 

 それが最後の言葉だった。

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