第5話 居場所

それから特に文学君との接点はなかった。修学旅行委員の活動らしい活動があるわけでもなく、廊下ですれ違っても文学君は私と目を合わせないことが多かった。

 それでも周囲からの「お前が聞いてこい」という圧力から、先日の美人さんは一体何者なのかという調査を何故か私がやることになってしまう。私も私で嫌そうな顔はしてみたけど、結局興味には勝てず「お前が行かないで誰が行くのだ」というこれまた謎の使命感に似た強迫観念から行動に出る。つまり、教室の隅で一人黙々と活字を追う彼に意を決して聞いてみた。

「ねぇ、昨日の人誰?」

 単刀直入に聞いてしまったのは、たぶん私が異様に緊張していたせい。ってかこの質問じゃ勘違いされてもおかしくないぞ私。

「昨日の人?」と私の思ったよう言葉の裏を探るような返事をしなかった文学君は、読んでいた文庫の本に紐で区切りをつけて目の前の私に顔を向ける。

「そう。いつもこんな教室の隅で小説読んでいるのになんか珍しいなって、みんなが」と私は仲間を引きずり込むべく背後にいるはずの智子たちを振り返ったけど、後ろには誰もいなかった。やってくれる……。

「……あぁ、彼女? 僕が参加してる読書好きの集まりの社会人。貸してた小説の感想とかいろいろって……興味ないよね」

 苦笑いを浮かべる文学君に私は少し罪悪感を感じてしまって、つい「興味ないってわけじゃないよ。授業でもほらなんか習うじゃん? 夏目漱石のぼっちゃんとかさ」なんて言ってしまったもんだから向こうも、

「意外。天道さん、なんか部活とかに忙しいみたいだから興味ないかと思ってた」

「失礼な! 私だって純日本人よ? 夏目漱石くらい読むわよ」

「そうじゃなくて。好きな作家さんがいるのが意外だなって。よかったらさ、読む?」

 差し出された読みかけの文庫本に、私は少しだけたじろいでしまった。だって本当は興味なんて……。

「よかったらさ、感想聞かせて。別に僕が書いたってものでもないんだし、変な話かもしれないけど、聞いてみたいんだ。天道さんの感想」

「……わかった。ただ、少し時間かかるかもしれないってことは憶えといて。私、読むの遅いから。それと……」

「それと?」

「その、小説。すぐに汚したりしちゃうかも。栞とか無くしたり」

「あぁ。栞ね。ちゃんとスピンついてるから、よっぽど力強く引っ張らない限りは切れないと思うよ」

「スピン?」

「そう、この紐。今じゃこの出版会社しかつけてくれないんだけどさ、僕は風情があってこっちのほうが好きなんだ。周りからはよく同じだろってバカにされるんだけどね。周りにどんなことを言われたとしても、自分の価値観は持ち続けたい……なんてね」文学君は、私たちの持っていた文学君のイメージよりもはるかにおしゃべりで、

「馬鹿じゃないの」

「カッコつけたつもりなんだけどなぁ。ダメ? 今の?」

 私の思っていたイメージよりもはるかにかっこいい人だった。そして、この私が抱いたイメージはクラスにも広がっていって、いつの間にかただ教室の隅で小説を読みふける根暗な人から、理知的で物静かでどこかミステリアスな雰囲気の人っていうイメージに文学君は変わっていった。

「今日はちょっと用事があるからまた今度。さすがにこの本は活字に慣れていないと最後まで読むのはつらいだろうから」

 文学君は読みかけの古びた文庫の本を机にしまうと、図書館に行くと立ち上がってしまう。

 クラスでの文学君の雰囲気の再評価は内面的なものだけでとどまることを知らず、外見のほうも私が思いもよらない方向へと進んでいった。

 文学君はかっこいい。そう思う女子が私以外にも複数人いることが分かった。私だけの優良物件だったはずの文学君がいつの間にか、みんなの文学君になりつつあった。


 この間現代文の授業でやった小テストが返って来た。……返ってきてしまった。私は自分の答案用紙を前に愕然としてしまった。もちろんそれは直接私の成績にかかわることのないただの紙切れなんだけど、この間菅原商店のおばちゃんとの対決を思い出すとなんだか悔しいような思いに駆られる。見せなければそれでいいのかもしれないけど、今日はなんだかおばちゃんの顔を見たくなってきてしまっていた。私には闘志みたいなものが必要だった。

 クラスの平均点より下。こんな成績じゃ進学はおろか就職だってもしかしたら……なんて考えると足元が揺らいでしまう気がした。だから学校が終わったらまっすぐ帰ろう。おばあちゃんに叱られよう。そう思っていたからホームルームが終わると、私はカバンをひったくって教室を出ようと扉に手をかけた。廊下は外の雨が呼び込んだ湿気でじめっとしていてそれだけで嫌な感じがして、足早に階下の下駄箱に急ぐ。

 今日の部活は雨天中止で、私以外のメンバーはカラオケにでも行こうかなんてはしゃいでいた。智子も。教室でみんなそんな話をしていたことは知っていた。

「日和も行こうよ」

 下駄箱についた私を、そんな言葉が待っていた。

 私の下駄箱の前に、部活のメンバーがいた。その言葉に私はあいまいな笑みを浮かべてしまう。素直に行きたくないなんて言えない。いつも教室の隅で何かと戦っているみたいに小説を読みふけっている文学君みたいに自分を貫けない。

「ごめん、私今日ちょっと用事……」ようやく言えたその言葉でどれだけみんなが嫌な思いをしたのか、みるみる変わっていく表情に私は凍り付いた。

「また勉強? あんな小テストなんて気にすることないって」

「そうだよ」

 みんな私の居場所を守ってくれている。でも、私にはいかないといけないところがあって……。誘惑と責務と同調圧力でめまいがしてくる。

「ほんとごめん。今日はちょっとほんとに用事があって」

 言いながら私は自分の下駄箱から靴を取り出し、足をはめて振り返ってはまた「ごめんね。次、誘って」なんて何かに許しを請うようなセリフが口から出てしまった。

「何あれ? 付き合い悪っ……」背後でそんな声が聞こえた。

 校門では何人かが親の車を待っているのが見えたけど、生憎私の家では迎えに来るような人はいない。

 父さんは工場長として日々の大半をあの工場で過ごしているし、母さんは今頃スーパーで総菜を作っているはずだから。私は二本の足で濡れて間もないアスファルトを蹴りだす。一歩一歩あばちゃんい怒られに行くこの道はまるでゴルゴダの丘までの道のり。私は私を処刑まではいかないまでも、私に活を入れてくれる人のところまで行く。

 こんな雨の中一人で帰路に就くのは少しだけさみしい気がした。みんなとやっぱりカラオケにでも行ったほうが楽しかったのかなぁなんて思ったりもする自分がいて、また少し迷いが生じる。たとえおばちゃんに活を入れてもらって、今日からまじめに猛勉強を始めたとして本当に志望校に受かるのだろうか。大学に行きたい。そう思ったのは確固たる目標を掲げてのことではない。高校を卒業して急に働くなんて私には到底想像もつかなかった。もうワンクッション。これから訪れる大きな何かの前に私は時間が欲しかった。


 菅原商店についた私は、目を丸くした。突っ立たまま、何もできない私を二人はお茶をすすりながら見ている。

「……文学君。なんで……?」

 レジの脇の框に菅原のおばちゃんと文学君が並んで、驚く私をただただ見つめている。

 野生動物は自分の目の前に予想もしない生き物が現れると、相手の動きを見て自分も動くらしい。先に動いてしまった私は、きっと野生では生きられない。

「文学君なんて呼ばれてるのかい? まぁまぁ仕方ないかねぇ……。私は止めたんだよ? 男なのに栞だなんておかしな名前つけるんじゃないって」

「僕は気にしてないよ。栞は物事を成し遂げるために必要な印。ゲームで言えばセーブ機能。僕は物語を切り開くための楔とも思っているよ。それよりこれ、おばあちゃん借りてた本」

「別に返さなくっても……、私はもう読まなくなったわけだし、これはそもそも司のものだろう。それこそ推薦で大学目指してるのに遅刻癖のひどい奴にでも貸したらどうだい?」

「でもこれはおばあちゃんが持ってるべきだよ。父さんを思い出させるものなんてもうあんまりないんだからさ」

「父さん!? おばあちゃん!? え!? 文学君、孫!?」

「いちいちうるさい子だねぇ。読むのかい? 読まないのかい?」

 胸をそらして私を見る菅原のおばちゃんは、どこか私に挑戦的な目を向けていた。あんたにこれが読めるのかい? ってか。馬鹿にすんなよ。

「ちょうど私もその本読みたかったところよ。探す手間が省けたわ。ありがとう」と言ってはみたものの、その分厚さに少し気が重くなる。きっとそれを読んでしまった暁には、感想をこの二人に話をしないとならないだろう。そうでもしないときっと読んだことにもならないし、変にあいまいな感想だと読んでいないことがばれてしまう。

 私は二人の間に入って菅原のおばちゃんから本を借りる。レジの横の小さな長椅子に座った二人はお茶を飲むのもやめて私を見ていた。無理するなよって顔に書いてある二人を差し置いて、私は早速その一ページ目をめくり、めくり、めくり、めくり……。

「あんた、よしたらどうだい? 柄にもないじゃないか。あんたはどちらかというと頭を使う人間じゃなくて体を使う方の人間だろう?」

「いや、私はやると言ったらやるの。そうね。一週間、それまでに読んで見せるわ!」

 学校のみんなの前でも、こうやって胸張って自分の意見を言えたらいいのに、私はいつも内弁慶。なれてしまったおばあちゃんの前ではこうして素でいられる。小学校から通い詰めているこの場所なら、私を見捨てたりしない。おばあちゃんだけは私を見捨てたりしない。学校でいじめられても。学校で嫌なことがあっても。参観日に誰も来なくても、帰りにここに立ち寄りさえすれば言いたいことを言い合える人がここにはいた。どんなにわめいても私を甘やかしたりしない、同情なんてしてくれないけどその代わり迷惑がったりもしない。偏屈で優しい菅原のおばちゃん。

「まぁ、でもそこまで言うならお目付け役もいることだ。読めるものなら読んでご覧。どうせ返って来たって小テストもろくな点数じゃないんだろうし、現代文くらいはもしかしたら点数も上がるかもね」

「目付け役って、まさか」

「栞以外に誰がいる? 私はさすがにあんたの暇つぶしに付き合ってやるほど暇じゃあない。聞くところによると同じ委員会らしいじゃないか。まぁついでだね」

 私を間に挟んだ文学君は苦笑いを浮かべているけど、言い出したら聞かない菅原のおばちゃんを熟知しているらしくしい。しばらく文学君の様子をうかがってみたけど、何かしらの弁護をしてくれる気配はなかった。


「しばらく委員会はないわけだし、読む時間ならたっぷりあるんじゃないかな?」

 奇遇なことに私の家と同じ方向に文学君の家があるらしく、私たち二人は雨あがりの歩道を並んで歩く。見上げる空には薄い虹がかかっていて、見上げた新緑の街路樹がとてもきれいに茜色に染まている。とてもきれい、そう思うだけで菅原のおばちゃんとの件も少しだけ気分が霧散していく。

 文学君の言葉も相乗効果になっているに違いない、私の歩幅はおきくなる。

「当り前じゃない。委員会が本格的に始まる前に読み終わってやるんだから。ぼっちゃんだか何だか知らないけど、読破してやる!」

「そんなに意気込んでも天道さんとって面白い作品とは限らないよ」

「なにそれ? 私には無理だとでも?」

「続かないでしょ? 読書って別に頑張ってやることじゃないし、そんなことしても楽しくはないよ?」

「じゃあなんで文学君は読んでるの? 毎日毎日、ろくに会話をすることもなくただ黙々とそんな退屈なこと」

「僕は楽しいよ? もちろん。じゃないとやってない」

「誰かと話をするよりも楽しい?」

「僕からすればほかの誰かに自分を合わせるような人間関係の方が、一体何が楽しいのか疑問に思うけど?」

「文学君は少し特殊だから……。みんなと一緒に動いてないとこれから大変だよ? はっきり言うのもいいとは思うけど、就活どうする気? 面接だってあんなところで本心でも話すつもりなの?」

 私は想像する。はっきりと自分の心情を言ってしまう面接室の文学君。目の前の面接官は絶句して何も言えないけど、なぜか胸を張っている文学君は結果なんて気にしない。

「僕は人に使われるのはまっぴらごめんだ。きっとストレスで半年持たないだろう。どうしても社会の暗黙の了解で誰かの意見に従って、顔色伺いながら仕事をしないといけないとして、例えばそうするために僕が気に入らない面接官の前で本心とは違うことを言わないといけない場面があるとしたら、仕方ない。面接を受けよう。でも、言いたいことは言うし嫌なことは我慢しない。だからこうして知り合って間もない天道さんと一緒に帰っているし、おばあちゃんの言っていた天道さんが読めるかわからない小説の観察もするつもり」

「そんなに私を疑うの? あんなもんいつでも読めるって」

「というよりは、別に嫌じゃないってだけかな」

「何が?」

「天道さん」

 文学君はそういうと私の半歩先を歩く。少しくらい顔を赤らめていれば人間味があって、もっと文学君のことを好きになれたかもしれないけど文学君は涼しい顔したまま振り向く。

「もしかしたら小説を好きになってくれるかもしれない人が増えること。読んでみないことには、好きかどうかも分からないでしょ?」

 安易に好きになれたかもしれないだなんて思ってしまった心に錠を落とす。私は変な期待を文学君に持ってしまっていた。私と違って物事をはっきりと言えてしまう力強い彼が、私のそばにいてくれる未来を。文学君には女たらしの才能があるのかもしれない。あまり派手な顔つきをしてるわけではないけど、さっぱりとした髪型に少し眠たげな瞳。

「どうかした? そんなに見られてもネタバレとかはしないし、手伝いもしないよ?」

 文学君のサラサラな髪を夕日が透かしている。なんだかこういう日常の絵も今しか味わえないものだと思うと、相手が女たらしの文学君だとしても愛おしく感じてしまう。

「べっつにー。私の家、もう少しだからここまでだね! じゃっ! またね」

 6月の雨上がり、夕方。最近知り合ったばかりのクラスメイトとの帰り道。私にとって何気ない体験だけど。

「楽しかったよ。女の子と帰ることなんてめったになかったし、天道さんがこんなに話せる人だと思わなかったから」

 ふと笑って見せる文学君は、やっぱり少しかわいい。


 私にはやっぱり一週間で読破だなんて無理な話だった。

 意地になって読み進めてはみたけど、文章が固い上に、やっぱり漫画みたいな挿絵がないと物足りない気がして手が止まってしまうんだよねぇ。

 それでも根気強く毎日コツコツ読み進めたけど、結局文学君の了承を得て、一週間という期日を2か月先に延ばしてもらったことは言うまでもない。

 学校から帰ってすぐ、夕飯を片手間にあの憎き紙の本とにらめっこをする。突然文庫の、しかも坊ちゃんなんて年季の入ったものを読みだすものだから、母さんはその小説を見入るように凝視してきたし、父さんなんて明日は槍が降り出すかもしれないなんんて私をみて笑っていた。それでも私はページをめくることをやめなかった。だってもし仮に、私がここで読破をあきらめてしまったら、菅原のおばちゃんに笑われるどころか、今までつけにしてきた駄菓子代をその場で請求されかねない。夕飯を済ませ、お風呂に入り、自室に戻るころ文学君にどれくらい読めたのかをlineで報告。疑われるのも嫌なので、内容を事細かく報告する。1か月でもう半分も読んでいた。私の根気と文学君の存在が私に読書を進めてくる。学問のススメ。福沢諭吉と夏目漱石は違うけど、同じ作家と考えるとこうして漱石の文学を読んでいるだけで私自身高尚な存在になってしまった気がして少しだけ鼻が高くなる。読んだだけで賢くなるなんて思えないけどさ。

 読むたびに思う。私はこんなに強い人間になれない。その考えが頭をよぎるたびに、ページを閉じたくなる。無鉄砲で無計画で、それでいて行動力ならだれよりもあって自分に嘘をつかない人。

 部活のない日に菅原商店へ向かう私を、みんなは道端で見かける何かの死体を見るような目で見ていた。

「坊ちゃんならどうしたんだろ……」言いながら私は勉強机で伸びをして、部屋に飾ってある青色のcitizenの壁時計を見てしまう。集中力が途切れてしまった。

 私は正直なところ我慢をしている。うん。間違いなく、我慢をしている。智子のご機嫌を伺い、みんなの顔色を気にして生活をしている。合わせることにそう苦痛を感じたことはない、ただ……怖い。本心を伝えて嫌われるんじゃないか、昔みたいに一人になってしまうんじゃないかって。それを考えると、やっぱり文学君は強い。誰かのご機嫌をうかがうことはないし、言いたいことは結構はっきりという。

「ってあんなんになれないって。ふつーに考えてみ? 私? これから生きていくうえで空気を察するっていうことは大事なことのはずよ? いい? 天道日和18歳。あなたは今あなたの進路を妨害する沼に嵌ろうとしているの。そんなことよりあなたには今やるべきことがあるはずよ?」

 突っ伏しながらつぶやく独り言をスイッチに、私の体はリブートして、機械的に起き上がる。肘が読みかけの小説に当たったんだと思う。私の意に反して坊ちゃんは床に落ちてしまい、差し込んでおいたスピンも頁から外れてしまってどこまで読んだかわからなくなる。

「勘弁してよ……。せっかくもう少しで読み終わるのにさぁ……」言いながら坊ちゃんを拾う私の目に、見慣れない文字が飛び込んできた。

 背表紙と最後1ページの間に挟まれた白い封筒。そこには薄くかすれた人の名前と思しき文字が書かれていた。きっと何度も見返したんだろう。日に焼けて白い封筒も少しだけ黄ばんでしまっていて、上部の切り口も手で慌てて引き裂かれたようにずたずたになっていた。

「清原……郷……?」凝視して判別できた部分だけを何気に口にする。そっとその薄汚れた封筒に手を差し伸べた瞬間、階下から父さんと母さんの声がして手を止める。

「日和の奴、大学行きたいだなんて言ってたけどあんな調子で受かるのかね」

「どういうこと?」

「さとみに似て小説なんか読みだして……」

「あら、読書をすることはいいことよ? 自分以外の人の経験を疑似体験できるもの、それから学ぶことはいくらでもあるわ。それに、あなたみたいな堅物にならなくて済むかもしれない」

「文字ばかり追いやがって……。俺にテストの答案も見せないくせに」

「見せるタイミングがないだけよ。あなた、仕事仕事で授業参観にも出てくれないじゃない。そりゃあの子だって見せにくくなるわよ」

「……なんだ? あいつがああなったのは俺のせいだって言いたいのか!?」

 テーブルを強くたたく音。

「工場の業績が落ちてるからってこっちにまで八つ当たりしないで頂戴! つらいのもわかるけど、お酒を飲んだからって現実は何も変わらないのよ!?」

「うるせぇ!」

 グラスが割れる音と、何かを手ではじくような音と、母さんが泣く声。

「す、すまん。ついかっとなってしまった。今、救急箱持ってくるから」

 ……また喧嘩をしている。私が勉強から逃げてるから今日は余計に罪悪感がある。私のせいとまでは言わないけど……活字を追うのもいい加減やめないと。

 一日の読書の時間を30分と決めていた私は、それを明日持っていく教科書の類と一緒にカバンにしまう。そうしてみてしまった数学の教科書をつい、というか一応勉強のために手に取ってしまう。これも私の一日のルーティン。例えばここで勉強をしたところで私の未来は変わらないものとして、この勉強も結局なんの結果も生まない自己満足の行為だったとして、それでもこれをやっておかないと眠れない。不安に駆られて起きてしまう。

 やな癖。そう思いながらもスタンドライトに照らさせた見たくもない点Pが、私をコケにするように縦横無尽に動いていく。なんの目的があって点Pは動くのか私にはわからないけど、この問題にも取り組まないと……。

 なんとか動かしだしたシャープペンシルは最近買ったものだ。文房具を新しくすることで勉強に対するモチベーションを少しでも上げてあげる。こうすることでもっと勉強が好きになって、次の期末テストだって私史上最高の得点をとって、そんでもって父さんにねだって前から欲しかったものを買って貰うんだから!

 好きなものというワードが私の集中力を削いで、自然の流れでつい右手が勉強机の下へと伸びてしまう。

 引き出しにしまってあるのは、私が一番大事にしているカメラ……。

 小学三年生の時、私は盲腸で入院してしまった。父さんも母さんも心配してくれて、毎日のようにお見舞いに来てくれて日中は不安なんて感じる暇もなかった。ただ、夜だけはどうしてもだめだった。真っ暗な病院、時折聞こえる看護婦さんの足音、名前も知らない薬の匂い。初めて入院しているというのももちろんあるけど、私がいるその環境はホラー映画のワンシーンのように見えて毎晩私は布団を頭までかぶっていた。

 ──初めてなんだって? 入院。夜ってなんか出そうで怖いよねぇ? 私も夜勤嫌いだもん。懐中電灯持って歩いているんだけどねぇ、やっぱなれないよ。

 優しく接してくれた看護婦さんの顔には、もうすでにもやがかかっていて思い出す子はできないけどこれだけは覚えていた。

 ──はいこれ。欲しがってたトイカメラ。夜泣く位暇なら私をも凌駕する味のあるピンボケを出してごらんなさい? まぁ、夜も寝ずに研究しないといけないかもしれないけど。

 毎晩布団の中で震えるだけの私に、その看護婦さんは戦えと言ってくれた。夜の暗闇に抗って、明日の朝日が昇るのを待てと言ってくれた。

 私はその日から怯えるだけの消灯時間をやめた。私の撮った写真に難癖をつけつつも最後には「明日はもっとすごいものが撮れるかもね」と笑ってくれた看護婦さんを想像しながら、消灯台で写真とにらめっこしながら、メモを取る。気温、湿度、角度、晴れ具合、陰り具合、なんなら私の空腹度とかのデータも載せる。入院中に見せられた看護婦さんが撮ったというありふれた花の写真。病室のみんなはピンボケだなって笑ってたけど、私には見たこともない異次元の美しい写真に心が震えた。人の禁忌を犯した写真だなんて不謹慎かもしれないけど、それくらい危なげで、それほど綺麗で……。

 とにかく私は綺麗な写真を撮る。そのために美大に行ってカメラを学ぶ必要がある。ここから少し離れた都心に行かないといけないけど、別にここに残らないといけないような事情は私にはない。

「よし……!」

 気合一閃、私はオレンジ色したかわいいシャープペンシルで思いつく限りの方法で目の前の公式を解いていく。


 梅雨が明けてセミがうるさく鳴きだすころ、借りていた坊ちゃんも残り数ページとなっていた。私に坊ちゃんほどの思い切りのいい行動がとれることもなく【校門の件は例外ということで……】私の日常は何の変哲もなく過ぎていく。いつものように学校に行き、いつものようにみんなに作り笑顔で対応して自分を殺して生活をする。そんな私を文学君は冷たい目で見てくるけど、文学君と私が住む世界は違うんだよって私に言い聞かせる。私はここじゃないと生きていけない。ここを出てしまったら、私はきっと私ではなくなる。

 その価値観は、ある日を境に消えてなくなってしまうことをまだ私は知らなかった。


 修学旅行に欠かせないもの。カメラ、これはもちろん自前をもっていくつもり。カバン、これはもう買ってある。この日のためにコンバースのおしゃれなボストンバックをAmazonで頼んでおいた。母さんには結構好評だったんだけど、父さんがそんなものあるもので代用しなさいってケチをつけてきた。人生で1回だけの修学旅行なんだよ? それなりに身なりを整えて決行したいじゃん。女心をわからない父さんにはお土産なんて買っていかないって思ったけど、私をフォローしてくれた母さんに免じて買ってきてあげることにする。

 で、忘れてはいけないものを1つ。しおり。旅のしおりなんてとってつけてような名前のものを作成しないといけないらしい。

「と、いうわけなんで早速作りましょう」って言われてもさぁ……。こういうことになるだろうなって思ってたけど、隣の私の相棒たる文学君は先生のその合図を聞いているのか黒板に書かれた主要な観光地の名前を見ながら微動だにしない。

「視聴覚室なら使っていいから。あ、そうだ日報も作らないとね。毎週修学旅行の情報を発信してくやつ。すっかり忘れてた!」新任の田畑先生はどうやら天然らしい。

 

 ――さかのぼること一週間前。

 梅雨もまだ明けきらない6月の最終日。雨も降っていたし、湿気は半端ないしで気分は最悪。で、そこにバッドニュース。

「修学旅行先は長崎に決まりました! よかったな! いいところだぞ長崎! 佐世保バーガーとか、皿うどんとか、ちゃんぽんとか」

 あんたは食い気しかないのかって目でクラスのみんなは担任の飯塚先生を見ていたと思う。今日は部活もないし、このホームルームさえ終わってしまえば自由! ってテンションだったのに私を含めクラス全体の空気は微妙な感じになってしまった。

 だって……! 最近できたばっかりなんだよ? USJ!!

 ユニバーサルスタジオジャパン! まさか知らないわけじゃないよね!? 先生!?

 みんなの声が今の私になら聞こえる気がした。現にクラスのあちらこちらからざわつきが起きている。流行りに疎い私でさえ知ってるのに、先生が知らないはずもない。

「しかたないだろ? もう決まっちゃったんだから」みんなの反応にすこしたじろいだ先生は、ばつの悪そうに貫禄のあるお腹をさする。

「誰が決めたんですか?」みんなの声を明日菜が大きな口を開けて聞く。

「誰ってもう例年のことだし、会議で決まってしまったんだ。まぁ、本当なら京都でも先生としては歓迎なんだけどな。みんながUSJ行きたい気持ちはわかるんだけど、もう変えることはできないんだ」

 クラスの隅ではまだ不満が燻って、誰かの漏らす小さなため息すら聞こえる。私は……USJがよかったかな……。

 目先の欲に視界を奪われて、私たちには長崎に降り立つ姿を想像できなかった。


 修学旅行委員担当の田畑先生の指示のもと、私たちは視聴覚室でパソコンに文字を打ち込んでいく。

 

 長崎 食べ物

 長崎 見どころ

 長崎 お土産


 グラバー園やハウステンスなどを見ていると、京都とは違う良さが見えてくる。なんてさっきまでUSJに心を奪われていた私が言うことでものないのかもしれないけど。

 ホームページを見ながら私は思わずその写真に見入っていた。

 グラバー園はその昔、長崎で貿易をするためにやって来た外国人の居住地だったらしく当時にしては珍しい建築物で私から見ても結構おしゃれな建物に見えてくる。例えば明治時代の水道共用栓。少しマニアックかもしれないけど、写真写りは良いはず。なんてたってこのレトロ感がたまらなくいい。ほかにも砲台なんて物騒なものもあるみたいだけど、これは写真に収めるつもりはない。まぁ、やっぱり一番はこの小さな庭園を前面に構えつつ西洋感たっぷりの雰囲気を漂わせるグラバー邸が私のお気に入りかなぁ……。なんて画面をスクロールしながらありもしない透明なカメラを構えて構図を図ってみる。

 長崎、いいところじゃん。心はいつしか長崎でシャッターを切る自分を想像していた。

「ってかチョコレートの滝って滝!? 沢じゃんこんなの」

「自転車と風車ってちょっと弱くない?」

「ねぇ、日和もそう思うでしょ?」

 3つの話が私を抜けて、空気になった。

「え? ……そうだね。うん、そう。私もそう思う」言いながら私の目の前のパソコンの画像はグラバー園にあるという3つのハート。これを見つけることができると恋が成就するというなんとも乙女チックなシンボルだった。

「何それ? ハート?」

「あ、の。これは、その……」しどろもどろになってしまった私は、動揺のあまりあろうことか無線のマウスを落としてしまう。落とした拍子にマウスが余計な仕事をしてくれる。「あ!」と声を上げるころには画面いっぱいに100万ドルの夜景が……。私が一番取りたい写真……私の本心がみんなに見られてしまう。

「日和もそんな夜景なんて見てないで私らの案に乗らない? かったるいからさぁ、みんなで同じこと書こうよ? その方が早く終わるし」

「ね? ぜったそっちの方が楽だって」

「そうすればさ、あとはうちらと遊びに行けるじゃん」

「う、うんそうだね……」

 私はもっとこの町の魅力を伝えたい。でも、そうしないと私は私の居場所を無くしてしまう。もう、そんなこと味わいたくない。


 修学旅行新聞なるネーミングがそのままの旅行に対する気分を上げるしおりの前座みたいな紙を週に1回、各クラスの担当者が書き上げることになった。

 来週はもう私のクラスの番で、私がすべて調べてみたものの何も決まらず今日にいたる。

 私を快くは思っていないあの三人は、どうしてもうUSJに行きたかったという腹いせかすべて食べ物についての記事だった。それも中身はほとんど同じでなんの面白味もオリジナリティーもないから出来上がりも早い。

 ホームルーム。修学旅行新聞第一号が配布されていく中、ふと廊下側の隅っこの文学君と目が合った。気がしただけ。当の本人は私の視線に気づくこともなく、修学旅行新聞に目を通していて私のほうを見もしない。ってかどうなの? 自分はあの時サボってたくせにさ! 今度携帯の連絡先聞いとかなくちゃ! 次サボったらマックの全メニューおごらせてやる!

「よくできてるじゃないか。佐世保バーガーのこともきちんと詳しく載ってるし」相変わらず先生は食べ物のことしか頭にないらしい。

 目を通してみると見開きに大きな大きな佐世保バーガー。お肉もバンズからはみ出ているっていうかこれはもうわざとそうしているんだろう。おいしそうだとは思うけど私はもっと違うことを伝えたい。あの夜景を思い出して、私はつい私の世界に溶け込みそうになる。

「天道もなんか案あるのか? 先生としては次は皿うどんとかがいいと思うんだけど?」

 急に話を振られて頭に描いたきれいな港町が口から思わず出そうになってしまうのを、どうにか寸前のところで止めることができた私はあわてて話を合わせようと試みる。

「そ、そうですねぇ……。カステラとか調べようかなぁ」

「あんた先生の話聞いてたの? 先生は皿うどんをご要望みたいよ?」

 智子のツッコミにみんなが私をいじりだす。おどけて私も笑うことで、この件は何とか流れてくれた。


「そんなわけで、私たちも作らないといけないの。わかった?」小さな子供に言いつけるように優しく言ってみる。

「資料は集まったの?」

 カチンとくるけど落ち着け私よ。

「まだ。だから手伝ってよ今日くらいさ」

 ホームルームも終わり、誰もいない教室で私は文学君をとっ捕まえて尋問……じゃない協力要請をしている。外では野球部員が硬球を打ち付ける音がする。

「別にいいけど、どうせ同じものを作るんでしょ?」

 ……だったら僕はいらないよね? か。

「そう。だってほら、その方がさ、早く終わるし」

「わざわざ人員増やして同じことやるなんて愚弄だと思わない? どうせなら違うことやろうよ。長崎に僕たちはお昼を食べに行くわけじゃないんだし」

「そう! なんだけどさぁ。でも、もう話しついちゃったし……」

「話って?」

 余計なことを言ってしまったと思った時には遅かった。文学君が私をすごむ。

「もしかして誰かと徒党を組んでいたの? 誰かの意見に流されて、自分の時間を浪費しようとしてるの? くだらない。日和さんはどうしたいの?」

 行くよ! って急に手を握られて引きずられるように教室を後にする私はあれよあれよという間に視聴覚室のパソコンの前に座らせられる。

 電源を入れて、パスワードを入れて、起動して、ばれてしまう。

 私が私の使うパソコンに長崎の例の写真を壁紙にしていることを。この夜景をみんなに見せてあげたいという願望を。

「長崎?」

 聞かれた私は小さくうなずく。強要されてわけじゃないけど、なんだか文学君の目の前じゃ私の安い嘘なんて見破られそうで。

「きれいだね。僕なら食べ物よりこっちの宣伝をするよ」

【綺麗だね】が私に向けられた言葉のように聞こえてしまい、思わず唇が震えてしまう。

「本当は、私だってこういうところをもっと宣伝してさ、いい思い出作りたいよ。食べ物とかもいいけど、せっかく見られないものを見られるわけなんだし……。何も恨みがましく書かなくたって」

【何も遊ぶところはないけれど】で始まった今日の修学旅行新聞は、未練がましく始まりみっともなく終わっていた。最近できたばかりの流行地に行きたい気持ちも確かに分かるけど、せっかくの修学旅行を台無しにするような文脈で旅行先を貶さないでほしい。少なくとも今の私にはそこが聖地にすら思えているのだから。

「だったらそうすればいい。何も恥ずかしがることなんてない」

「だから別に誰も恥ずかしいだなんて思ってないって」

「じゃあなんで? そうしないと誰かが悲しむの?」

「そういうわけじゃないけど……。とにかくそんな簡単な問題じゃないんだって」

「……居場所がなくなるとか?」

 図星をつかれた私は、何も言えずに少しの間黙ってしまう。こういう時は早く時間が経てばいいのに……。

「でもそうやっていちいち誰かの顔色伺って、ご機嫌をうかがってさ、それって平和かもしれないけど君は連中の操り人形か何かなの? そんなことしても向こうは君の意志が見えてこないから漬け込むだけで君は君の人生を歩むことはできない。いつまで連中の食い物でい続けるの?」

「……私にそんな説教をして文学君に何のメリットがあるの? 今までサボってたくせに」

「ない。ただ、見ててあまりいい気分ではないってだけ」

 サボっていたことを黙認した文学君。いいよねほんと、そうやって自由に生きられて。私だって本当は誰の顔色を窺わない生き方したいよ。

「だから壊そう。二人ならみんなの意識も変えられるよ」

 二人なら、ねぇ。私はまたこのなんて事のない言葉に深い意味を探ってしまう。唯一非難しても顔色1つ変えない文学君がいつの間にか私にとって唯一学校の中で気が抜ける場所になっていた。

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