第16話 飛び蹴りしたい背中
ポニャンタがパメラ荘の住人として迎えられてから、数日後の夜。
管理人室のチャイムがなった。
なんだ? 住人の誰かが忘れ物をしたのだろうか?
「はーい」
返事をしてドアを開ける。
そこには不気味に頬がこけ、異様に背の高い、痩せたスーツ姿のおっさんが立っていた。
「え……と、どちら様でしょうか?」
おっさんは顔写真と名前の書いてある、セキュリティカードのようなものを見せて名乗った。
「私、内閣情報調査室 国際情報分析補佐官の篠本と申します。楠カオルくんだね。今日は少し話があり伺わせてもらった。お時間よろしいかな?」
知的で冷たい声。
はい? 内閣情報調査室ってなんだ。
警察がらみなのか……?
先日ペットとして迎えたポニャンタだってタヌキじゃなかったし、バイクでちょっとスピードオーバーしたからか?
いや、それくらいでわざわざ家に来るわけが……
「はは、驚かせてすまない。警察の人も一緒に来てるが、別に捕まえるためだとかそういうわけじゃない」
篠本は後ろを指差すとシルバーのクラウンがアパート前に停車していた。覆面パトカーでよく見るやつだ。
管理人室を探るように篠本が覗き込み、不気味に微笑む。
「邪魔するのも悪い。外で話をしたいのだが、いかがかな?」
警察の任意同行なら拒否してもいい。そのくらいの知識しかないが、このおっさんからは拒否する隙は与えないという気圧を感じた。悪いことはしてないはずなので、素直に従って外に出る。
「ありがとう。これは取り調べでもなんでもないし、そもそもそのような権利は私にない」
篠本は電子タバコを吸い始めた。
「じゃあ話ってなんですか?」
「ただ忠告したいことがある。ロテ・エペリを知っているね?」
エペリについて? 俺は他の住人にセクハラまがいなことはしたが、あいつには何もしとらんぞ。
「もちろん知ってます」
「彼女には必要以上に近づかないでほしい」
一体何を言ってるんだ、このおっさん。
エペリに恋してるらしい。
「理由、説明してほしいです」
「知らない方が君のためだが、どうしてもというなら話す」
「近づくなと言われただけじゃ、納得しないですね」
「ふん、若いな。良いだろう。これから話す内容は国の機密にも関係する」
国の機密? わけがわからない。
「ロテ・エペリ。彼女は身分を隠しているが、南太平洋の小さな島国、マグア連邦の王族で王位継承者の要人だ。だが父である王の教育方針で一般留学生としてここに住んでいる。まったく監視をしなくてはいけない我々にとっては迷惑な話だよ」
こいつ、一体なにを言っているんだ?
「本来であれば、その程度の王族なら特別な警備は必要としない。警視庁警護課のやつらに任せておけばいい。だが彼女の国マグア連邦は現在、日本のみならず世界にとって特別な存在だ。
マグア連邦は次期、国連安全保障理事会の非常任理事国として選出されている。
エペリの国は伝統的に日本と友好関係であり、マグア連邦は日本と西側諸国の価値観を共有し支持している。無論、日本を含む西側諸国はマグア連邦の安保理での一票を、とても重要なものだと認識している」
このおっさん、妄想癖のあるやばいやつだ。
「全く理解できん。そのエペリが重要な国の王族だとして、俺に何の用があるんだ?」
「さっきも言ったはずだ。『エペリに必要以上に近づくな』と。エペリが関係するリスクの一つにカオル君、君がいる」
「どういうことだ。俺が一体エペリに対してどんなリスクがある?」
篠本は俺を威圧するように睨んでくる。
「つまり君のような下級国民がエペリに手を出し、そのスキャンダルがマグア連邦の王に知れ渡るのを我々は怖れている。もし絶大な権力を持つマグア連邦の王が、姫であるエペリのスキャンダルを聞いたとしたら……日本との外交関係は当然悪化するだろう。
結果、西側陣営からマグア連邦は離れ、対立する覇権主義陣営に安保理の票がまわり、世界の民主主義の理念は大きく後退することになる。君の股間は世界のリスクだ! このアパート内だけのおふざけでは済まない話。世界の命運が君の股間にかかっている!」
下級国民? 世界の命運が俺の股間にかかっている?「そうなんですね、わかりました」なんて言うわけないだろ!
ふざけやがって。このおっさんの妄言も聞き飽きた。
「怖がる必要はない。内調と公安が連携し、この問題に対処している。
我々は仲間だ。この情報を知ってしまったからには、君には日本政府の協力者になってほしい」
「もういいよ、部屋に戻ってもいいか?」
妄想には付き合ってられん。俺は部屋に戻ることにした。
「ハハハッ! つい難しいことを喋りすぎてしまった。今日はこれを最後にして失礼しよう。事は単純な話だ。若者向けにわかりやすく話す。『エペリにえっちなことするな』そんなことは止めて、君と一緒にすむアヤメちゃんとやらと、好きなだけエッチなことをしてればいい。私もエペリよりプロポーションの良いアヤメちゃんの方が好みだな」
無視して帰ろうと思ったがカチんときた。なんでお前がアヤメのことを知っているんだ。
『君はアヤメのことが好きなんだろう』そう笑われたような、恥ずかしさがあったかもしれない。
だがなにより、アヤメを出しにして、セクハラまがいのことを言われたことに腹が立つ。
振り返ると、篠本は背を向け、パトカーに戻ろうと歩き出していた。
「……待てよ。篠本! 何勝手に決めつけてんだ‼」
「えっ?」
「俺がアヤメとだけエッチなことをしていろっていうのか⁉ さっきから意味の分からない、ふざけたことを言いやがって! 俺はアヤメだけじゃない。エペリも可愛いって思ってる! 出来ることならエペリともイチャイチャしたいんだ! 勝手に決めつけんじゃねえ! それに、アヤメをセクハラの出しにする男は……」
半分言いがかりみたいなものだと思ったが、気づいたら篠本に飛び蹴りをしていた。
「俺だけなんだよおおおおおお!」
「ほんぎゃああーー!」
篠本は転がって倒れこみ、俺もそのまま地面に落下した。飛び蹴りなんてしたことがないから、受け身を取れず、衝撃で篠本と一緒にもがき苦しんでしまう。
「篠本さん!」
騒ぎを見て、停まっていた覆面パトカーから、モッズコート姿の若い女が飛び出してきた。
前下がりのボブヘアにスレンダーな美女。だが見惚れる隙もなく、手慣れた柔術で俺を地面に組み伏せた。
「バカなことをしたな。これも警察の仕事だ」
女が冷静な声で呟く。俺は抵抗する暇もなく手錠をはめられ、覆面パトカーに詰め込まれた。
「赤島刑事、腰が痛いよぉ……」
「まったく、世話の焼ける人ね」
赤島と呼ばれた女刑事は泣き言を喚く篠本を背負った。
篠本は助手席に乗せられ、赤島の運転でサイレンを鳴らしながらパトカーを緊急発車させる。
そのまま俺は警察署に連行された——
警察署では取り調べはされず、酔っ払いが入るような保護室に二時間ほど放り込まれていた。
やがて腰を押さえながら篠本が現れ、
「本来なら暴行罪で起訴されても仕方ないぞ」
などとこっぴどく叱られた。
本物の政府関係者なのかも知れないと考えた俺は、
「妄想癖のやばいおっさんだと思ってました。すみませんでした」
と平謝りを繰り返し、夜の二十一時過ぎに解放された。
疲れ切った状態でアパートに帰ると、廊下で寂しそうに脚を抱えて座っている人がいた。
俺が近づく足音に気づいたようで、そいつは座ったまま顔を上げる。
アヤメだった。目の周りが赤くなっていて、目が潤んでいる。彼女は放心したように俺を見ていたが、すぐ睨むような表情に変わり立ち上がる。
「カオル! 探したんだからね。スマホも置いて一体どこに行ってたのよ」
スマホを持つ暇なくパトカーに乗せられたからな……
「警察署」
「えぇ⁉ あんたが変態なのはわかってたけど、性犯罪者にまで成り下がるなんて……私悲しいわ!」
「犯罪はしてねえし、なんで性犯罪に決めつけてるんだよ!」
「じゃあどうして警察署に行くの?」
「それは……」
エペリは南の国のお姫様で、エペリじゃなく、アヤメとイチャつけと言われてムカついたから……
なんて言えるわけもない。答えに困っていると三号室からマオが出てきた。
「おかえり」
「ただいま。悪いな、夜中にアヤメと騒いでしまって」
「ちょっと、話そらさないでよ。マオ聞いて、この人ついに警察に御用になったの」
「だから犯罪はしてないって言ってるのに、話をややこしくするな!」
アヤメと言い合っていると、マオはスマホを見せてきた。
「キミがさっきの人と喋っているところ撮った。『変態管理人、警察を蹴ってパトカーで連行される』って動画で投稿していい?」
「「えぇっ⁉」」
俺はさっきのやりとりが撮られていることに驚き、アヤメは警察を蹴ったことに驚いていた。
「カオル! あんた、何をしでかしたら警察の人を蹴るの⁉ 私はそんな人に育てた覚えないわよ!」
頓珍漢なアヤメは放っておこう。
「マオ、いつの間に撮ってたんだ?」
「管理人室に三脚忘れて取りに行こうとしたら、キミが怪しいおじさんと喋ってたから。アパートの隅に隠れてパトカーに乗せられるまで撮った」
マオに動画を見せてもらう。離れて撮影したからだろう。最後の叫び声は入っているが、途中の重要な会話は幸いにも録音されてないようだった。
それでも相手は内調や警察。動画投稿はやめたほうがいいか……そう思ったが。
「お願い」
マオがおねだりする時にやる、体を近づけた上目遣いで俺を見つめてくる。
どうしよう。動画の篠本を見ているとやっぱりムカついてきた……
「わかった。全員にモザイクかけて、最後エペリとアヤメの名前を叫んでいる部分に、ピー音を入れるなら許可する」
「ありがとう……キミの飛び蹴り、面白かった」
そう言い残し、マオは部屋に戻ってしまった。
不満そうな顔つきで、ずっと横から俺を見ていたアヤメが口を開く。
「ちょっと、私を無視しないで!」
「あぁ、聞いてはいるぞ」
「もう……私、本当に心配したんだからね……」
アヤメを見ると目には涙が浮かんでいた。
疲れて冷たくあしらっていたが、本当に心配してくれていたのだと実感し反省する。
「……心配させて悪かった」
アヤメは不意に出た涙が恥ずかしいのか背を向けた。
そのまま泣いているのを隠そうと、静かにすすり泣いている。
その健気な背中が、やけにいじらしく思えてきた。
「……お前が大切だから蹴った」
アヤメの体がぴくりと動く。
後ろ姿だから表情は見えない。
「わ、私のことと、警察を蹴るのになんの関係があるのよ」
「さぁ……なんだろうね」
また怒気を含んだ声に戻ってきたので、アヤメを置いて部屋に戻ろうとする。
相変わらず背を向けて顔を見せてくれない。
「心配して損した。そのまま捕まってればよかったのに!」
デレた姿を期待したが、残念ながらツンとしたままだ。
ガチャンッ
俺は先に管理人室に入り、ドアを閉める。
「あぁ!」
ドアの外から間抜けな叫び声と、焦って駆け寄る可愛げな足音が聞こえた。
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