第2話 決意の run away
けっこんしきという言葉を今日何度も口にした。そのたびにその言葉は結婚式という漢字に変換されず、口から漏れ出し、消えた。こういう例えをするのはおかしい話かもしれないけど、私は言葉に味を感じることがある。花という言葉には蜜のような甘みを、空という言葉には突き抜けるミントのような味を。結婚式という言葉にも本来ならば甘い砂糖菓子のような味がするのだと思う。でも、今日迎えるこの儀式には何の味も意味も感じられない。ちゃんと言いつけ通り完璧なまでの私を作り上げて、姿見で何度も確認をする。そのたびにどこか空々しい感情に体が包まれる。包まれる、いや、そんなものでない。私自身からこの空しい感情があふれ出てくるのだ。どうしても、明日の私がどういう顔で彼と何を話しているのか想像がつかない。
そんなもの、普通のこと。そう思いたい自分がいる。この後悔はだれしも感じること。私にはこの道しかなかった。ふと見た姿見の私は、自嘲気味に疲れた表情で薄笑いを浮かべていた。
無理に笑顔を作って見せて自分にまた言い聞かせる。大丈夫。きっとうまくいくから。幸せかどうかなんて別にいいじゃない。こうしないと私たちは生きていけなかったんだから。彼だって別に悪い人じゃない……。
自棄気味の顔から無理に幸せを張り付けた顔になり、顔が素に戻るタイミングで姿見の向こうのドアが開けられる。
「日和? 準備はどう?」
今日、私の伴侶になる彼だった。名前は白鳥樹。小学校からの幼馴染で、名字の通りお金持ち。私は今日、天道日和から、白鳥日和になる。
「ノックぐらいしてよ。一応まだ未婚女性なんだから」
「ごめんごめん。なんかつい緊張しちゃって」
言いながら彼は姿見から私をのぞく。
「きれいだよ。日和」
不意の言葉にも私の心は何も感じなかった。心が、死んでいた。
「ありがと」
そんなやり取りさえも私の心は不感症だった。
最初からそうだった。私は自分に言い聞かせてきた。この道しかないんだ。こうしないと樹に嫌われる。ああしないと樹にうざがられる。そうしないと私たち家族は生きていけない。心が死んで何も感じなくなるのにそう対して時間はかからなかった。
いつしかメイクも顔だけじゃなく心にも施していった。カサカサに干上がった心を見透かされやしないかと、時にはテンションをあげて彼に対してありもしない愛情を注いだ。
私は嘘つきだった。
「日和?」
その言葉で我に返った私は、またどこか薄ら笑いを浮かべていたに違いない。
「ごめん、なんでもないから。それより父さん見なかった? 子供の時から私の晴れ姿見たいってずっと言ってて……」
また私は現実から目を背けようとしていた。現実から逃げてばかりで戦おうともしない私を【彼】はどう思うのだろう。
私が唯一男性という意味以外で使うたった一人の彼。私の目の前で私の容姿しか認めない男のことではない。もっと昔。もう記憶さえも埃にまみれて、セピア色になってしまった彼の面影は今でもまだ輪郭だけははっきりしていて、私が折れそうなときはこうしてなんの前ぶりもなく私の空想の中に降りてくる。名前は――
「また思い出してるの? 月島栞のこと」
言われて気づく。ここは式場で、私は……。
「しっかりしてくれよ。もう昔のことだろう? ここ最近ずっとそうだ。僕が式場の下見してきてもそう、ドレスの試着もそう、何もかも君はそうやって僕を見てくれない。……でも、それももう今日までの話だ。今日をもって天道日和は白鳥日和になる。天道日和はこの世界からいなくなって生まれ変わる。僕の妻として。だろ?」
「そうだね」できるだけ飛び切りの笑顔を作ってごまかす。私は、今日烙印を押される。天道から生まれ、製品化された私という品物は晴れて今日白鳥家へ納品される。
――まったくどうしてそうも落ち着きないんだよ。
どこか懐かしい言葉が頭によぎり、口元が少し緩んでしまう。彼は、月島君なら。文学君なら今の私を笑うだろうか。どうしてそこまで合理的な人間になってしまったのかと。どんなピンチでさえあきらめることのなかったあの頃と比べて、今の私は非力になってしまった。
――みんな一つの方向でしか物事を判断できないんだよ。自分が取り残されるのが怖いんだね。
私も怖かった。家族を失うのが。だから私は文学君と離れることにした。家族を守るため、未来を、守るため……。
「じゃ、俺はそろそろ準備もしなくちゃならないから。そうだ。義父さんも探してくるよ。またどこかでたばこでも吸ってるんじゃないかな? 見かけたら声かけとくよ」
もう、私の耳には届かなかった。思い出があふれて、私にはもう……。
間もなく私は望みもしない祝福の声を浴び、機械的な笑みを浮かべて色のない幸せを手にするために真っ赤なカーペットを歩く。本来ならきっと胃のあたりが締め付けられる痛みに苦しむところなんだろうけど、下腹部に力を少しだけ入れることで痛みがそれる。樹と付き合うようになって身に着けた技能だった。
「まったくどこもかしこも禁煙禁煙。こっちはお前らの倍税金払ってんだぞ?」
扉の開閉の音と同時にその声が発せられて、私は我に返る。本心ではこの式を望んでいない本当の私から、綺麗に着色された人形の私に。
顔を上げ、息をのむ。感情のない顔を樹に見られるわけにはいかない。私は今日、幸せになるはずの女のだから。
「……日和。綺麗になったな。昔の母さんそっくりだ。……でも、まぁ母さんのほうがきれいだったけどな」
その声に、一瞬だけ心が緩む。私の父さん。天道明。手はごつごつしてるし体はいつも工場で使う油のにおいがしていて式場にだって軽トラで来るような人だけど、私にとっては一人きりの父さん。私の見方でいてくれて、私の気持ちを汲んでくれる人だった。
「母さんにも見せてあげたかったね。私の晴れ姿」
「何言ってるんだ。母さんだってほら、連れてきたぞ」
父さんは背後から少し照れくさそうに母さんが笑っている額縁に収まったままの写真を私に見せる。
「……すまなかった。もう少し工場だってうまくやっていればこんな……。母さんだってまだ生きていられただろうし、俺は本当に……」
「父さん……。いいんだよ。これしかなかったわけだし、母さんだってちゃんと長生きできた。全部父さんのおかげ。私、今幸せよ?」
心に化粧を施していても、そっちのほうがきれいに見えることだってある。私は目いっぱいその心で笑って見せる。私は今、幸せなのだと。
「無理、しなくてもいいだぞ?」
「ううん。文学君と別れたのも私の意志。タイミング的に仕方のないことだったんだよ。……まぁ、あの時は珍しく私に怒鳴り散らしてきたんだけどね」
──自分を殺して人に従うつもりなのか? 君らしくもない! もっと素直になってよ!
何もかも文学君にはお見通し。私がその日泣いたことも。髪を切ったことも。全部文学君が言い当てたっけ。
「彼、この町に来てるそうだ。十年、約束したんだろ? 会いに来るって」
何かが、少しだけ私の中の秒針のようなものが、思い出したかのように動き出す。記憶が、表情が、心がそれに追いつかない。
彼が、来ている。ようやく口にしたそれは私の体からこわばりを洗い流してくれる。もう一度同じ言葉を口にすると、今度はなんだか甘い言葉なような気がして少しだけ気恥ずかしくなっていた。
「でも、今更そんなことできないよ。今日だって」
「父さんな、工場、つぶしてきた。今日から父さんは無一文だ。いやーまいったな。ほんと、どこかに俺にでもできる仕事を紹介してくれそうな世間知らずの引きこもりはいねぇもんかな」
私の言葉を遮るように父さんはそう早口でまくし立てる。いまだに状況を飲み込み切れていない私を置いて、父さんはポケットから借用書を引き裂いてゴミ箱に捨てた。その紙片にはしっかりと白鳥の判と天道の判が押してあった。
「父さん、これ……!?」
「気にするな。父さん、あまりにも日和を犠牲にしすぎた。本来なら俺一人で何とかしなきゃいけないのに、従業員盾にして……。挙句、母さんまでこんな……。今日をもって白鳥家から我が家は離脱する。お前は自由だ。行きたいんだろ? 本当はあいつのところに」
「でも、わ、わたしっ」
「ったく、お前は。あ、たばこがねぇ……。日和悪いけど買ってきてくれないか? 父さんな、こう肩の荷が下りるとたばこ吸いたくてしょうがないんだよ」
「父さん……」
車のカギを無くしてしまったと私をうかがうような視線を送る父さんのポケットから父さんの軽トラックのカギがしっかりと見えていた。気づかないはずがない。そんなありえない行動をするのは――
「仕方ないな! たばこ、買ってきてあげる。ちょっと遅くなるかもしれないけど……ちょっと待ってて」
私はドレスも何もかもそのままでぱっと立ち上がり、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
「日和、彼にあの時はすまなかったと伝えといてくれないか? あと、茶でも飲みにうちに来いって」
私は父さんの言葉に、少しだけ動揺してしまった。でも、
「うん。ちゃんと伝えとく」
私は止まらない。私は十年の約束をかなえるべく、顔も思い出せない彼に会いに行く。
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