第8話 契約
俺が守るから。
確かに王子はそう言っていた。
その時は何かの気休めでそう言っていただけだとばかり思っていたのに、そこから私の人生は狂いだす。
何度も思い出してはもみくしゃにして頭の中のごみ箱に投げ捨てた記憶。
父さんから借りた車は煙草の匂いが染みついてて、ろくに掃除もしてないのかフロントガラスと速度メーターの境目に蛾の死骸が横たわっていた。
純白のウェディングドレスが汚れる。あの空気のような彼ならそんなことを気にするのだろうけど、今の私はあの人形の私ではない。やりたいことのためにこの瞬間を生きている人間に戻ることができた。それはこうして私を檻から出してくれた父さんのおかげ。
「もうあのときみたいに嘘はつかない……。まってろ文学君。君の隣は私の席なんだから」
祈るようにつぶやいた後、信号が赤から青に変わり、そのタイミングで強くアクセルを踏み込む。
軽トラを運転する新婦の姿はさぞ奇怪に見えたことだろう。
私の姿を見た子供たちが私を指差し笑っていた。
私もなんだかそんな自分が愉快に思えて、口元が緩んでいた。
検査入院がしばらく続いて、気づいたときにはもう三学期になっていた。秋はもう過去のものとなり、私は自室の窓からつもっていく雪を眺めていた。
王子はあれから私に頻繁に会いに来るようになった。もともとこの土地に叔父さんの家があって、小学校三年の時に親の都合で泣く泣く都会に越していった王子は高校入学を期にこちらに戻ってくる機会をうかがっていたらしい。もともと私立の医大付属の高校に在学していた王子は、両親に内緒で週末には頻繁に叔父さんのところに遊びにくるという名目でこちらにきていたようで、そのたびに私の家の近くを通りかかっていたみたい。私はぜんぜん気づくことはなかったし、意識することもなかった。親友の智子も小学校からのつきあいだからからかうこともあったけど、もうその心配もない。
私はタブーを犯した上に、男をたぶらかす悪女という定説が学校では広まっているらしい。
智子も実はあの修学旅行には否定的で、私のやった行為に対するけじめと称して昨日学校で女子トイレに呼び出されて……。
王子も寒かったろうな……。なんて思っているうちはよかった。
智子も、件の三人組もいなくなって。日が暮れて、夜になって、誰も来なくて……。
誰かに見られるのも嫌で、大声も出せなくて、寒くて、寒くて、怖くて。
検査入院の間にようやく読み終わった坊ちゃんを返す約束をしていた文学君が私を捜し当ててくれるまで、私はずっと一人泣いていた。
「明日、先生に言おう。そうでもしないとまた……」
「いっても今度またひどい目に遭うよ、私は平気だから。まだしばらく病院に行かないとならないし……。それに、これは罰なんだよ。みんなの意見を尊重しなかった私の」
罰だなんて言うけど、思ったことを口にしただけで悪いことはなにもしていない。君一人の意見が間違っているというのであれば、それは向こうも同じこと。友達なのかもしれないけど、智子って人だけがそういう意見を持っているのかもしれない。みんなはそれに逆らえない。そういう可能性もあるでしょ。
文学君はそういって、私の手を引いて歩いてくれた。
きっと卒業式もこうして自宅療養ってことで終わるんだろうな。なんて思うと少し寂しい。
暖房を利かせた温室のような部屋なのに、窓際は少し寒くて、私のため息が白いもやを窓につけた。
今まで気の向くままに生きてきた私は、一日の重さをなにも知らなかった。だからこうして聞き慣れない病気にかかったとき、生きているという感覚を嫌でも味わう。そして、一日一日を大切にと思えば思うほどそうもいえなくなる。
昨日の夜、階下のキッチンから漏れてきた会話の中にいくつかの不穏なキーワードがあった。
負債。
倒産。
ごめん。
そして「がんばろう」
がんばろうは、たぶん私のため。ごめんは母さんのため。
見捨てればいいのに、男をたぶらかす女のことは。
明日、私の願いが叶うことなんてない。
「明日、ちょっとだけ話できないかな?」
もう誰とも連絡を取ることもない私の携帯にメールが届く。それに気がついたのはいつものように真っ青な空にけだるげに浮かぶお昼の月を眺めていた午後の話。学校に行くような体調でもないし、病院に赴くような精神状態でもなかった。私は私の未来を疑って、否定していた。
王子はそんな私に用があるらしい。
空はまだどんよりとした空気をはらんでいて、とても外出するような気分にはなれなかった。
二週間ぶりに出た外。笑って見過ごせるようなものは何一つない。
轍を作りながらゆっくり進む車も、庭先で雪合戦をする子供も、冷たいだけの雪も、もしかしたら今年を最後に見ることはない。
王子に呼び出された喫茶店までの道のりはどこまで行っても色がなかった。
地元民の私でさえ一度も入ったことのない古びた喫茶店。中にはいるとむっとした温度に全身を包まれた。それとほぼ同時にコーヒーの香り。
感じのいい店主が私を認めると、軽く会釈して聞き慣れた言葉で私を迎える。本来ならもう少し喜べることなのかもしれない。こんなおしゃれな外観の喫茶店で幼なじみと談笑ができるなんて。できることなら健康的な体できてみたかった。
アンティーク調の小物が並ぶ室内、その奥のちょうど国道に面した窓際の席に見慣れた顔がいつもの抜けた表情で私を手招きしていた。
「久しぶり、元気してた?」
まるで明日の天気でも聞くみたいなおどけた口調。王子にしてみれば今日も明日も価値は同じ。
「今日はまだ少し体調はいいかな……。で、話って?」
王子に向かい合うように私も席に着く。空調が利いているとはいえ、さすがに窓際はすこし寒い。
王子は私が頼むことを見越してか、先に二人分のコーヒーを頼んでいたらしく、席に着くなり暖かいブラックコーヒーが目の前におかれる。
「……もしかして飲めない?」
それは、まだ私に大人としての素養が足りていないのかと聞かれているようで少しだけむっとする。
「別に。ブラックくらい飲めるよ」本当は無糖よりカフェオレの方が好きなんだけど。
「よかった。ここのコーヒーはとてもいい香りがするんだ。嗅いでいて落ち着くいい仕事をする。……最近家にこもってばかりで気分が落ち込むだろうと思ってさ」
確かにここ数週間はこもってばかりいた。学校に行けるようなきもちでもない。ずっと文学君に借りていた坊ちゃんとにらめっこしては、どういう気持ちで文学君はこの文字を追っていたのだろうと勝手に思いを馳せていた。当の本人は、時折私の家の前にきては父さんに学校からのプリントを渡したりしていたらしいけど、私には何の話もない。一見冷たいような印象があるかもしれないけど、人に面と向かって話をすることができない文学君のことだ。要するに私に早く早く戻ってきてほしいのだ。
「ありがと。なんだか雰囲気のいいお店だね。地元なのにぜんぜん知らなかった」
「ほんとは君の両親とも話をしたかったんだけど、平日しか時間とれなくて」
単刀直入に言うと。彼はそういって息を深く吸い込んだ。
私もその仕草に何か危険なものを感じて身構えてしまう。
「うちに君の面倒を見させてもらえないだろうか?」
体調はもちろん健康的ではない。体からは常に私には聞こえない臓器からの悲鳴が上がり続けているし、病院からもそういわれている。
でも、だからといって今この瞬間私の体から時間が抜け落ちたのは病気のせいなんかじゃない。
「うちなら君を直せる。確実に。なんならすぐにでも入院して早く治療に専念した方がいい。……そうしたほうが、いい。君がいないと、オレが困る」
私の体に時間が戻らないうちに、もう一つ意識していない出来事が起こった。
「つきあってほしい。生きて、そしてオレの隣にいてほしい」
気づけば両手を握られていた。暖かい王子の手。
「返事はいつでもいい。待ってる」
「ちょっ……それじゃ」
「オレじゃ嫌?」
嫌……じゃない、けど……。
「それじゃ私の命と交換条件みたいじゃん」
一瞬、王子の眉間がピクリと動くのが見えた。
「天ちゃんへの気持ちは嘘じゃない。今までずっとそばにいてずっと思ってきた。好きな人のことを守りたいと思うことはそこまでおかしいこと?」
「そうじゃなくて、私の気持ちはどうなるの?」
「心配ないよ。僕らならうまくやれる」
うまく、やれる……?
「オレのそばにいれば病気だって治る。なんせうちの病院には最新鋭の設備しかない。君はそこで一流の医師による近代医学の随意を結集させた治療を受けることになる。おじさんの工場、傾いてるんでしょ? 悪い話じゃないと思うよ」
私が、うまくやれば、父さんも母さんも離婚しなくてすむ……。
斜陽が差し込む老舗の喫茶店。町中の喧噪もない穏やかな空間に、私は一人陰に落ちていく感覚だった。
家につくと父さんは私を認めるなり、よかったなと肩を抱いた。母さんは涙目で私を見て、ついには泣いてしまう始末だった。
夜の七時。私は久しぶりにみる居間の掛け時計に妙な現実味を覚えると同時に、泣きつく二人に異様なほどの嫌悪感を覚えていた。
あぁ、もう戻ることはできないのか。
体は徐々に生命活動を開始してくれるだろう。
食欲もきっとでる。昔みたいに走ったり、買い物に出かけることもできる。
でも、もう私は心から笑うことができない。
大河を流れる木の葉のように、現実は私の意志ではどうにもならない。 せめて文学君にははなしておこう。この事態を。できるだけ傷つけないように。
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