第3話桜の木の下で

「どうして母さん起こしてくれないのよ――――っっ!!」

 思いっきり怒鳴って家を出てみるけど、母さんは仕事でもう家を出てしまっている上に時間なんて一秒も縮まることはない。とか冷静に考えてる場合か私!

 もっとまじめで健康的な女子高生なら、賞味期限がまだ余裕な真っ白い食パンを一枚くらい加えて走るかもしれない。そうすればもしかしたらそこの角で今日転校してきたばかりの少しやんちゃなイケメン男子に遭遇したりして……って私は昭和生まれか!

「……ふぅっ」

 私はそんな雑念をすべてこの呼吸で吐き出して、クリーンな思考で路面にしゃがむ。クラウチングスタートの姿勢に移行してカウントする。

 生憎ここには私を応援してくれる友達や、ここで誰かに勝ちさえすれば焼き肉をおごってくれる太っ腹な顧問だっていないけど、その代わり私を変な目で見るような近隣住民もいない。だから私は本気を出せる。

「アン、ドゥ、トロワ!」

 私の利き足はスリーカウント目で小気味いい砂利の音を立てて地面を蹴り上げる。思いっきり踏み込んでやった左足は続く右足にバトンをつなぐ。私は走っている間はその時の気分にあった音楽を脳内再生する。いつもは大体流行っている曲なんだけど、今日は頭の回転がいまいちで記憶と情報がチューニングしない。運動会で流れるようなダサいやつが私脳内に流れる。ワルキューレのなんとかって音楽、前に戦争映画で見たことがあったっけ。

 そんなこと考えているけど、もちろん余裕なんてあるはずがない。玄関前で本格的なクラウチングスタートをしてから十分。いまだに通学路の半分も過ぎていない。ここから二か所ほど難関がある。

 1つ目はかなりの高低差がある丘。坂を上り切った先に、小学校から私の行きつけの個人商店がある。そこにはもちろん駄菓子もあって、一人で店を切り盛りしているおばちゃんは孫がいないせいか私には甘い。その分学校関係の話になると口うるさいのが玉に瑕。菅原楓。御年72歳で、ある意味三人目の私の保護者だ。

 2つ目は1つ目よりもなかなかハードな内容になってしまっている。父さんが務める工場がこれまた上り坂なんかにあるものだから私の体力が付きかけたときに事務員さんなんかに呼び止められたり、母さんに頼まれて父さんが忘れたお弁当を届けに行かなきゃいけなくなったりといろいろ面倒なイベントがあったりする地獄の場所だ。

 遠回りすればもしかしたらこんな思いをしなくても学校につくのではないかと考えて行動に移した時もあったけど、それはそれで友達から彼氏と別れたのかだとかいろいろと面倒が起きるだけで労力に見あった結果を得られないという事実。

 私は誓う。

 今日こそは止まらない。てか、止まれない。

 交差点を曲がろうとも、猫が私をにらみつけてくるいつものブロック塀を曲がろうともバナナを踏んで転ぶようなことも素敵な出会いに巡り合うこともない。それが私の町。田舎。つまらない。なんもない。

「ほんっと田舎!」

 体から汗があふれ出して、干からびる寸前で気が付いた。通り過ぎる菅原商店の中でいつもニコニコと笑うおばちゃんが、私の言葉を聞いた瞬間に真顔になっていくのを。

「ひよちゃん。まさか卒業したら東京にでも行くのかい?」

 呼び止められてしまって、だからといって足を止めるわけにもいかずその場で腿上げしながらおばちゃんに対応する。

「おばちゃんごめん。その話あとで。今日ちょっと急がないと」

 おばちゃんは店の中で窓掃除をしていたらしく、窓越しで私に悲壮な顔をさらしていた。

「急いで東京に行ってしまうのかい?」

「だからそうじゃなくて遅刻しそうなんだって」

 素直にそういうと今度は店の奥からよく冷えたスポーツドリンクをもってきて止まってしまった私に手渡す。ここでもらってしまわないと、おばちゃんがまた変な誤解をする。この間も少しくしゃみをしただけでインフルエンザを疑われ、店の奥から謎の栄養剤を渡されてしまってどうしようものかと頭を抱えて結局目の前で飲む羽目になった。

「ありがとおばちゃん」

「寝坊するほど勉強していたんだねぇ。次のテストはさぞかしいい点を取るんだろ? 今度私に答案用紙見せてみな」

「嫌味なわけ!?」

「いんや。ただ思ったことをそのまま言っただけさ。大学行くだのほざいてた割にこんな時間に登校とはずいぶん余裕があるもんだなってね」

「上等じゃない! 持ってきてあげるわよ! ただし、そん時にもし私が満点とることが出来たら……」

「おう! やってやろうじゃないの! 好きなもんくれてやるよ! その前に遅刻しないで学校に行けたらの話だろ?」

「見てなさいよ! これでも陸上部のキャプテンやってるんだから!」

 言いながら私はもらったばかりのスポーツドリンクを口にする。特有の甘すぎる味が、今は心地がいい。ちらりと見える私の腕時計は、残酷にもこんなひと時でさえ時間を刻む。

「じゃ、おばちゃんまたね」

「気を付けるんだよ」

 

 もし仮に遅刻なんてしたら生活指導のめんどうな先生に怒られるかもしれないから、何かしらの言い訳を今のうちに考えておこうと意識を脳内に移した瞬間、

「あら、日和ちゃん。今から学校? もしかして遅刻だったりして。早くいったほうがいいわよ。今なら工場長みんなと一緒に準備運動してるから」と外を掃除していた事務員の工藤さんが話しかけてきた。内心、遅刻しそうだとわかっているなら話しかけてこないでよだなんてぼやいてしまったけど。

「自主トレです! てかどうしたんですかそのお腹……」

「実はもうすぐ生まれるの。名前とかはまだ決めてないんだけど、もし決まらなかったら日和ちゃんから一文字もらおうかしら」

「そ、そんな私なんて滅相もないっ! でも、元気な子が生まれるといいですね。きっと工藤さん似の美人な子が生まれますって」

「あら、そんなこと言ってくれるの? でも残念。この子、男の子なんだ。だからもし仮に本当に一文字もらうなら和也とか和成とかになるのかな……? 明日から産休に入るからしばらく会えなくなっちゃうけど、元気な子生めるように頑張るから! 日和ちゃんも勉強頑張ってね!」

「はい!」満面の笑みでお腹をさする工藤さん。なんだか見てるこっちまで幸せな、くすぐったいような気分になってくる。私もいつかこんな風に笑う日が来るのだろうか? もしそんな日が来るとしたら、私も工藤さんのように笑ってお腹の子を大切にしたい。だってこの世で生まれるたった1つの命なんだから。……その前に彼氏でも探さないといけないんだけど。っていうのはまだしばらく放置しておく。

「ごめん、ちょっと急いでるからもう行くね」ちょっとどころではないんだけど。私の感覚だとあと十分もすれば門が閉められてしまう全力で走ればなんとかなるかって感じ。

「あんまり急ぐと転ぶからね。慌てず騒がず……」

 工藤さんは話が長いことで有名で、ここでつかまってしまうと本当にやばい。あの間延びするような話し方を聞かされたんじゃこっちまで眠くなってしまう。

「わかった」と私は再び駆けだす。校門まであと少しなのに、やっぱりあの生活指導の先生の顔を思い出すたびにあしが少しだけ重く感じる。まったく、どうしてこうも時間に限りなんて設けるのよ! 夢や目標を掲げる教育思想ってなら時間制限なんて設けるな!


 なんとか父さんにはばれることなく工場を抜け出した私に、障害物はもうなかった。

 いつも暇そうにしているコンビニを通り過ぎ、散歩をしている犬に軽く癒され、街路樹を駆け抜けて、もう散り始めている桜の絨毯が私のトラックだった。

 息が切れそうになる前に、それを上回って心臓が高鳴る。だってこんなところを走れるなんてそうそうないでしょ? 一年あるうちに今だけ、学校生活でだって遅刻しそうな今ぐらいしかきっと走ることはない。そう考えるとなんだかこの道の光景も少し愛おしくて、思いっきり深呼吸をしてみる。桜の花の匂いが、体に満ちていく。それらは私の肺に入っていって、体内で燃焼されてエネルギーに変わる。頭の先からつま先まで、春の力みたいなものがみなぎっていく気がして、私はますます足に力が入る。自己タイム更新するんじゃないかってくらいの足取りで、どんどん加速していってついに上り坂のてっぺんに見えるた! 校舎の真ん中にどんとついている大きな丸い時計! 時刻は、8時10分。あと五分! 私は自分の足に祈りをささげて、両足を振り上げる。地面をけって、体を前のめりに。届け私の体! 遅刻するぞ!

 校門をとらえた私の視界の端には人影がいて、私を見ている気がするけどそれは無視することにする。見てるような余裕はもうないし、話しかけても私は平謝りすることしかできないし、目前の障害物が私の進路を阻んできたから!

 そっちがそうならこっちもやってやろうじゃない! 私は一度だけ体から力を抜いてリラックスする。それが私の儀式なのだ。私の本業の。

「アン」校門から三歩手前、出番よ私の右足! 地面を強く蹴り上げ、上半身で校門をつかむ姿勢を作り出す。

「ドゥ!」校門から二歩手前、おいで私の左足! 今度は少しだけソフトに地面を優しく蹴る。作り出した姿勢を整えて、さらなる一歩を踏み出すために。そして!

「トロワ!!」校門正面、お願い私の右足! もう一度だけ頑張って! 渾身の力で蹴り上げて、校門に手をついて、身をひるがえし見事校門の向こう側の敷地内へと着地する。戦隊もののヒーローみたいにきれいに着地した私を誰かほめてくれないかしら。

 なんて妄想は瞬時に冷めて、我に返る。遅刻はしてないと思う。ただそれは無理やり強引に突っ切ったってだけで、見ていた先生はそうは思わないだろう。

 深呼吸、するつもりが小さなため息に変わってしまう。仕方ない怒られよう。そう思って振り返って驚いたのは、

「ギリギリ間に合ったね」

 桜がはらりと落ちる校門で、竹ぼうきを持つ人は先生じゃなくて、

「ま、まぁこれくらい余裕よ」どこかで見かけたけど、名前も知らない同い年くらいの大人しめの男の子だったからだった。

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