第33話 33

待ち合わせは朝10時。

私はスマホをもっていないから、前日の夜にメールで時間と場所を決めた。

どちらかが何かの理由で来れなくなっても知る術はないし、そうなれば私たちは会えないままだ。

考えにくいがあり得ないことではないので変に緊張した。

しばらく目が冴えていたが色々考えるうちに眠っていた。Sが夢に出てきたけれど、どんな内容だったかは忘れてしまった。後付けの記憶かもしれないけれど、多分彼女は笑っていた。


私は約束の20分前くらいに集合場所に着いた。

もちろんSの姿はまだない。多分、彼女のことだから時間ちょうどか5分後くらいに現れるだろう。

今時高校生にもなって、それも卒業して尚、連絡手段を持たない人間なんて絶滅危惧種じゃないだろうか。思わず苦笑する。

両親の厳格さは今に始まったことではないが、彼らの資質をしっかり受け継いだ自分もなかなかだ。私に貼られた、真面目で頑固な変わり者というレッテルもあながち間違いではない。


Sと出会ってからの時間はそれまでの人生で一番濃い時間だったと言い切れる。

こんなに多くの人と関わったのも、特定の相手を深く知りたいと思ったのも初めてだった。

言葉で表せないほど感じた深い繋がり。

立ち直れないほど傷ついて知った痛み。

同じ色に染まりたくて、自分を偽った日々。

それがいつの間にか自己満足になって、気がつけば本当の自分は虚構に塗り潰されてどこにもなくなっていた。

喜んでもらいたくて崖から飛び降りる思いでした戻れない変化はかえって失望させた。

その頃には引き返せなくなっていた。


私は全てを失っても彼女を手に入れかった。

いや、全てを失ったから最後に縋ったのかもしれない。

彼女は全てを手に入れたがった。自分が望みを諦めないのと同様に、私に何も諦めさせまいとした。

彼女が望むような、どこまでも隣で手を取り合い全力で走っていける存在でありたかった。

その期待に応えられなくて、裏切ってしまった自分を私は一生許さない。

翼を失った天使は地を這い、落伍者の烙印を背負って生きるしかないのだ。


苦しいことだけではなかった。Sは私の中の凝り固まった偏見を取っ払ってくれた。それまで関わってこなかった人と交流するようになった。よく笑い、冗談も言えるようになった。

Sと会わなければ受験戦争の勝者にはなれたかもしれないが、一生他人を内心軽蔑して人間らしい関わりや感情を持つこともなく孤独なままだっただろう。


ある時Sは私の一部だった。

彼女も同じだったと思う。

私たちには間違い無く確かな絆があった。

傍にいて手を繋ぐだけで無敵だと思えた。

離れる時は名残惜しくて、わざと回り道して話を長引かせた。ようやく手を振って別れてからも、数歩歩いて振り返り彼女の背中を目で追った。向こうもこちらを振り返っていて目が合った時はくすぐったい気持ちになって笑い合った。


朝の電車で、彼女が使う駅に着くとホームに居るはずのない彼女の影を探した。いないのを確かめると再び単語帳を読みながら今日Sに会ったら何を話そうか考えた。想像するだけで口元が緩んだ。それまでは成績の貼り出しの時でさえ他人の番号は全く気にならなかったのに、彼女の学籍番号を覚えて帰る前に靴箱を確認するようになった。まだ靴があったら偶然会えないかと思って用もないのに下駄箱と同じフロアの職員室前を歩いたりした。


夏期講習はSが通う塾の体験講習を受けた。

最初に誘ったのは彼女の方からだったが、本当に実行するとは思わなかったらしく塾で会った時は目を見開いていた。休日に遊ぶことはなかったから、塾で会うのはなんだか新鮮だった。自習室で姿を視界に認める度に胸が騒いだ。


体育祭はラストダンスを一緒に踊った。うちの学校の伝統でフォークダンスを踊る伝統がある。輪になってペアを変えながら踊るのだが、ラストダンスの時に本当は順番ではないのに強引に手を取ってくれた。目に映るのはお互いだけで、世界に2人だけのような気分だった。


音楽祭では私の演奏を最前列で聴いてくれた。

自分が演奏するわけでもないのに、祈るように手を胸の前で組んで緊張した面持ちでこちらを見ていたのが印象的だった。

芸術祭はお互い約束している友達がいたけれど、時間を合わせてこっそり一緒に展示を見て回った。Sは上手くないからと恥ずかしがったけど、彼女の習字の作品の写真を撮った。


もっと素敵な思い出も沢山ある。苦しい思いも、それだけ。

でも今言えるのは、他の誰が何と言おうとSに出会えてよかったということだ。

燃えるような恋をしたこと。求められる喜びを知ったこと。惨めに縋って突き放されたこと。どうしても手に入らないものや諦めないといけない時があること。

結局失ってばかりだったけれど、全ての経験に意味があった。


Sは約束の5分前に現れた。

ラベンダー色のネイルをして、いつもアップにしている髪を下ろしてなんだか大人びて見えてドギマギした。

初めて行くお店に私が道順も知らないのに勘で歩いていこうとしたら、怒られて途中からナビを使って歩いた。

こういう所1つとってもSは几帳面で効率的だ。

彼女は目的のない無駄な苦労を嫌う。私はどんなに回り道になってもゴールまでにリカバリーできれば気にならない。

あげだしたらキリがない程、私達は合わない。

何か意見が合わないことがある度、私達は口論をした。

当然、パンケーキを食べてウィンドウショッピングをしてカラオケをして、また駅のある大通りに戻る頃には私達はかなり消耗していた。

時刻は5時40分過ぎ。解散は6時位の予定だった。

家を出る時、「Sさんによくお礼とお別れをしてきなさい」と言われたことを思い出した。

ふと我に返って、Sと出かけるのもこれが最初で最後になるかもしれないと思うと急に寂しさが湧いてきた。どうでもいい口論で、ぎすぎすした気持ちのまま終わるのは嫌だった。そう思うとそれまで拘っていたことなんてどうでも良くなって、私は黙りこんでしまった。Sは大人しく意見を引っ込めた私に拍子抜けしたようだったが、私の目に浮かんだ涙に気づくと途端に慌てた。


「これが最後かもしれないから…」

私は鞄から封筒を取り出して、Sに押し付けるようにして渡した。

Sは私の顔と封筒を交互に見やりながら、

「泣かないでよ…」

と途方に暮れたように言った。

「今、読んでいい?」

と聞く彼女に、黙って頷いた。


Sに手紙を渡すと肩の荷が下りたように気が楽になった。

もうどうにでもなれだ。

別れ際に渡そうと考えていたから、今日一日懐に爆弾を抱えている気分だった。


手紙を渡すことは、会う約束をした時から決めていた。

どんなに傷つくとしても最後に忘れられない思い出が欲しかった。

Sにも私の存在を胸に刻んで欲しかった。

このままで終わりたくなかった。

一緒の未来はないとしても、せめて最後の引き際くらいは綺麗に。


これから私達は違う場所で違う人生を歩んでいく。色んな人と出会いと別れを繰り返して、いつかは恋をするだろう。

でもSが恋をする時に決まって思い出すのは私であってほしい。なんて考えるくらいに私は相当歪んでいる。


そんなことは言えるはずもない、もちろん手紙にも書けない。

臆病者の私は最後まで、あなたにだけは伝えられない。

だから、手紙の中では最大限嘘じゃない言葉を紡いだ。


出会ってくれたこと、私を見出してくれたこと、学校という戦場で生き抜く上の教訓を教えてくれたことに感謝していること。

おかげで自分が変われたこと。毎日が楽しくなったこと。新しい自分を好きになれたこと。

こんな出会いはこの先一生ないであろうこと。

私を認め鼓舞し刺激をくれる存在は他にないこと。

繊細かつ大胆で、現実主義で一途に努力するあなたを心から尊敬していること。

転んでもただでは起きず、欲しい物は必ず手に入れる、貪欲な姿勢。

私にはない美点が眩しかったこと。

そして謝罪。

彼女の優しさ、寛容に漬け込んで困らせたこと。自分が努力できず腐っているのを棚に上げて当たったこと。

それでも、これからも彼女の成功を信じて応援していること。

そしてやっぱり。どうしようもなく。


「大好きです」


解けない呪い、おまじない。


**********************


手紙を読み終わる頃には、Sの目にも涙が浮かんでいた。

私は緊張しながら、彼女が口を開くのを待った。

引かれただろうか。それでも仕方ない。

最後くらい胸の澱を見せても罰は当たらないと思ったのだ。


Sは言葉を選びながら、ゆっくり話し始めた。

「手紙、ありがとう」

「うん」

「一生懸命書いてくれて嬉しかった」

「…うん」

こんなやりとりももう出来ないと思うと、私は涙が止まらなかった。

するとSも顔をくしゃっとさせて、涙を拭ってくれた。

あやすように私の背中を叩きながら、

「泣かないで、スマホがなくても手紙は書けるしきっとまた会えるよ」

と言った。

「そんな、いつになるかもわからないことを言って期待させないでよ…」

詰るように言ってさめざめと泣く私を見てSは困ったような笑顔を浮かべてしばらく黙っていた。

私の涙が少し収まると、

「泣き顔は不細工に見えるからやめんさい」

とおどけて言ってきたので思わず笑ってしまった。笑おうとすると横隔膜が刺激されてまた泣きそうになる。

するとSは私が落ち着くまで、髪を指で梳きながら抱きしめてくれた。

久しぶりにSがくれるこの温もりも優しさも、これで本当にお別れだという現実を一層突きつけられるようで、私は無性に泣けて仕方無かった。


「これは誰にも言ったことがなくて、ちょっとびっくりしたんだけど」

Sはそう言って便箋の型押しを指さした。

クラシカルな白地に薔薇の型押しの上から金色のラメが散りばめられているデザインで、さり気なく"33"とプリントされている。

手紙を書いている時は特に意識していなかったので、私は意味がわからずと首を傾げた。

「33は私にとって大事な数字なの。受験もだし、人生でここ一番という大事な時のラッキーナンバーというか。だから運命を感じちゃった。」

彼女は私の髪を触りながら、私を見つめている。それなのになぜか遠くに感じる。彼女が私の向こうに何を見ているのか、わからない。彼女の感情が読めないのは初めてだった。

「私の方こそAに出会えて本当に良かったよ。Aなら絶対に夢を叶えられるし、受験の結果も心配してない。もちろん、合格であるように祈ってるけれど。」


それから私達はいくつか言葉を交わして、ハグをして、手紙を書くと約束して、手を振って別れた。Sの表情を忘れないようにしたかったのに、最後まで涙のせいで目の前が霞んでよく見えなかった。

後ろ髪を引かれる思いで、なんとか背を向けて数歩歩き始めた時、すぐ耳の後ろで

「待って」

と鋭い声がした。

思わずその場で硬直すると、

うなじに何かが触れるのを感じた。

「*****」

体温が溶け合って同じになるまで私達は雑踏の中で時が止まったように立ちつくしていた。


どれくらいそうしていたか、一瞬のようにもしばらくの間だったような気もする。

徐ろにSの唇がそっと離れた。体温をすぐそこに感じる。

今手を伸ばせば、振り返ればまた離れられなくなってしまう。

だから振り返ってはいけない。

涙を堪えながら、私は顎を上げて歩き出した。

後ろでSが立ち止まって見送ってくれているのを感じた。

見えない糸で吊るされているつもりで、背筋を伸ばして大股で歩く。迷いを振り払うかのように早足で。まるでSに出会う前の私みたいに。

もう2度とこんなに誰かを好きになることはないだろう。




結局、Sが言った通り私は滑り止めに合格し大学生になれた。

どういうわけか上京することになり、親元を離れて一人暮らしをすることになり、スマホを持つことになった。

電話番号を決める時、店員がいくつかの候補を出してくれた。

ランダムで数パターンごとに次々とモニターに示してくれるのはありがたいが、どれもいまいちピンとこない。

とその時、ある番号が目に留まった。

末尾が33,あなたの好きな数字。

「これでお願いします」



ふとネットニュースを見ている時、目に留まった記事があった。

あるスポーツで世界を席捲した選手がインタビューで新たな挑戦について語っていた。

私も幼稚園の頃からの憧れで、国を背負って何度も大舞台に挑戦し多くの人に夢や希望を与え続ける彼女はまさしく国民的アイドルのような存在だった。

引退後も競技とは違う舞台で活躍していることは知っていたが、今回の取材で彼女が掲げたスローガンに、私は思わず目が釘付けになった。

風が本のページを捲るように、一気にあの日に引き戻される。忘れられない感触。彼女の声、涙。出会いと別れの季節の夜。


33本の薔薇の意味は、『生まれ変わってもあなたを愛する』。

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薔薇の棺に眠る者は 長谷川 千秋 @althaia

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