第9話  サヨナラの代償

 王子の家が経営する病院は、大きかった。一応、借りていた坊ちゃんは読破したけど、だからといって私の生活になんら幸福をもたらしてくれるものではない。病院もそう。病気を治してくれるところであって、私の願いを叶えてくれるところではない。私の願い。これまで通り、文学君とくだらない日常を送れたら……。まだ本人には話せていないけど、いつかそんな日がくればいいと思う。

 個室ををあてがわれた私の目の前には、青青とした観葉植物が冬の日を浴びて大きく育つ。

 これも私に対しての慰めか……。

 詳しいことはよく知らない。知ったらまた一つ私の感情が死んでしまう。

 父さんの工場はどうやら王子の家から資金繰りをしてもらい、体制を立て直したらしい。父さんは、そういった意味でも私になにかしら毎回買ってくる。観葉植物もその一つ。当初は見るのもイヤだった。私は私のはずなのに、私の所有権は私にあるはずなのに。

 しばらくの間、心が麻痺したようになんにも感じなくなり、それが私になじんでいった。


 これでいいんだ。


 文学君にも説明しよう。私と彼との間にまだ名前が付かないうちに。


 学校はしばらく休んだ。こんな体調じゃいけるはずもないし、行かせてもらえるとも思わない。

 毎日運ばれてくる味気のない食事と、毎日顔を見に来る王子と、毎日図られる私の血圧と、毎日打たれる点滴。気が付けば目が覚めていて、気が付けば夜になっていて、いつの間にか知らないうちに卒業式になっていた。

 どういう工程で式が進むのか私は知らない。

 私とクラスのみんなとのわだかまりを時間が解決してくれたとも思えない。

 学校へ向かうのが怖かった。

 だから私は保健室へ向かった。もし仮に体調が悪くなってもここでならすぐに横になれるし、何より保険の先生は私の見方だった。

 時刻はもうじき10時30分になろうとしている。ベッドから覗く壁掛けの白い時計は、私の視線を無視するように淡々と針を進めている。何もない安堵と、何も起こらない不安が私を包む。保健の先生は来ない。多分、式に出席しているんだろう。

 私、何しにここに来たんだっけ? 見上げた天井に見えない幾何学模様を脳内で描いては消す不毛な遊びももう飽きていた。

 ふいに足跡が遠くから聞こえてくるのが分かった。人数からして、三、いや四人は居る。保健の先生ではないことはそれだけで分かった。誰だろうと思うより早く、ここから脱出しないとという危険信号が私を動かした。

 何か嫌な予感がする。暗く湿った感情が近づいてくる。

 私は急いでベッドから跳ね起き、荷物を手に引き戸の取っ手に手をかけた。

 その扉は、私が思う以上に軽く開いた。

「久しぶり日和ぃ。元気してた? あんた中々学校に来ないもんだから心配しちゃってさぁ」

 髪の色がいつものと違うので、私は初見誰だか分らなかった。

「あんた、親友の顔も忘れちゃったっての? ショックぅ。中学の時から一緒だったじゃん」茶色い髪をしたどこかで見たことのある人物の後ろには、制服を着崩したクラスメイトが何人か。茶色い髪をした彼女の発した言葉で、陰湿な笑みを浮かべてはひそひそと何かを話している。

 呆然とする私の頭にうっすらとシルエットが浮かび上がり、目の前の人物と照らし合わせていく。

「……智子?」

「ようやく思い出してくれたんだ? そりゃそうだよね? あんた私がいないとどうにもならなかったもんね!」

 突き飛ばされたと分かったのは、ベッドが膝裏を打って傍らに置いてあった消毒液やピンセットが床に散乱したから。激しい音とともに、四人があざけるように笑う。

「ちょっと智、少しは優しくしてやんなよ?」

「まぁ、こんなあばずれには一度灸をすえとかないとねぇ」

「やるなら早いとこやんないと、先生きちゃうよ?」

 くすくすと笑う四人は、保健室に入るなり後ろ手でドアを閉めてしまう。

 息が詰まるような錯覚に陥った。大きな出来物が喉を圧迫して呼吸を阻害しているような感覚で、その遺物はガラスのように固い。

 四人が私に近づいてくる。智子に突き飛ばされることは予想していなかった。友達だったのに、友達だと思っていたのに……。驚きのあまり少しだけ腰が抜けてしまって、何とか立ち上がる私は、自分の手のひらから赤い体液がしたたたるのを感じた。見ると、床には花瓶のかけらが散乱しており、どうやらそれで切ったらしい。

「大層なご病気にかかられて、学校休みがちになったかと思えば……。入院先はあの白鳥の病院で、玉の輿でも狙ってんのかしら? 月島もかわいそ。あんだけ二人でいちゃいちゃしてたのに、結局金と権力の前では捨てられる運命なのね」

「……別にそんなんじゃ! 文学君とは友達で、別に……なんとも、ないし」

「でもあいつ、修学旅行んときあんたの愛用のカメラもってうろうろしてたらしいよ。あたしはいかなかったから知らないけどね」

 ……文学君が私のカメラをもって、私が好きな街を散策していた。結局一枚もとってきてくれなかったけど、文学君が私のために。

「……謝ってくんない? 修学旅行を無茶苦茶にしてすいませんでしたって。このままいけば親の金でUSJで遊べたのにさ、その上二股とかありえないでしょ?」智子が高圧的に私を見下ろす。

 中学の時、私は一人だった。何するにも一人で、一緒に帰る友達もいなかった。さみしかった。冬の日も夏の日も秋の日も、教室に居ようが外に居ようが私は一人で何もできなかった。そんな時話をかけてくれたのが智子だった。うれしかった。でも同時に智子を囲う人間関係との共存生活が始まり、私から自由が消えた。

 あの日からまた私に自由を教わった。誰のことも気にすることのない文学君。彼は私にとって酸素みたいなものになっていた。

 私は私の気持ちを大事にしたい。文学君を見ているうちにそう思えるようになっていた。

「ねぇ、謝んなよ。下うつむいたって謝ったことにはならないからね?」智子の取り巻きがいう。

 たじろいでしまった私はそのまま半歩下がってしまう。ちょうど膝のところにベッドがあたり。そのままそこへ座り込む形になてしまう。要するに、逃げ場はないということ。絶望なんて甘い言葉、考えている余裕もない。

 ぴしゃり。音にすればそんな音がした。文字にすれば結構軽い。でも、痛みは違う。痛みは冷たく、頬を走り、痛みが電気信号で脳に向かう頃には感情として全身を支配していく。

 恐怖。あの中学の頃に戻ったみたいに。

「中学校の頃みたいだね。あんた、誰にも口きいてもらえなかったもんね。忘れたっていうなら思い出させてあげる。卒業式だし、お互いもう顔も合わせないしね」

 私は三人の影に覆われて見えなくなる。

 

 できるだけ手短に話を済ませよう。

 今日は寒いし、あんまり長引くと私たちの間の名前の存在を考えてしまうから。

 そして元気に行こう。明日のことなんてわからない私には今日がすべてで、文学君に会うのも今日が最後。なのだとしたら、私を思い出すときはできれば笑ってる私が文学君の中に像となって現れてほしい。それが私ができるせめてもの償い。

 スカートから出ていた膝には大きな絆創膏が貼ってある。見えないところにも痣や擦り傷ができてしまった。痛みが消えても記憶がなくなるわけじゃない。

 こんな格好で家に帰ってくればそりゃ心配だってされるよ。私は事情を両親に告げることなく自室にこもった。

 体の痛みはどうでもよかった。心配事をされることに比べたら。

 だから、今日。私は私の未練に決別を告げに行かなくてはならない。

 私の将来の心配をされるわけにはいかないから。

 今日は学校を卒業して初めての日曜日。文学君にはもう連絡をしてある。彼のことだ、きっと集合時間より早くあの場所に来ている。私たちがよく二人で待ち合わせをした月見ヶ丘公園。

 日差しが玄関の窓から差し込む。やっぱりまだ肌寒いらしく、その陽光に体が当たっても暖かいとは感じにくい。私は、いつも着ているロングコートに腕を通し颯爽と立ち上がる。

 待ってろよ文学君。君の隣は私以外には向いていないんだから。


 空には白い月が浮いていた。息は白く、春になり切れていない侘しさが町全体を覆うように公園も例外なく人気がない。

 時折吹く風は、いつも二人で座っていたブランコのチェーンを揺らし、悲しげな金属音で私を迎えた。

 あたりをぐるりと見まわしても文学君はまだ来ていないようで、まだ肌寒い春の日差しを浴びた公園に私一人ぽつんとたたずんでいる。

 ここに来るまでの間、歩きながら私は考えていた。

 どうすれば自然の流れでもう会うことができないと伝えることができるのか。

 もしも断られたらどうしよう。

 もし言えなかったとしたら?

 そもそも私は何を恐れているのか、まだ二人の間には私が期待する名前なんてついてないのに。

 まぁ、座りなよ。とでも言いたげなブランコが片方だけ軽く揺れたので、私はそれに倣うように腰を下ろす。冷たい金属の鎖をつかんで少しだけ揺らしてみる。そうしていれば一人でいてもさみしくはない。

 私は心のどこかで文学君に来ないでほしいと願っていた。

 急に用事ができたとかで、それこそ新書が出たとかなんとかで私との用事なんて忘れてどこかに行っていればいい。

 そうすれば、

 そうすれば、

 そうすれば……。

 そうすれば、彼に合わなくてもいい。でも、その先の未来にも私たち二人の間にはきっと名前なんてつくはずがない。

 私はもう、自分がどうしたいのかわからなくなってしまっていた。ずっとこのままの関係も、このままの生活もあり得ない事実は高校を卒業してから日にちが立つにつれて否が応でも私にまとわりついてくる。

 唯一変わらないことがあるとすれば、この空のあの現実味がないおぼろげな真昼の月くらいか。空を見上げて何気なくそんなことを思った。

 黄昏る自分に少し自嘲気味に笑ってしまった瞬間、視界の端から人の気配を感じてしまい、我に返る。そして聞きなれた声に、私は落胆する。

「ごめん、遅れた。今来たところ?」

 謝ったところで、私はブランコをこぐことをやめることも、空を見上げて笑うこともやめはしなかった。

 このまま、笑ったまま話をしよう。

 軽く流してもらえるように、私のことはすこし気がふれてる女だってことにしよう。未練がましい発言はなるべく避けて、簡潔に終わらせよう。

「ねぇ、もう私たち合わないようにしよう」

 息をするよりも軽い発言は宙を舞って風になり、文学君の耳まで届く。

「私も高校を卒業してから行きたいこととかあるし、文学君もどっか行くんでしょ? そうしたら連絡だって取ることもできなくなるし、お互い忙しくなると思うの。そりゃ、文学君からしたらこうしてたまにあうような異性がいなくなることは少し寂しいことかもしれないけど、本ばかり読んでないでもっと世間を知ってさ、お互いに……」

 簡潔に終わらせようと思っても、長くなってしまう。

 文学君からしたら私と会うことなんて大したイベントじゃないのかもしれない。

 文学君は人より小説が好きで、会話より文字を追いたい人だ。

 私はどうして彼が気になり、こうして成り立ちもしない別れ話を切り出しているのか……。

 私は文学君を今、直視することができない。きっと彼は私なんかに興味がなくて、きょとんとした表情でそこに立っている。

 ブランコを大げさにこぎながら、虚構みたいな昼の月を眺めることでその現実から身を守る。

 あの白くて明るみに見える月みたいに、この状況も嘘であってほしかった。

「泣いてるの?」

 いわれるまで気付くことができなかった。揺れるブランコの勢いにはじかれた私の涙が文学君に当たったらしい。

「毎回そっちから呼び出しておいて会うことをやめようとか支離滅裂でしょ。いつも僕を凝視するみたいに話す癖に今日は目も合わせないし、様子が変だよ。先生から聞いたよ。病気なんでしょ?」

 私は文学君にそんな風にみられていたのか……。このタイミングになって思うとなんだか心がくすぐったくも感じる。

 でも私は漕ぐのをやめなかった。やめたらまた、文学君と会話を始めてしまう。そうしたらこのまま逃げることができなくなってしまう……。

「何があったか聞かせてよ!」

 ……文学君が私の話を聞こうとしていた。今までにないくらい能動的に。

「呼び出しておいて、病気のことも隠しておいて、これから会うのをやめようとか寝覚めが悪いよ……。何かあったんでしょ?」

「怒ってるの?」私は笑って見せた。

「日和」

 名前を呼ばれた。文学君に初めて日和と呼ばれた……。

「僕は今まで人と話すのを避けてきた。それは人と何かを話すということは、その人の中の何かを変えてしまうかもしれないから。強いては、その人の中の何かを否定して、壊しかねないと思うから。でも、今の君となら僕は話してもいいと思う。君は間違っている」

「なんだか今日はサービスがいいねぇ。自分からちゃんと話をしてくれるし、私のことを名前で呼んでくれるんだぁ……」

「もしかしたら僕は君に何もしてあげられないかもしれない、でもだったらわざわざよ出す必要はないはずなんだ。放っておけば僕なんて君に連絡をする度胸もない。そんな人間だってことはきっと見透かされている。僕と違って君は人と合わせるのがうまい。だからそれくらいの力はあるはずなんだ。でもそうしなかったのには何か理由があるんだろ? それを教えてほしい」

 私はそれらを無視してブランコから飛び降りる。最近運動していない割に結構かっこよく下りたつもりだ。人前で泣いていたんだ、最後くらいは格好つけたい。

「日和待って……!」

 ふいに私の体が後ろに引っ張られるように動かなくなってしまう。

 そして、気づいてしまう。文学君が私の手を握っていることに。

「修学旅行委員で君と一緒になれたこと、僕は正直うれしかった。隣に誰かがいてくれることがこんなにも心が落ち着くことも知らなかった。全部君が教えてくれたことだ。僕の隣は君じゃなきゃダメなんだ」

 感情が急に膨張して、うつむいたまま自分でも自覚できるほど泣いてしまう。

「もしかして突然の告白だったりするの? やだなぁそういうの文学君らしくないよ」

 振り向いてしまった私はもしかしたら泣きながら笑っていたのかもしれない。文学君が「泣くか笑うかどっちかにしなよ」と心配そうに眉を下げた。

「ごめん。もういかないと……」

 私を止めようとしてくれたんだと思う。踵を返した私に触れようとする文学君の右手が肩をかすめる。

「もし仮に、日和が今抱えている問題が全部解決して……、それでも僕のことを覚えてくれていたなら……。またここで会おう。その日が来るまで僕は待ってるから」

 待ってるから。……か。

 空を切る文学君の言葉は三月の冷たい空気に溶けていき、地面に落ちた。

 でも、待ってるって言葉は私の耳にいつまでも残っていた。

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